自叙伝・人類の涙をぬぐう平和の母 第34話
心と心をつなぐ幼き天使の合唱
ある日、イギリスから一枚の招請状が届きました。
一九七〇年代の初め、韓国から一般の人がイギリスに行くのは極めて困難なことでした。ところが、イギリス王室がリトルエンジェルスを招請するという、驚くべきことが起こったのです。韓国どころか、東洋で初めての快挙でした。リトルエンジェルスの一行は急いで荷物を詰め、飛行機を何度も乗り継いでイギリスに向かいました。
一九七一年に女王エリザベスニ世の前で行われた御前公演で、参加者は完全に大韓民国の子供たちの虜となりました。愛らしくもダイナミックで華やかな公演に、何度もスタンデイングオペーションが起こり、翌日は新聞や放送局が、この公演を大きく報道しました。こうして韓国は、「貧しい国」ではなく、「文化と伝統が息づく国」として、イギリス人の心に新たに刻まれたのです。
リトルエンジェルスの歌が響き渡つた国は、六十ヵ国を超えます。五大洋六大州を巡回しながら七千回近く公演を行い、テレビには六百回以上出演しました。謁見した大統領や総理は、
百人以上に上ります。アメリカ独立二百周年公演、日本十大都市公演、韓中国交正常化十周年公演、南米巡回公演など、世界各地で行つた公演は、常に賛辞と拍手喝采を浴びました。一九九〇年の春に行われたソ連のモスクワ公演では、共産主義者の凍りついた心を溶かし、一九九八年五月の北朝鮮・平壌公演では、南北間を和解に導く牽引車の役割を果たしました。
リトルエンジェルスの最も意義深い公演の一つが、「韓国動乱参戦国巡回公演」です。私たちは韓国動乱勃発六十年を期して、二〇一〇年から、参戦国十六ヵ国の生存している参戦兵士たちの元にリトルエンジェルスを送って、慰問公演を行いました。「受けた恩は返す」という精神で、リトルエンジェルスは三年間かけて、医療支援国を含む二十二ヵ国を巡回し、参戦兵士を称える「報恩公演」を行ったのです。兵士たちはいまだ鮮明に韓国を覚えており、韓国を愛していました。
もう六十年も経ったのに、今さら報恩公演をする意味があるのかと、懐疑的な人もいました。政府主導ではなく、民間の使節団だということで、なおさらそう思ったのでしょう。しかし、リトルエンジェルスが訪問すると、その国の参戦兵士たちは色あせた軍服に武功勲章を着け、誇らしげな表情で公演を見に来ました。
当時、アフリカから韓国に駆けつけたエチオピアの兵士たちは、その後、恵まれない環境に置かれていました。共産主義政権が発足し、参戦兵士たちはみな、首都アディスアベバ郊外の山の頂にある韓国動乱参戦兵士村に移住させられたのです。そこは実際、収容所と変わりありませんでした。参戦兵士の家族も共産主義政権から迫害を受け、貧困と飢えに苦しんでいました。勲章をードルで売って生計を維持したという、胸の痛むエピソードもありました。
彼らは、韓国から幼い天使が自分たちに会いに来たと聞いて、初めはびっくりするばかりでした。その昔、貧しくぼろをまとっていた分断国家が、今や堂々たる先進国として、恩を忘れず訪ねてきたのです。彼らは目に涙を溜めながら、感謝の気持ちを表してくれました。リトルエンジェルスの公演をきっかけに、参戦兵士に対する待遇が変わったのは、予期していなかった成果の一つでした。
バラク.オバマ大統領(当時)も参加したアメリカのワシントン公演では、「アリラン」と「ゴッド.ブレス•アメリカ」を歌うや否や、八十代の老兵たちの目から、あたかも申し合わせたかのように、一斉に涙が流れました。デンマークのnペンハーゲン公演では、ベネディクテ王女が元兵士約三百人と共に観覧しました。
二〇一六年、ネパールで開かれた「世界平和国会議員連合」の大会でも、リトルエンジェルスは輝きを放ちました。カトマンズ空港に着いた時から、ネパールの学生や市民の熱い歓迎を受けた子供たち。彼らは大統領府をはじめ、各会場で公演を行い、あどけない天使を一目見ようと集まった多くの人々から称賛を浴びました。
「リトルエンジェルスは、神様の使命を果たし、世界中に平和を広める天使たちです」
子供が一人でいれば、与える影響は小さいかもしれません。しかし、その子供たちが集まり、純粋な心で歌を歌えば、天の合唱になるのです。その歌声が大人たちの利己心を溶かし、戦争と葛藤を消し去ります。人々はよく、政治が世の中を動かすと思っていますが、そうではありません。世の中を動かすのは心情の文化であり、芸術です。人の心の奥底を震わせるのは、理性ではなく、感性です。それを#{け止める心が変われば、思想が変わり、制度が変わるのです。
半世紀前に始まったリトルエンジェルスの挑戦は今、世界中の人々を熱狂させるK-POPや韓流としても、実を結んでいます。地球のどこに行っても、韓国文化に向けて拍手喝采が起こります。その感動の第一歩が、一九六五年に行われたリトルエンジェルスのゲティスバーグ公演でした。その日の清らかな歌声は、今も人々の胸に刻まれています。純粋な子供たちが、その踊りや歌を通して、私たちはみな芸術によって一つになれるという真理を、一つになれていない大人たちに教えてくれたのです。
芸天美地、天上の芸術によって世の中を美しく
私の夫は常々、このように語っていました。
「バレリーナがつま先でピンと立ち、頭を天に向けて持ち上げる姿は、それだけで神様に対する完璧な畏敬を表しています。それほど切実に見えるものはほかにありません。バレエは、神様に対して愛を表現する最高の芸術です」
一九八四年、リトルエンジェルス芸術学校(現、仙和芸術中.高等学校)の才能あふれる卒業生たちが、世界的に有名なモナコの王立バレエ学校、イギリスのロイヤルバレエ学校などへの留学を終えて、帰ってきました。そこで私たちは、その若い英才たちの教育を支援するだけにとどまらず、彼らが優れた才能を舞台の上で思う存分発揮できるよう、プロのバレエ団である「ユニバーサルバレエ団」を設立したのです。
ユニノーサルノレエ団の主軸としてリトルエンシエルスの団員として活動後、モナコの王立バレエ学校を卒業し、ワシントンバレエ団で首席ダンサーとして活動していた文薫淑を立て、初代芸術監督にはエィドリアン.デラス氏を抜擢しました。相変わらず世間では私たちに対する批判が渦巻いていましたが、彼らは骨身を削るょうな努力を積み重ね、一九八四年の夏、ついにバレエ「シンデレラ」を、創立公演としてリトルエンジェルス芸術会館(現、ユニバーサルアートセンタ1)で披露したのです。
その時代、韓国のバレエといえば、国立バレエ団しかありませんでした。競争相手もない中、国内での活動を行っているだけだったので、世界のバレエ界から見れば、韓国はまさに辺境でした。ですからユニバjサルバレエ団の創立は、後日、韓国バレエを世界に跳躍させる出発点となり、辺境から中心に進み出る橋頭堡となったのです。
それからはや三十五年、ユニ.パーサルバレエ団は変わることなく歩み続けてきました。初公演となった「シンデレラ」をはじめ、二〇〇〇年代の初めまでは主にロシアのクラシックバレエを継承していましたが、その後はヨーロッバのドラマティックバレエから現代バレエまで、その幅を広げてきました。これまで二十一ヵ国、千八百回以上の巡回公演を行い、百本以上の作品を披露して、韓国を代表するバレエ団へと成長したのです。
ユニバーサルバレエ団は「芸天美地、天上の芸術によって世の中を美しく」というビジョンを掲げ、韓国的でありながらも世界に通用する公演を行うことで、独自色を出すことを追求しています。ジョン.クランnの傑作「ォネーギン」を、東洋のバレエ団では二番目に、韓国のバレエ団としては初めて公演し、ヨーロツバのドラマティツクバレエを紹介することに成功しました。また、イギリスのロイヤル、ハレエ団の名作であるケネス.マクミランの「ロミオとジユリエツト」も韓国のバレエ団として初めて公演し、韓国バレエの地位を高めました。
韓国固有の伝統を基にした創作バレエも、多数つくりました。代表作が、一九八六年初演の「沈清」です。これは十ヵ国以上、合計二百回を超えて上演され、世界中の人々の心の琴線に触れた作品です。二〇一二年にはバレエの本場であるモスクワとパリに招かれ、韓国の美を披露してきました。韓国の古典文学をバレエで表現した「春香」や、子供用にリメイクした「パレエミユージカル沈清」も、大きな反響がありました。このような中、大韓民国文化芸術賞をはじめ、多くの賞を授与されたのです。
韓国の文化水準がまだそれほど高くないと思われていた時代、ユニバーサルバレエ団はまるで、孤独な一羽の鶴のように見られていたことでしょう。しかし、それはやがて数多くの困難を克服し、アジアだけでなく北米、ョーロツバ、中東、アフリカなどを回りながら、世界の人々に、韓国のレベルの高い芸術性を知らしめるようになったのです。その歩みは、これからも神様の愛を受けながら、休むことなく続くでしょう。