自叙伝・人類の涙をぬぐう平和の母 第30話

翌日の朝、文総裁は私に電話をかけてくれました。

「神様の召命に従い、キリスト教の信仰の炎を燃え上がらせよ。この言葉を信徒に伝えてほしい」

私はそのメッセージを信徒に伝え、私たちが今、何をすべきかについても話しました。

「今のこの時が、神様が私たちに下さった最後の機会です。これまでやってきたことはもちろん、今指示した内容まで、あらん限りの精誠と積極的な活動を通して、必ず成し遂げなければなりません。皆さんの精誠に、神様は感動し、サタンは降伏します。歴史は新しい時代を迎えるでしょう」

しかし、不幸が一挙に訪れるかのように、良くない出来事がまた起こりました。アメリカで私たち夫婦をサボートし、活動していた中心指導者が、行方不明になったのです。共産主義の影響を'^けた者が彼を拉致し、ニユーョークのどこかの部屋に閉じ込めていたのです。


私たちは「ワシントン.タイムズJを通して、共産主義の活動はもちろん、その理念に対してまで勝共思想をもって反論してきましたが、これに対する報復措置として、彼らは文総裁がいない隙を狙い、復警に出たのでした。また、彼らは統一教会がアメリカで引き続き共感を得て、信徒を増やしていることにも良くない感情を持っていました。このようなことから、彼らは何よりも、拉致した私たちのメンバーに危害を加えることしか考えていなかったのです。

文総裁が収監されている状況ですから、私が問題を解決しなければなりませんでした。私はまず、心を落ち着けて祈祷しました。拉致されたメンバーの耳に私の声が届くように、切実に祈りました。その上で、懇意にしていたオリン.ハッチ上院議員に電話をかけたのです。

「私たちのメンバーを拉致したのは、私的怨恨によるものではありません。これは共産主義の影響を受けた者の仕業であり、宗教差別に基づいた攻撃です」

「直ちにFBIを通して捜査しましよう」

中には、FBIが捜査を始めると、追い詰められた犯人たちが拉致したメンバーを傷つける恐れがあるため、そのまま待機して交渉するほうが良いと言う人もいました。しかし私は、それは賢明な策ではないと思いました。私は切実な心情で、談判祈祷を行いました。

あとから聞いた話によると、誘拐犯は拉致したメンバーをひどく殴りつけ、電気ショックを与えて拷問したといいます。しかし、冷たい床に倒れ、意識を失いそうになる中で、彼は遠くから響いてくる声を耳にしたのです。


「時間がない。犯人たちは今夜までは、お前を害することはないだろう。今から十時間以内に、そこを何としてでも脱出すれは、生きて帰ってこられる」

彼は薄れゆく意識の中で、夢を通して、私の声を聞いたのです。意識を取り戻した彼は、脱出を試みながら、知恵を振り絞って誘拐犯との交渉を重ねました。その結果、何とか脱出に成功したのです。こうして翌日、彼は無事に戻ってきました。

生きて帰ってきた彼は、私に一部始終を聞かせてくれました。

「暗闇の中で聞こえてきた真のお母様の声は、まさに神様の声であり、啓示でした。私が力強く立ち上がり、彼らに対抗するための力と知恵を下さつたのです」

拉致の知らせを聞いた時、もし私が手をこまねいて、犯人たちと交渉するためにただ待機していたならば、時を逃して、さらに大きな不幸が訪れていたことでしょう。また、誘拐犯たちは統一教会を屈服させたといって有頂天になり、世間に向かって騒ぎ立てていたことでしょう。

それは結局、サタンの手口にはまることであり、彼らに勝利をもたらすことでした。ですから、私は苦しい闘いを続けながらも、彼らとの交渉は断固として断つたのです。

同じように、文総裁のダンべリー刑務所での獄苦は不幸なことでしたが、私たち夫婦はそれを勝利へと変えました。それまでで最もつらい期間でしたが、一方では最も感性が鋭敏になり、愛と慕わしい情が深まる日々でもありました。夫にとってもまた、切ない心情を分かち合う日々


だったことでしょう。

夫は早朝五時に祈祷を終えると、刑務所の公衆電話で電話をかけてきました。そうして、私と挨梭を交わすのが、一日の日課の始まりでした。面会時間が近づくと、夫は私たちが到着する時間に合わせて、あらかじめ車から見える丘まで出てきて、待っていてくれました。

ある時、夫が刑務所内での床清掃や食堂の皿洗いを終わらせ、疲れ切った様子で面会室に入ってきたことがありました。その姿を見て、心を穏やかにしていられる妻がいるでしょうか。しかし、私は悲しみをこらえ、いつもどおり明るい笑顔で夫を迎えました。毎回、末娘の情進を連れて面会に行ったのですが、二歳の情進を抱きかかえながら、夫はとてもうれしそうにしていました。

短い面会が終わると、夫は面会室から出て、私たちを見送ってくれます。私は、オープンカーに乗って行き来していたのですが、刑務所に向かう時は慕わしさが先立ち、明るい笑顔で坂道を登っていくものの、帰る時は涙がこぼれそうで、真っすぐに夫を見つめることができず、ただ手を振ることしかできませんでした。夫も、私たちの姿が見えなくなるまで、手を振りながら立っていました。

その悲しみと悔しさを乗り越えて、私は文総裁が監獄に入れられていた十三力月間、教会と摂理を率いました。全世界の信徒が安心し、揺らぐことなく信仰生活を続けられるように投入したのです。


文総裁が監獄に入った当初、世界のマスコミがあざけりながら、果たして統一教会は存続できるのか、それとも消え去ってしまうのか、と騷ぎ立てました。いくつかのメディアは、まるで待っていたかのように、根拠のない話を吹聴しました。

「統一教会は自ら瓦解し、信徒たちは離れていくだろう」

しかし、そのようなことは決して起こりませんでした。むしろ、信徒の数がぐっと増えたのです。人類の救いと宗教の自由を懸けて献身する中で無念の獄中生活をすることになった文総裁の姿が、人々の心を動かしたのでした。

文総裁が収監されて一力月ほど経った時のことです。当時、私たちは「科学の統一に関する国際会議(ICUS)」を目前に控えていました。私たち夫婦が一九七二年に創設したこの会議は、世界中の科学者が集まり、科学と技術の未来について議論する大きな行事でした。創設者が収監された状態で果たして会議が開けるのか、心配する声も少なくありませんでした。「開けはしまい」と言ってあざ笑う人も大勢いました。

しかし、私はそのような状況に、一言で決着をつけました。

「会議は必ず開かなければなりません」

一九八四年九月二日から五日まで、第十三回ICUSがワシントンDCで開かれ、世界四十数ヵ国から約二百五十人の科学者が参加しました。私は科学者たち一人一人と挨拶を交わし


た後、演壇に上がり、毅然とした態度で歓迎の辞を述べました。そうして、創設者不在の中、国際会議が成功裏に終わるや、科学者たちが私の元に来て、口々に感謝の気持ちを伝えてきたのです。信徒たちも、感服した様子でした。

国際会議は、それで終わりではありませんでした。一九八五年の夏には、「世界平和教授アカデミー(PWPA)」が世界大会を準備していました。ところが、やはり創立者が収監されている状況ですから、大会を行えるかどうか心配している、という知らせが入ったのです。私はきっぱりと、「予定どおり開催しなければならない」と言いました。大会の場所は、スィスのジュネーブに決まりました。

大会の議長を務めるシカゴ大学の政治学者、モートン‘カプラン教授が、私たち夫婦に会うためダンべリー刑務所まで来ました。文総裁が、大会のテーマを「共産主義の終焉、ソ連帝国の崩壊」にしなさいと告げると、カプラン教授はそれに真っ向から反対しました。当時、共産主義は依然として強大な勢力を誇っていたのです。

「社会学者は、まだ起きていないことについては論じません」

しかし文総裁は、強い口調で彼に言いました。

「共産主義は滅び、ソ連帝国は崩壊する!この事実を、世界の学者、教授たちが集った場で宣布しなさい」

カプラン教授は少し躊躇した後、尋ねました。


「その言葉の前に、『Maybe(おそらく)』と付けるのはいかがでしょうか?」

「いけません。私の言ったとおりに話してください」

面会を終えて帰る道すがら、カプラン教授はとても苦悩していました。当時、彼は学者として世界的な名声を;^っていたので、根拠のないように聞こえることを語るなどできない立場だったのです。そのようなことを言うのは、彼にとってまさに恐怖でした。

彼は、「おそらく」という言葉を入れようと三回も繰り返しました。私はカプラン教授に向かって、何の心配もせず、文総裁の言うとおりにするよう論じましたが、教会の幹部たちも慎重になって、私に勧めてきました。

「『滅亡』や『崩壊』という言葉ではなく、もっと柔らかい表現にしたほうがよいのではないでしょうか?」

しかし、文総裁や私は、それを決して受け入れませんでした。数年以内に、ソ連帝国が崩壊することを知っていたからです。

一九八五年八月十三日、ジュネーブで世界平和教授アカデミーの世界大会が開かれました。世界から著名な大学教授が数百人も集う歴史的な場で、「共産主義の終焉」が宣布されました。「ソ連帝国は崩壊する」

参加者はびっくりしました。まだ起きていないことを確信に満ちた口調で宣布したこと、また、会場から道を挟んだ向かい側にソ連の領事館が堂々と構えているにもかかわらず、ソ連帝


国の崩壊を断言したことに驚いたのです。しかし一九九一年十二月、私たちの予測どおり、ソ連の共産主義は幕を下ろしました。

大会当時、私たち夫婦は「当たらない予言者」として、からかいの対象となったことでしょう。事実、有名な社会学者や教授たちが、私たちの宣布を強く批判しました。しかし美際にソ連が崩壊すると、彼らは私たちがした予測に対して、驚きと感嘆の念を隠すことができませんでした。このように、たとえ文総裁が獄中に身を置いていても、私たち夫婦は世界の将来のため、一日も休むことなく歩んだのです。

無念の獄中生活ではありましたが、文総裁は模範的な態度と勤勉さで、服役囚たちに深い感動を与えました。彼らは、初めのうちこそ「東洋から来た異端宗教の創始者」と言ってあざ笑い、文句をつけてきましたが、ほどなくして文総裁を真の師と仰ぐようになりました。文総裁は怨みと憎悪、争いが支配する刑務所を、愛のあふれる場所につくり変えたのです。

服役囚たちは文総裁を「獄中の聖者」と呼ぶようになり、看守や刑務所の管理者たちまでも感服させるに至りました。こうして、文総裁は模範囚として一九八五年八月二十日、自由の身になったのです。

夫が監獄に入れられたのは、私自身が囚われたのと同じことでした。文総裁の獄中生活は、二千年前、イエス様がピラトの法廷に立ち、孤独な身で十字架に追いやられたのと何も変わる


ことはありません。いつ文総裁に危害を加えるか分からない勢力が、虎視眈々と機会を窺っていました。

ソ連のKGBおよび北朝鮮の金日成主席にそそのかされた赤軍派が、検挙されるという事件もありました。服役囚の中には、そのような勢力に同調する人々もいたのです。彼らと共に生活しなければならない夫の安全は、誰も保障できませんでした。ダンベリー刑務所はまさに、イエス様を十字架につけた所と変わらない、現代のゴルゴタの丘だったのです。

しかし、私たち夫婦はそのような苦難を味わいながらも、決して挫折することはありませんでした。私はどこにいても、神様のみ旨のために愛を実践しようと、身も心も尽くしました。そのような苦しい人生行路を黙々と歩み、平和の母であり、宇宙の母、人類の仲保者、独り娘として、使命を果たしてきたのです。

 

Luke Higuchi