自叙伝・人類の涙をぬぐう平和の母 第29話

ダンベリー刑務所に響き渡った勝利の歌

「統一教会は出ていけ一」

先頭の人が叫ぶと、後ろにいる人々も一斉に声を上げます。

「青年たちを洗脳する統一教会を糾弾する!」


こういった非難や反対の声は、私たち夫婦に、いつも影のようについて回りました。特に一九七〇年代、ワシントン大会がきっかけとなり、アメリカで「統一原理」が燎原の火のごとく広がると、私たちに反発する組織的な動きが出てきました。

まず、下院のドナルド.フレーザー議員が先頭に立って国際機関小委員会を立ち上げ、聴聞会を開きました。統一教会を生贄にして上院議員選挙に出馬しようとする政治的野心が、その動機の根底にありました。しかし最終的に、彼は自分で仕掛けた罠に自らはまる結果となってしまいました。

それでも、反対勢力はあきらめませんでした。ついに文総裁は、脱税の容疑をかけられ、一九八一年十月以降、ニユーョーク連邦地方裁判所に何度も出頭することになります。そのたびに声明文を出して、「今回の件は、人種差別と宗教的偏見の結果である」と反論し、「私はアメリカと世界人類のために犠牲と奉仕の人生を歩んできた。そこにおいて少しも恥じることはない」と発表しましたが、アメリカのマスコミが、粗探しの手を緩めることはありませんでした。

非難の矢が容赦なく降り注ぎましたが、アメリカの、権力を笠に着た攻撃と非難に屈服する私たち夫婦ではありません。ゴリアテと戦うダビデのように、私たちは決して恐れず、首K正面から受け止めて対応しましたが、結局、苦難の十字架を避けることはできませんでした。

何の罪もない文総裁に対して、ニユーョーク連邦地方裁判所は一九八二年、十二人の陪審員


団を立てました。以前から、私たちは陪審員による評決ではなく、判寧による裁判を要求していましたが、裁判所はこれを受け入れなかったのです。アメリカ政府の筋書きどおり、一九八二年五月十八日、有罪の評決が下されました。罪状は、献金百六十万ドルの利子十一万二千ドルにかかる所得税、および五万ドルに相当する株式配当金にかかる税金として、一九七三年から三年間で七千三百ドルを払わなかったというものでした。

判決が言い渡されました。

「懲役十八力月と罰金二万五千ドルを宣告する」

ところが、このように宣告されるや否や、かえってアメリカの宗教界と民間団体か、「これは宗教に対する明白な弾圧である」として、あちこちで一斉に立ち上がったのです。それまで統一運動に対して友好的ではなかった既成のキリスト教会も、支持声明を発表するなど、私たちを擁護する側に回りました。多くの人々や団体が文総裁の無罪を主張して請願書を提出し、宗教の自由を求め、判決内容に抗議する大会もほぼ毎日、開かれるようになりました。宗派を超えて、多くの良心的な人々が宗教弾圧を批判するデモを行ったのです。

しかし一九八四年五月、最高裁は上告を棄却し、刑がそのまま確定しました。こうして、文総裁は一九八四年七月二十日、コネチカット州にあるダンべリー連邦刑務所に収監されることになったのです。

この事件は、表面的には脱税が問題にされましたが、その裏には統一教会の驚異的な成長を


食い止めようとする意図が隠されていました。政府の権力を利用した、巧妙な宗教迫害だったのです〇七千三百ドルの脱税(もちろん言いがかりですが)に対する刑罰として、懲役十八力月と罰金二万五千ドルを課すという判決は、多くの人々を公憤へと駆り立てました。そうして、アメリカ各地で数千人が抗議し、宗教の自由を守るため、一週間ずつ交替で文総裁と一緒に監獄に入ることを決意したのです。

しかし文総裁は、アメリカを霊的な死から目覚めさせることができるなら、むしろ進んで監獄に行こうとしました。

「先生が監獄に入られたら、私たちはどうしたらよいのでしょうか?」世界中の統一教会の信徒が心配し、每晚、涙で祈祷を捧げていましたが、私たち夫婦は毅ぎとした態度で信徒たちを慰めました。

「これから新しい世界が始まります。アメリカの人だけでなく、全人類が私たちと共にあり、世界のあらゆる所で希望の太鼓の音が響き渡るでしょう」

一九八四年七月二十日は、私の人生の中から永遠に消してしまいたい一日でした。それは文総裁が家を離れ、ダンべリー刑務所に収監される日でした。私たち夫婦は最後まで信徒たちを励まし、希望を与えると、数人の信徒と共に午後十時、イーストガーデンを出発し、ダンベリー刑務所に向かいました。私は既に強く決意していたので、動揺することはありませんでした。


怒りと悲しみを露わにする信徒に向かって、文総裁は念を押すように言われました。

「私のために泣かずに、アメリカのために祈りなさい」

刑務所に入る夫の背中が、暗闇に消えていきました。信徒たちは、文総裁がまた姿を見せられるのではないかという思いからか、刑務所の入り口にしばらく立っていました。私は彼らをなだめ、帰途に就きました。

夫が異国の地で無念の獄中生活を送ることになったわけですが、それでも私は、アメリカを許すべきだ.と思いました。

「怨讐までも愛しなさい。そして、ために生きなさい」

統一運動の最も根本的な教えは、「ために生きる」です。死の境地において自らを犠牲にし、たとえ不本意に濡れ衣を着せられたとしても、相手を許し、愛することができるというのが「ダンベリー精神」です。ダンべリー精神とは、すべてを奪われて失ってしまった立場でも、天のみ旨に従って犠牲となり、許しながら、より大きな価値のために生きることです。

ダンベリー刑務所からの帰り道、外は真っ暗でしたが、私は心まで暗くならないようにと、自らに言い聞かせました。アメリカに渡って十数年、私は数え切れないほど多くのことを経験しました。世界を揺り動かした三度の大会をはじめ、大陸を横断する巡回講演を何度も行いました。その路程は多くの困難を伴いましたが、文総裁の無念の収監は、その苦難の最たるものでした。私にとっても、夫の投獄は耐え難い、重い十字架でした。


私が何よりもつらかったのは、当時、文総裁が既に六十歳を超えており、アメリカという異国の地で刑務所生活をするのは、容易でなかったということです。しかも、有色人種である上に新興宗教の指導者だという理由で迫害が加えられていたため、私の心はより一層、痛みました。また、末の子供である情進がまだ二歳を過ぎたばかりだったので、私は心身共に、非常につらい思いをしました。そのような中で、文総裁のいない空白を、私が代わりに埋めなければならなかったのです。

Luke Higuchi