自叙伝・人類の涙をぬぐう平和の母 第28話

青い芝生に降る夏の雨

アメリカのポップ歌手、ジェームス.テイラーが歌った「Line'Emup」という歌は、一九七四年のニクソン大統領の辞任を描いた曲です。最後に、このようなフレーズが出てきます。

“We all are Moonies, or should be”

ここでいう「moonies」とは、ほかでもない夫の文総裁を指しています。


ヤンキースタジアム大会の五年前、私たちがアメリカに到着した一九七一年当時、世界はまるで羅針盤を失った難破船のような状態でした。共産主義の脅威がますます大きくなる反面、キリスト教は徐々に力を失っていました。青年たちは乱れに乱れた性によって、真なる人生の目的と目標を失い、さまようばかりでした。宗教の自由を求めて大西洋を渡ってきた清教徒たちが、血と汗を流して建国したアメリカは、もはやその使命を忘れ、退廃的な文化に染まり切っていたのです。

また、ウォーターゲート事件と呼ばれる一連の政治スキヤンダルが起こり、アメリカ人の心はばらばらになって、進むべき方向性を見いだせなくなっていました。政治家たちはニクソン大統領の辞任を要求し、全世界がそれに付和雷同して大騒ぎしていましたが、私はそのような騷ぎが、結局は善良な人々を悲惨な目に遭わせることをよく分かっていたので、胸がとても痛みました。

私たち夫婦はアメリカの人々に向かって、「許せ、愛せ、団結せよ」と叫びました。それは、ニクソン大統領一人を許すことを呼びかけるためではなく、アメリカ人全員の覚醒を促すためのメッセージでした。日々迫ってくる共産勢力の赤化への野望を防ぐため、孤立無援の中、闘つたのです。それはアメリカ人の渴いた心霊に聖霊の火をつけ、神様の思想に目覚めさせるための叫びでした。


アメリカに到着してまだ間もない一九七二年二月、私たちはニューヨークで「神様と人間のための理想世界」というテーマで集会を開きました。当時の世界の現状を訴え、私たちが担うべき責任について話したのです。

「民主世界は共産主義の脅威によって危機に瀕しています。この状況を打開するために、私たちは積極的に立ち上がらなければなりません」

私たち夫婦は、フイラデルフイアやボルティモア、ロサンゼルス、サンフランシスコなどで立て続けに講演を行いました。また、青年たちを集めて統一十字軍を結成し、炎のような情熱をもって世界を目覚めさせるよう、激励しました。

翌々年の一九七四年は、世界史的に非常に重要な一年でした。ニクソン大統領が「ぜひ会いたい」と連絡してきたため、文総裁はホワイトハウスへ向かいました。そうして、ウォーターゲート事件の最中にあって焦りを感じている彼に神様のみ意は何かを知らせ、アメリカが何をすべきか、毅然とした態度で伝えたのです°

続いて、全米三十二力都市を巡回しながら講演を行いました。最初は困惑していたアメリカの人たちでしたが、次第に私たちの志を理解するようになり、日が経つにつれ参加者が増えていきました。

巡回講演は、ニューヨークの,マデイソン.スクェア.ガーデン大会でハイライトを迎えました。それはアメリカで開かれた、統一教会の最初の大講演会であり、アメリカ史上でも驚くベ


き記録を打ち立てた大会となったのです。当日は、三万人が会場を埋め尽くしたにもかかわらず、二万人以上が入場できないまま帰途に就くほどの大盛況でした。

私たちは、大会のテーマを「キリスト教の新しい未来」に定めました。ニューョ~クはアメリカの中心都市であり、マディソン•スクェア•ガーデンはそのニューョークの中心部にあります。そこから燃え上がつた信仰の炎はアメリカ全土に広がり、地球を照らす松明となりました。私たちはアメリカに来てから三年にも満たない間に、マディソン.スクェア.ガーデンの大会を通して、万民を解放しょうとなさる神様のみ旨を成し遂げるための狼煙を上げたのです。

私たちは少しも休む暇なく、アメリカと全世界を驚かせる大会をさらに続けて行いました。それが、建国二百周年に合わせて開催したニューョーク.ヤンキースタジアム大会とワシントン•モニュメント大会です。

既に述べたように、ヤンキースタジアム大会は一九七六年六月一日に行われ、大成功を収めました。それを追い風にしてさらに大きく開催したのが、ワシントン大会です。案の定、アメリカの宗教界が総攻撃を浴びせかけ、マスコミは中傷と非難に躍起になりました。

「あちこちで激しい反対が起こっています」

「あらゆる新聞が、私たちに対する中傷記事で埋め尽くされています」

ヤンキースタジアム大会の時は十二の団体が攻撃を仕掛けてきましたが、ワシントン大会で


はミ十以上の反対派が一丸となって襲いかかってきました。共産主義者まで加担し、大会|体を中止させようと血眼になったのです。しかし、私たちは少しの恐れやためらいもなく、ただ神様の勝利のために、命懸けで大会を敢行しました。

千辛万苦の末、大会の四十日前になってようやく、開催の許可が下りました。それからの四十日は、心情的には四十年よりも長く、果てしなく感じた期間でした。私たちはどこで何をしていても、誰に会っていようとも、いつも大会のことばかり考えていました。そのことに集中しすぎて、朝と夜の区別もつかなくなるほどでした。

一九七六年九月十八日、ワシントン.モニュメントの広場で、ついにアメリカ建国二百周年を記念する大講演会が開かれました。三十万人以上が雲霞のごとく詰めかけた光景は、実に奇跡的であり、壮観と言わざるを得ませんでした。

ワシントン大会は、統一教会を宣伝したり、文鮮明と韓鶴子の名を知らしめたりするために開かれた大会ではありません。むしろ、対内的には多くの犠牲を払いました。また、テロが起こるという声も耳に入りましたが、私たちは全く恐れませんでした。

当日、私たちは朝早く起きて深い祈祷を捧げ、死刑宣告を受けた人が刑場に向かう時以上に深刻な気持ちで会場に向かいました。

「全人類に感動をお与えください」

その祈りと精誠が、会場に集まった三十万人の聴衆はおろか、すべてのアメリカ人、そして


地球上のすべての人々にとって、暗闇を照らす灯火となったのです。その間、アメリカのマスnミと多くの人々が統一教会に反対しましたが、私たちはそれをはねのけて大会を成功させ、「神様が私たちと共にいらっしやる」ことを示したのです。

私たち夫婦は異国の地であるアメリカに渡り'様々な苦労をしながら三度の大会を中心に、多くの大会を成功裏に終え、神様の願われる聖なるみ旨を成し遂げました。特に一九七四年のマディソン.スクエア.ガーデン大会と一九七六年のヤンキースタジアム大会、そしてワシントン大会を通して、真の勝利を収めました。その勝利の栄光は、私たちの教会のためではなく、地球の全人類のためのものでした。

私たちが渡米後、短い期間でそれほど広く、大きな賛同を得ることができたのは、ほかでもありません。アメリカの人たちが宗教性を回復し、心の中に神様をお迎えしなければならないという訴えが深い共感を呼んだのです。家庭の大切さに気づかせ、青年たちが道徳性を取り戻して夢に向かって進めるように祈り、精誠を尽くしたことも、アメリカ人の心を動かしました。

当初、彼らは東洋から来た私たち夫婦に対して、あまり好意を持っていませんでした。しかし、初めて聞く「統一原理」という言葉に戸惑いつつも、ほどなくそれが真理であることを悟って、信徒になっていったのです。

初めはエリート層を中心に広がった「原理」のみ言ですが、やがて人種や職業、年齢、学歴


を問わず多くの人々を弓きつけて彼らの人生の核、七的な軸となりました。アメリカ全土を回りながら学校を建て、新聞社をつくり、ボランティア団体を立ち上げ、リトルエンジェルスの公演を行いました。その路程の所々に、宣教師たちの血と汗と涙が流されています。また、私たち夫婦の休むことなき祈祷の跡が残っています。

二〇一六年の夏に開かれた「ニユーョーク.ヤンキースタジアム大会四十周年記念式」は、その思いを再び胸に刻む日となりました。前日から降り続いた雨は朝方やみ、私のメッセージが終わる頃、再び降り始めました。私は、四十年前の偉大な勝利にただ満足して、その場にとどまっていてはならないことを知っています。青く茂る芝生の上で夏の雨を浴びながら、私は靴のひもを結び直し、平和の真の母として、希望と幸福の平和世界を築くという使命を心深くに刻みました。

Luke Higuchi