自叙伝・人類の涙をぬぐう平和の母 第26話
六男の榮進を生む時、赤ん坊の頭が大きすぎて、死の淵をさまようことになりました。文総裁はドィツに出張していて、三十分以内に決断しなければ母親も赤ん坊も両方危険だというので、やむを得ず帝王切開となったのです。
一度切開手術をすると、その後は自然分娩をするのが難しくなります。私は、切迫した心情
で祈祷しました。切実に祈る中で、イエス様が十字架にかけられた瞬間が思い浮かびました。イエス様に迫りくる、闇の死の勢力。私はそれを、新しい命の出産によって払いのけ、イエス様を解放してさしあげようと決意して、苦痛に耐えました。
母親なら誰でも経験することですが、一つの命の誕生は、地獄と天国を行き来する苦痛の中で迎えるものです。四回も手術を受けるというのは決っして簡単なことてはありません。切開手術を受けるために手術台に上がるたびに、私は十字架の苦痛を体験しました。そのようにして、一つ一•つの命を神様のために、死を恐れずに生み出したのです。
それとともに、流産も何度も経験しました。その影響により、今も冷水でシャヮーを浴びると、真夏でも悪寒がして、体がぶるぶると震えるのです。
私が子供をたくさん生み、家の中がにぎやかになればなるほど、教会があちこちに新しくでき、信徒も増えていきました。しかし、私の心の中には、「韓国で最も大きな教会」とか、「韓国で信徒が最も多い教会」というような目標は、最初からありませんでした。ただ、世界を救う宗教、人類の涙をぬぐってあげる真の教会になることだけを願っていたのです。
その志を果たすため、私は一九六九年の最初の世界巡回以来、何度も世界を巡回してきました。数千回を超える様々な大会と行事、集会、セミナーを行い、講演回数も数百回に達しました。およそ半世紀の間に、地球のほぼすベての地域に私の足跡がしっかりと刻まれたのです。
大都市から、原始的な生活を営んでいる小さな村落、灼熱の太陽が照りつける砂漠、木が鬱蒼と生い茂る密林、空気が薄くて息苦しくなる高原地帯に至るまで、地球のあらゆる所を回りました。そこには、私を待つ人々がたくさんいました。特に、疎外された人々、社会的弱者である女性や子供、少数民族が、首を長くして私を待っていました。
たとえ体が大変だったとしても、私が一歩踏み出せばその分、彼らに安らぎを与えることができ、平和が訪れるということが分かるので、宿所に戻っても疲れた体を横たえる時間を取れないまま朝を迎え、再び出発するのでした。異国のホテルで二時間ほど座って休んだり、空港の空いたベンチにもたれてしばらく仮眠を取ってから出発したりするようなことも、数え切れないほどありました。荷物を広げることもできないまま、私を待つ人々に会うため、道を急いだのです。
初めて旧共産主義国家に入って講演した時は、生きている人よりも、亡くなった人の霊魂が多く訪ねてきました。夫と共にではなく単身でクロアチアに行った時は、その一帯が紛争の真っ最中でした。ホテルの部屋に入った瞬間、無念な思いを抱いたまま惨めに死んでいった人々の霊魂が、救いを求めて私を待っていたのが分かりました。私はその霊魂を解怨するため、夜を徹して祈祷を捧げました。
アフリカに行くときは、毎回マラリアの予防薬を飲みました。ある時、処方の間違いでひどい副作用に悩まされたのですが、現地でさらにマラリアにかかって、高熱に苦しみました。し
かし、治療そっちのけで、計画したスケジユールを全うするために夢中で巡回していたところ、いつの間にかマラリアの症状は消えてなくなっていました。
一九九六年の秋に開かれたボリビアの大会は、決して忘れることができません。中心都市のラパスは海抜約四千メートルに位置し、世界で最も高い所にある高山都市の一つです。地元の人でない限り、誰もが酸素不足による高山病に悩まされずにはいられない所です。
私は約一時間の講演をするため、酸素ボンベを横に置いて演壇に上がりました。ところが弱り目に祟り目で、そこの講演台がぐらぐらとしており、ほんの少し寄りかかるだけでも倒れそうだったのです。頑強なスタッフが演台を支える中、人々は心配そうに私を見つめていましたが、私は講演の間、笑顔を決して絶やしませんでした。吐き気や頭痛、足の震えを、歯を食いしばって耐えましたが、終わった時は倒れる寸前でした。
「あの方は本当に、神様が送ってくださった方だ」
驚きと共に、称賛の嵐が巻き起こりました。講演は盛況のうちに幕を下ろしました。夕方に開かれた祝勝会で、私は参加した信徒一人一人の手を温かく握りました。私に会うために遠路はるばるやって来た貴いゲストや信徒を見ると、疲れも吹き飛ぶようでした。その場は、私たちがお互いを励まし、誇り合う喜びの場となりました。
大会を終えると、文総裁が私の背を軽くたたきながら、喜んでくれました。
「天に近い、海抜四千メートルにもなる所で勝利したのだから、これ以上の福があるだろうか」
世界各地を回りながら、神様のみ言を伝えると同時に、これまで犠牲になった霊魂を救う解怨式も、多くの国で行いました。
二〇一八年の春、オーストリアで行われた霊魂の解怨式は、実に意義深い行事となりました。ウィーンからドナウ川に沿って西に二時間ほど行くと、マウトハウゼンという町があります。周りの風景は非常に美しいのですが、訪れる人を迎える建物はどこか陰鬱で、殺伐としています。濃い灰色のレンガを高く積んで造られた塀の前に立つと、誰もが痛恨の涙を我知らず流さざるを得ないでしょう。そこは第二次世界大戦の最中、ナチスがユダヤ人を閉じ込めていた強制収容所でした。そこに入れられていた人の数は三十万人とも言われますが、そのうちのほとんどが、悲惨な死を遂げたのです。
もう七十年以上も前のことですが、今なお歴史の傷跡が残る現場です。誰もそこに、痛みを抱えた霊魂がさまよっていることを知りませんでした。犠牲になった霊魂を慰め、怨みと悲しみを和らげてあげてこそ、彼らは安息の場に向かうのです。
私はウィーンでのヨーロッパ希望前進大会を終えた後、信徒をマウトハウゼンに送り、解怨式を挙げさせました。信徒がくねくねと曲がる田舎道を通って到着した場所には、昔の傷跡がそのままむき出しになっていたといいます。そこで永遠の愛を込めて白い花束を捧げるとともに、犠牲者の霊魂を慰める告天文と衣冠を用意して、解怨式を厳粛に行いました。彼らが過去
の悲しみと怒りを振り払い、澄み透った霊魂として、平穏な安息の場で幸せに暮らせるよう、祈つたのです。
記念館を建てることも重要ですし、歴史的な事実を学問的に究明することも必要ですが、無念な霊魂に刻まれた怨恨と怒りを解くことが先決です。七十年以上の歳月が流れる間、誰もしなかった解怨式を私たちが行うことで、三十万人の霊魂が安息の場にたどり着いたのです。
世界を回るたびに、初めて会う人たちが私の元に駆け寄り、両手をぎゅっとつかんで放そうとしません。その切ない気持ちは、私の心に深く刻み込まれています。多くの人々が私に一目会いたいと思い、慕ってくれるのは、そして私がしばしの滞在を終えて去る時に彼らが名残を惜しんでくれるのは、天が結んでくださった絆があるからです。六千年前に神様の元を離れた人類が真の人生を生きるには、神様と人間を結ぶ天の仲保者として、独り子、独り娘がいなければなりません。その独り娘にまさに出会ったので、その場が涙の海となるのです。
しかし、より根本的なものは神様の愛です。私はその神様の愛を伝えるために、数十年の間、毎回数百、数千キロを移動しました。その旅の苦労は筆舌に尽くし難いものがありましたが、私はいつも幸福でした。私が残した言葉と足跡が消えることは、永遠にありません。それは日ごと、年ごとに大きくなり、やがては世界を覆い尽くすことでしょう。