自叙伝・人類の涙をぬぐう平和の母 第23話

「地上での最後の瞬間が近づいてきます」

一九八〇年代の初め、海外から一通の手紙が届きました。

地上での最後の瞬間が近づいてきています。この世で差し上げる最後の御挨拶です。天上でお目にかかります。どうかいつまでもお元気でいてください。

監獄に入れられた宣教師が、処刑される前に書いた遺書でした。私はその場で凍りつきました。おそらく、顔面蒼白だったと思います。もはや涙すら出ず、石のように固まったまま、しばらく立ち尽くしていました。私たち夫婦は、愛する彼らの記憶を、涙と共に胸の奥深くにしまい込みました。誰にも話すことができないまま、胸がつぶれそうになるほどの悲しみを抱え、ただ心の中で痛哭するしかありませんでした。それは人類の真の父母として、避けて通ることのできない道でした。

五十年ほど前、信徒たちは所構わず、熱い議論を交わしていました。

「これからは、世界に目を向けなければなりません」


「まだ早すぎるのではないですか?ちゃんとした教会の建物すらないのに」

「教会の建物を立派に造ったら、神様が喜んでくださるのでしょうか?」

世界に出ていくべきだと主張する信徒もいれば、国内でまずしっかりとした教会を建てようと言い張る信徒もいました。どちらも疎かにはできないことでしたが、私たち夫婦は「韓国」よりも、「世界」を選びました。ですから、教会の外観はいつまでもみすぼらしいままでした0一九八〇年代に入っても、立派と言える教会が一つもなかったのです。

信徒が集まり、ささやかに礼拝を捧げられる空間だけでも欲しいという要望が多くありましたが、小さな緑屋根のAタイプ教会(正面が三角形で、Aの字に似ていることからそのように呼ばれた建築スタイル)を何とか建てるのが精いっぱいでした。

信徒数がまだ少なかった時代に、世界に向けて進出すべきだという主張に対して反対意見が出なければ、かえっておかしなことです。教会の中からも外からも、「教会一つも満足に建てていないのに、世界を目標とするなど、分をわきまえないにもほどがある」とあざける声が聞こえてきました。

しかし、家庭連合は最初から、より大きな価値を追求していました。個人や家庭よりは民族や国家のために生き、韓国よりは世界の救いのために働くことが優先でした。争いだらけの荒廃した世の中に、平和の鐘の音を響かせることが私たちの使命でした。


一九五八年、日本に初めて宣教師が渡り、その翌年、アメリカの開拓伝道が始まりました。六〇年代に入っても、依然として、海外宣教に出掛けるというのは教会次元ではもちろん、韓国自体においても考えることすらできない状況でしたから、当時、先駆けて二ヵ国に宣教師を送ったというのは、とても大きな実績でした。しかし、私たちはそれに満足してはなりませんでした。

一九六五年、文総裁は海外宣教を本格化させるため、世界巡回に出発しました。これをきっかけに、その後、ヨーロッパ、中東、南米へと、宣教師が次々に派遣されていきました。しかし彼らを取り巻く環境は、これ以上悪くなりようがないと言えるほど、厳しいものでした。

統一教会の「原理」のみ言が巨大な波のように世界に広がつた七〇年代には、あらゆる国が口裏を合わせたかのように、総力を傾けて私たちに反対してきました。しかし、いくら迫害がひどくなっても、私たちは起き上がりこぼしのように何度でも立ち上がりました。

一九七五年、世界宣教師会議を日本で開き、世界の百二十七ヵ国に宣教師を派遣することにしました。その決定に対して反対する声も多くありましたが、これ以上先延ばしにすることはできませんでした。

「できない理由というのは常にあるものです。しかし今送らなければ、永遠に送り出せなくなるかもしれません。最も困難な時に、決断を下さなければなりません」

その時に大勢の宣教師を派遣したことが、後に大きな実を結びました。


宣教師を送るに当たっては、一つの国からだけではなく、ドイツ、日本、アメリカの三ヵ国の信徒を一つのチームにして送り出しました。彼らの国は第二次世界大戦の時、お互いに怨讐の関係にありました。

私たちの宣教活動では、近代における西欧のキリスト教の希望に満ちた宣教ばかりを連想することはできませんでした。宣教資金が不足しているので、宣教師たちは小さな部屋や仮小屋で生活しなから活動をしました。

任地に出発する際は、見送る人も出発する人も悲痛な心情で覚悟を決めなければなりませんでした。当面必要となるお金を用意できた人から、古びたトランクに衣類と『原理講論』一冊を入れて、任地に発つのです。当初は漠然と、「五年ぐらいだろう」と思われていましたが、結果として二十年以上、アフリカや中東にとどまって宣教した人も、少なくはありませんでした。

彼らは年に一、二回、行事に参加するために、ニュ^―ヨ^―クのイーストガーデンという公館にやって来ました。宣教師たちは現地で自立して活動をしていたため、経済事情により飛行機のチケットを購入できず、参加できないケースもありました。

Luke Higuchi