自叙伝・人類の涙をぬぐう平和の母 第22話
第四章
茨の道を越え、人類の灯火となって
冷たい雨風を浴びながら、跳躍の道へ
私が生まれ、成長した時期は、世界的な混乱が起きていた激動の時代でした。人類全体が、これから進むべき方向性を見失い、右往左往しているような状況であり、韓民族も日本の統治と韓国動乱を経る中で、混沌とした思想と価値観を多くの人が持つようになっていました。
安心して頼れるものがどこにもない中、私は「神様が私の父親である」ということを信じ、神様の夢と願いを成してさしあげるという信念を持って成長しました。「いかなることがあっても、私の代で恨に満ちた天の復帰摂理を終わらせる」という決意に満ちていましたし、そのような心で、文総裁との聖婚も決めたのです。
それは、そうすることで、私の代で宗教的な葛藤と教派分裂の問題を清算するという決断でした。これまで一つになれなかった血統と、それによって起こった教派分裂の問題を必ずや整理することを、私は決心したのです。
そうして、私は自分が決意した内容を果たしました。聖婚後、二十一年の間に十四人の子女を出産しました。それも、息子、娘の数を合わせ、それぞれ七人ずつです。今、私は戦争と葛藤のない世界をつくり、神様の恨を解いてさしあげるため、五大洋六大州を回っています。
「もう六十年が過ぎたんですね」
「光陰矢のごとしと言^'けれど、確かにそのとおりですね。この六十年は、苦難と試練の連続でしたが、同時にそれは、栄光と喜びの日々でもありました」
一九五四年五月一日、ソウルの城東区北鶴洞に創立された「世界基督教統一神霊協会」は、
二〇一四年に六十周年を迎えました。記念式では、信徒が過ぎし日を振り返りながら、お互いに感謝の言葉を述べ合いました。
「今日まで、本当にお疲れ様でした」
すべてが貧しい中で始まった統一教会は、私たち夫婦の聖婚を足掛かりにして、新しい時代へと跳躍しました。少数の集まりにすぎなかった小さな教会が、今やその数を数えるのも難しいほど、世界中に広がっています。「原理」のみ言は地球の果てまで伝えられ、歴史上、最も短期間で世界宗教に名を連ねる奇跡を起こしました。誰にもその存在を知られていない満十七歳の少女だった私、韓鶴子は、神様の独り娘として、天の新婦から宇宙の母、広く平和をもたらす母となり、世界の人々の胸に刻まれています。
聖婚式が終わり、一九六〇年の夏になると、全信徒が夏季四十日の啓蒙伝道活動に出掛けました。韓国の全土で、信仰の炎が力強く燃え上がりました。伝道師および信徒六百人以上が、四百十三の村々を巡りながら、神様のみ言を伝えたのです。彼らは四十日間、わずかなはったい粉で食いつなぎながら、襲いくる困難を乗り越えていきました。路地を清掃したり、借りた
部屋で明かりを点して夜までハングルを教えたりもしました。
その時代、統一教会の伝道師はひどい迫害を受け、筆舌に尽くし難い苦労をしました。まるで広野にぽつんと立つポプラの木のように、彼らは寂しい立場に置かれていたのです。しかし、私たちは人々の無理解と非難がひどくなればなるほど、さらに啓蒙伝道に拍車を掛けました。やがて青年たちだけでなく、中高生も加わって歩むようになりました。その中には、中学一年生で参加する女の子もいたのです。
啓蒙伝道は、燎原の火のごとく広がり、韓国社会を変化させる大きなうねりとなりました。
一九六〇年代中盤以降に大きく広がった農村啓蒙と文盲根絶運動も、その時に始まったものです。都市や地方の至る所に夜間学校をつくり、学校に通えない青少年や女性たちにハングルを教えました。
忠州では素手で土のレンガを積み上げて教室を造り、靴磨きをしている青少年のために学び場を用意して、後日、成和学院(鮮文大学の前身)を設立するきっかけにもなりました。そのほかにも、農図園という施設を全国規模でつくり、農村の近代化を牽引しました。これもまた、セマウル運動の出発点となっています。
私たちは多くの分野で、韓国社会を変革する運動の最前線に立ちました。しかし、それでも統一教会は異端だと言って、非難する声がやむことはありませんでした。牧会者や伝道師たちは、厳しい環境の中で日々を送らなければなりませんでした。
啓蒙伝道に参加した人はみな、一日に三食を確保することなどできませんでした。それどころか、一日一食食べることすら難しかったのです。そこで、家で包んでくれた弁当を、教会の学生たちが伝道師の宿所にこっそり置いて行くようになりました。昼食を抜く学生たちを思いながらその弁当を食べる伝道師は、さぞかし申し訳ない思いをしたでしょう。しかし、神様の新しいみ言を伝えなければという悲壮な覚悟を持って、彼らは心を引き締め、歩んだのです。
私は、第一線に立って汗を流す伝道師や信徒を助けるために、服や生活用品を集めて送りましたが、やってもやっても間に合いませんでした。伝道のほかにも、社会運動や奉仕活動のため、より多くの投資が必要でした。
米軍の部隊で働く信徒が、たまに私の子供たちのためにチョコレートやバナナ、お菓子を持ってきてくれました。当時としてはとても貴重な物でしたが、それをそのまま子供たちに与えてしまうことはできませんでした。私はそれらを子供の手の届かないタンスの中や棚の上に隠しておき、遠くの任地に向かう信徒がいれば、それを包んで持たせました。お菓子の包みをもらうや否や、その場で突然泣き崩れる女性信徒もいました。数力月後、任地から戻ってきた彼女は、私の手をぎゅっと握って言いました。
「あの包みを持っていき、開拓先のメンバーと分け合って食べました。真のお母様の励ましは、『原理』のみ言を伝える上で大きな力となりました」
その言葉は、私にとって大きな喜びでした。
文総裁と私は伝道師を任地に送るだけでなく、彼らを励ますため、一年に三、四回、地方巡回に出て教会を回りました。開拓地の伝道師たちは感激の涙を流しながら私たち夫婦を迎えると、夜通し積もる話をしました。
開拓教会は、ほとんどが一間の部屋しかなく、看板も付けられないほどみすぼらしいものでした。門から教会に足を踏み入れれば、「ここは本当に教会なのだろうか?」と疑ってしまうほどでした。私は窮屈この上ないその有様に心を痛めながらも、一方ではそれを誇らしく感じ、信徒たちを慰めました。
「世間の人々は、今のこの状況をあざけるかもしれません。ですが、いつの日か私たちは旗を高く掲げ、万国の民の愛を受けるようになるでしょう」
ですから、私たちはどこに行っても恥じることなく、どんな人に会っても堂々としていたのです。
しかし、「世界基督教統一神霊協会」を政府に登録しようとした時は、何度も拒否されました。特に、既成キリスト教会からの反対と嘆願書が殺到していたようです。そういう中で、一九六三年五月、ようやく正式に登録をすることができました。
世の中は、やはり一日として穏やかな日はありませんでした。一九七〇年代に入ると南北韓の対立がさらに危機的状況となり、国際情勢も大きく揺れ動きました。共産主義を克服しつつ、
世界に平和をもたらすことが何よりも急務でした。私たち夫婦は、韓半島と世界の平和のために全信徒が立ち上がらなければならない、と激励しました。
祝福結婚をして家庭を築いていた婦人たちも、夫と子供を置いて家を離れ、人々の愛国心を鼓舞するために家々を訪問しながら、啓蒙活動を行いました。婦人たちはそれこそ、病に伏す老親や幼い子供たちを天に委ね、出掛けたのです。家庭の中心である女性が長い間、家を留守にするわけですから、残された家族が担う苦労は、並大抵のものではありませんでした。
父親が、残された赤ん坊にもらい乳を飲ませる一方で、任地に出向いた母親は、パンパンに張った胸か•ら母乳を絞り出しながら、涙を流しました。出発する前に妊娠していた妻が、途中で戻ってきて赤ん坊を生み、百日後に再び出発するということもありました。三年ぶりに帰ってきてみると、子供は見慣れない母親を遠目に眺めるばかりで、近づこうともしなかったといいます。
出産のとき、妊婦が苦しがっても毅然とした態度で指導するのが産婆の役割であるように、私たち夫婦は、信徒を厳しく追い立てました。統一教会の婦人たちが、それぞれの家庭の様々な事情を胸に秘め、国家と民族のために先頭に立ったこの活動は、韓国の現代史における隠れた愛国運動に違いありません。
歴史を見れば、国が危うくなるたびに、農民などが義兵となって蜂起してきました。同じように、これらはまさに、共産主義に立ち向かって国を救い、国難を克服した偉大な歴史の一場面として記憶されるでしょう。
以後も、すべての祝福家庭(祝福結婚をした家庭)の婦人たちに、この伝統が受け継がれてレきましたこうして献一教会を非難していた人々も、私たちを新たな目で見つめ直すようになったのです。
「たとえ今は理解できなかったとしても、この三千万の韓民族が統一教会と共に歩む日が来れば、この国、この民族が滅びることはないでしょう」
その後、私たちはさらに大きな責任を胸に抱き、「世界を愛する」という壮大な路程を出発しました。世界宣教の中心地であるアメリカに渡り、二百年前の建国当時の精神に立ち返らせる運動を展開したのです。
五十州を一つ一つ巡回しながら神様のみ言を伝え、一九七四年には、文総裁がホワイトハウスでニクソン大統領と対談しました。また、アメリカ議会やヤンキースタジアム、ワシントン.モニュメントの広場で天のみ旨を伝えて、熱狂的な支持を受けました。
韓国では勝共運動を活発に展開し、救国の気運を盛り上げました。勝共運動は日本やアジアを越えて世界の多くの国々に広がり、共産主義を終焉に導く上で大きな役割を果たしました。
一九八〇年代には、宗教和合のための超教派運動と、南北統一に向けた汎国民運動を牽引しました。社会のために奉仕し、平和を築く運動もより積極的に展開しました。
一九九〇年代、ソ連のミハィル.ゴルバチョフ大統領と歴史的な会談を行い、ソ連の若者に民主主義精神と正しい価値観を教えることで、共産主義の没落と東西の和解を促すことに大きく寄与しました。
一九九一年には、北朝鮮の地で金日成主席に会い、南北の対話の突破口を開くとともに、北朝鮮との交流の足掛かりもつくりました。
二〇〇〇年代に入ってからは、神様の願われる平和世界を成し遂げるため、活動の場を国連にまで本格的に広げました。百九十ヵ国以上の国に家庭連合ができ、地球上のどの都市、どの村に行っても信徒に会えるようになりました。
このようにして、六十年が一日のごとく流れていきました。六十年間、それぞれの時代の大きな山場を通過するたびに、いつも神様のみ言を中心に据え、世界平和のため、身も心もすベて捧げてきたのです。
二〇一二年九月、文鮮明総裁が聖和した後も、歩みを止めることはありません。全人類へのプレゼントとして鮮鶴平和賞を制定し、未来の平和運動のための里程標を打ち立てました。南米やアフリカでさらに多くの奉仕活動を行い、世界各地で多くの人材を育ててたくさんの人々を神様の元に導いています。草創期に受けた弾圧や抑圧、非難は熾烈を極めましたが、それを乗り越え、今や神様を父母として侍り、全人類がみな兄弟となる、真の平和の夢を成し遂げつつあるのです。