自叙伝・人類の涙をぬぐう平和の母 第14話
多くの命を奪った青い閃光
「戦争が始まったそうだ!」
「ああ、人民軍が三十八度線を突破して下りてきたらしい」
一九五〇年六月二十五日、私が数えで八歳の時、韓国動乱が起こりました。庭の片隅に真っ赤な
ホウセンカが咲き乱れ、町角の柳やプラタナスの木が一斉に葉を茂らせる、初夏のある朝
でした。緑に包まれた夏の景色が色あせて見えるほど、朝から路上は、心配そうな表情をした
人々であふれ返っていました。南に来て少し生活が安定してきたと思った矢先、北の人民軍が
突然南に侵攻してきたのです。
人々は恐怖に震え、慌てふためきました。政府は、建前としてはソウル死守を叫んでいたも
のの、実際は急いで大田まで後退し、人民軍を食い止めるために漢江の橋を爆破しようとして
いました。
二日後、まだ夜が明け切らないうちに母は起き出し、避難用の荷物を準備し始めました。ガ
サゴソとする音に私も目を覚ましましたが、そのまま目を閉じて、母と祖母の会話をじっと聞
いていました。
「私たちも避難すべきです。共産党がここまで下りてきたら、私たちもただでは済みません」
「そうは言っても、.女性を乱暴に扱ったりするだろうか?」
「私たちが北から下りてきたことを知れば、その場で殺すかもしれません」
母は、主にお会いするという一念で、いつも精誠を捧げる生活をしていましたが、この時は
共産党が押し寄せてくるという知らせに、いつになく焦っている様子でした。
六月二十七日の夜、ばらばらと雨が降る中、避難を急ぐ人々の列が、町のあちこちにできて
いました。私たちも荷物を抱えて家を出ると、夜雨を浴びながら、漢江に向かって脇目も振ら
ず歩きました。漢江の橋が暗闇の中からうつすらと姿を現し始めた時、私はふと何か感じるも
のがあり、祖母の服の裾を引っ張りました。祖母が足を止めたのを見て、母がいぶかしげに尋
ねました。
「お母さん、どうされたのですか?」
祖母は空を/度見上げた後、下を向いてしばらく私を見つめると、再び顔を上げ、今来た道の
ほうを見つめました。
「順貞が来るかもしれない。もしかしたら連絡をょこすかもしれないから、戻らないと」
母は静かに頷きました。私たち三人はとぼとぼと歩いて家に戻ると、布団にくるまってしば
し休むことにしました。
けたたましい車の音に、私たちは目を覚ましました。障子から、ヘッドライトの光が差し込
んでいました。戸が勢いよく開き、軍服を着た叔父が慌てた様子で中に入ってきました。祖母
と母が安堵のため息をつくのを見ながら、私も心の中で、「もう出発しても大丈夫だ」と思い
ました。
「急いでください。早く行かなければなりません」
陸軍本部に勤めていた叔父は、戦況をつぶさに見守っていましたが、漢江の橋を爆破すると
いう情報が入るや、家族の身を案じ、車を飛ばして来たのでした。私たちはまとめてあった荷
物を持って、急ぎ外に出ました。霧がかかった路地に、車が一台、エンジンをかけたまま停ま
っていました。叔父は私たちを乗せると、漢江に向かって車を飛ばしました。橋のある一帯は、
まだ夜が明けていないにもかかわらず、既に多くの避難民が押し寄せており、大混乱に陥っ
ていました。
私たちは漢江の橋に向かいましたが、道に人があふれ、なかなか進むことができません。そ
れでも、クラクションを鳴らしながら人々の間を通り抜け、陸軍将校の叔父が持っていた通行
証で、何とか漢江の橋を渡り切ることができました。私は母の手をぎゅっと握りしめ、その懐
に抱かれながら、避難民を見つめました。圧倒的な死への恐怖と混乱が、彼らを包み込んでい
ました。
漢江を渡るや否や、叔父が大声を上げました。
「伏せて!」
ドーン!
突然、後ろから爆音が聞こえてきました。私たちは車から慌てて降りると、道の横の低まっ
た所に突っ伏しました。青い閃光と共に、鳴り響くis音。見ると、橋が爆破されていたのです。
私は、闇の中で燃え上がるその炎をはっきりと見ました。それはまるで、赤々と燃えたぎる
悪魔の瞳のようでした。漢江の橋を渡っていた多くの人々、中には軍人や警察官までもが川に
落ちて亡くなりました。幸いにも私たちは命拾いすることができましたが、わずか数メートル
の差で、生と死が分かたれた瞬間でした。
私は目を閉じました。なぜ人は戦争を起こすのか、なぜ多くの人々が死ななければならない
のか、天はなぜ、私たちにこれほどまで大きな苦しみと試練を与えるのか……。様々な思いが
1*をかすめましたが、その場ではつきりとした答えは出ませんでした。再び目を開けると、
首六つ二つに破壊された橋が、燃え盛る炎の中に無残な姿をさらしていました。六月二十八日、
午前三時頃のことでした。
政府は、ソウルを死守すると豪語していたにもかかわらず、北の人民軍が下りてくる前に、
人が通る漢江唯一の橋を爆破したのです。自由を求めて避難の途に就いていた多くの人々が、
命を落としました。私たちはその絶体絶命の危機から、叔父の助けによって脱することができ
ました。峨嗟の判断で生死が分かれる瞬間に、天が保護してくださり、危険な峠を越えたので
す。今も漢江の橋を渡ると、その時の青い閃光と避難民の阿鼻叫喚が思い出され、胸が痛みま
す。
私は幼い年でしたが、戦争の残酷さを直接目撃し、悲惨な避難民の生活を経験しました。純
朴な人々がまるで虫けらのように死んでいき、親を失った子供たちが泣き叫びながら街頭をさ
まよっていました。私は数えで八歳にして、戦争は地上から永遠に消え去らなければならない
という思いを強く持ちました。漢江の橋が力なく崩れ落ちたその瞬間を思い起こすと、既に七
十年近く前のことですが、今でも胸が詰まります。
爆発後、ようやく体を起こした私たちは、軍隊に戻る叔父といったん別れ、不-1«れな道を歩
いて、南へと向かいました。そして、時には車に乗せてもらいもしながら、全羅道にたどり着
き、そこで軍人家族避難民収容所にとどまりました。
九月二十八日に韓国側がソウルを奪還した後は、再び上京して、空き家だった日本式家屋で
過ごしましたが、それも束の間、今度は五十万の中国軍が鴨緑江を越えて侵攻してきたため
、一九五一年の一・四後退(国連軍が前年十一月からこの年の一月にかけてソウル以南の地域ま
で撤収したこと)に伴い、再び避難することになりました。軍人の家族は他の避難民より先に特
別列車に乗れたため、無事に大邱まで下りていくことができました。
その避難の路程は、筆舌に尽くし難いものでした。飢えや病で亡くなった人々の亡骸をこれ
でもかというほど目にしました。しかし私は、生死の境を行き来するようなその路程において
、いつも神様が共にいらつしゃることを実感していました。神様は、私たちが北から南に下り
てくる時も、南で避難民生活の渦中にある時も、常に共にいて、保護してくださったのです。