自叙伝・人類の涙をぬぐう平和の母 第13話
三十八度線、あの世とこの世の境を行き来して
「お母さんに会いに来たのかい?」
「はい!」
「ちよっと待ってなよ、呼んできてあげるから。齡があるけど、食べる?」
一九四八年、北の共産党によ.る宗教弾圧が極限に達した頃、祖母と母も、腹中教の信徒だと
いう理由で十一日間、投獄されました。数えで六歳だった私は、母に会いに留置場に通いまし
たが、幼い私を不憫に思ったのか、誰もが良くしてくれました。横柄な共産党員ですら、私を
見ると果物や餘をくれたのです。
幸いにも二人は牢獄から解放されましたが、共産党はますます横暴を極めるようになりまし
た。祖母は、北ではこれ以上、信仰生活はもちろん、平凡な暮らしをすることさえ難しいと判
断し、南に行くのはどうかと、苦しみながらも考え始めました。しかし、当時はまだ許浩彬が
獄中にいたため、母は簡単には結論を出せず、ためらっていたのです。
祖母は、そんな母を説得しようとしました。
「ここにいては再臨主に出会う前に私たちが死ぬ。南に下りましょう。順貞にさえ会えれば
、道が開かれるはずだよ。神様が私たちを保護してくださる」
順貞とは、母の弟、つまり私の叔父に当たります。祖父の洪唯一は、平壌が「エデンの宮」
であるという啓示を受け、これに従うために残ることにしましたが、妻と娘、すなわち私の祖
母と母には、南に行くよう勧めました。再臨主に出会うことが人生の目的である母は、何日も
祈りを捧げた末に、しばらくの間、南に行ってとどまることに決めました。
何とも幸運だったのが、叔父の洪順貞が日本での学業を終え、南の軍にいるという知らせが
届いたことです。叔父は容姿端麗で、知識人であり、非常に意志の固い人でした。祖母は、た
だ一人の息子である叔父に会いたくてたまらなかったのだと思います。
一方で、やはり祖母は唯一の孫娘である私を、何としてでも守ろうとしていました。孫娘が
残虐な共産党の手にかかるようなことが決して起こらないようにしようとしたのです。いつも
私に、「お前は神様の真の娘だ」と話していた祖母は、世の一切の不幸から、私を守ろうとし
てくれました。
また、祖母は北にいる共産党が長続きすることはないだろうと考えていたので、少しの間、
南にいれば共産党が滅び、また故郷に帰ってこられるだろうと信じていました。しかし、その
ようにして叔父に会うつもりで三十八度線を越えたのを最後に、私たち三人は南にとどまり
続けることになりました。
振り返ってみれば、天は叔父に対する祖母の切実な思いを通して、私たちが出発できるよう
に役事されたのです。子供に対する母親の哀切な思いは、突き詰めて言えば、私たち人間を訪
ねてこられる神様の切実な心情でもあったのです。
「そろそろ.夜も更けたから、出発しよう」
一九四八年、秋のある夜更けに、祖母と母、そして私の三人は、包みを二つばかり抱え、家
を出ました。安州から三十八度線までは、直線距離でも二百キロはあります。私たちはその遠
路を、何日も何日もかけて下っていかなければなりませんでした。最初の一歩を踏み出す時か
ら、胸がドキドキして仕方がありませんでした。
出発してから五、六時間もすると、東の空がかすかに明るくなってきました。私たちは少し
でも先に進むため、休まずに歩きました。夜は空き家で眠りに就き、朝露を踏みながら、また
出発しました。ぼろぼろの靴ででこぼこした道を行かなければならないので、少し歩くだけで
足が痛みました。何より耐え難かったのが、空腹です。民家に入り、包みの中の物を渡して、
代わりに麦飯を恵んでもらいながら食いつなぎました。苦労に苦労を重ねながら、ひたすら南
に向かって歩き続けたのです。
北の共産党は、人々が簡単には南下できないよう、田畑を掘り返してでこぼこにしていまし
た。田畑を通るたびに足を取られ、夜は寒さにぶるぶる震えながら、ただ星の光だけを頼りに
歩きました。,
ようやく三十八度線の近くまで来たと喜んだのも束の間、私たちはそこで厳重な警備を敷い
ていた北の人民軍に捕まってしまいました。空き家の納屋に放り込まれると、既にそこには捕
まった人が何人もいて、恐怖に震えていました。ただ、人民軍は男性に対しては乱暴に振る舞
いましたが、女性と子供に対してはひどい扱いをしませんでした。
ある日、捕まっていた大人の一人が、歩哨に立っていた人民軍に食べ物を持っていくように
と、私を使いに出しました。私は震える心を抑えて笑顔をつくり、食べ物を人民軍に渡しまし
た。そのようなことを何度かしているうちに、彼らの心も和らいでいったようです。ある晚、
故郷に帰れと言って、人民軍が私たち三人を解放してくれました。天の加護により、生死を分
かつ岐路で生の道へと導かれたのです。その夜、夜陰に乗じ、私たちは案内者について、三十
八度線を一気に越えました。
私は喜びのあまり、母に言いました。
「もう、金日成を称賛する歌を歌わなくてもいいのでしょう?南の歌を歌うわ」
ところが、南側でも厳重な警備が敷かれていたのです。そのことを何も知らなかった私は、
うきうきして何節か歌を歌いました。すると、前の茂みでガサガサと音がするのです。びっく
りした私たちは、その場で石のように固まりました。また人民軍に捕まるのではないか、とい
う恐怖が押し寄せてきました。
ところが、茂みをかき分けて現れたのは、南の兵士たちでした。人の気配を感じ、銃を構え
て警戒していた彼らでしたが、無邪気な子供の歌声を聞き、撃つのをやめて出てきたのです。
彼らは安堵のため息をつく私たちを温かく迎え、ねぎらってくれました。
「こんなかわいい娘さんを連れて、さぞかし大変だつたでしょう。いくらもありませんが、
お役立てくだ.さい」
南の兵士たちはありがたいことに、ソウルまでの旅費をくれました。あの時、もし私が歌を
歌っていなければ、北の人民軍と誤解され、その場で銃弾を浴びて命を落としていたでしょう。
天はこのように、辛くも私たちを保護してくださつたのです。
こうして、千辛万苦の末に、無事、南の地を踏むことができました。しかしそれは一方で、
祖父とは二度と会うことのできない、決別の道ともなってしまいました。
南での生活は、私たちにとって戸惑うことばかりでした。ソウルには一度も来たことが^§り
ませんでしたし、どこに行っても人、人、人でごつた返していたので、どうすればいいのか、
見当もつきませんでした。信仰をどのように守っていくのか、どこに行けば再臨主に会えるの
か、何も分からず、目の前が真つ暗になりました。頼れるところもなく、お金もありません。
特別な技術を持っているわけでもないので、稼ぐこともままなりませんでした。古びた空き
家で雨露をしのぎ、一日一日を何とか生きながらえながら、過ごしました。
そのような中、聖主教の金聖道の長男である鄭錫天が南に住んでいるという話が耳に入り、
祖母はいずれ彼を訪ねていこうと、心に決めました。しかしまず、ソウルで叔父を捜すことが
最優先でした。私たちが南に来て頼れるのは、叔父だけだったのです。そういう中、意外なと
ころから天の導きがありました。
ソウル薬学専門学校で勉強を終えた叔父は、陸軍士官学校の薬剤官教育を受けた後、中尉と
して服務していました。しかし、私たちは実際に叔父に会うまで、そのようなことを全く知り
ませんでした。母はわらにもすがる思いで彼を捜し出すために、毎日切実な祈りを捧げました。
「弟の洪順貞を見つけるには、どうすればよいでしょうか?」
その祈祷によって導かれ、偶然にも叔父の友人に道端で出会い、消息が分かったのです。
まさに天佑神助でした。
龍山陸軍本部に勤務していた叔父は、母親と姉、そして、姪が故郷から突然南に下りてきた
のを見て、驚きながらも喜んでくれました。彼は早速、孝昌洞に小さな部屋を一つ借りてくれ、
私たちはそこに身を寄せることになりました。
こうして、ようやく安心して生活できるようになったのです。あとで分かったことですが、
そこは後に設立される統一教会の本部が置かれた青坡洞のすぐ近くでした。まさに目と鼻の先
とも言えるほど、近所だったのです。
ほどなくして私は孝昌小学校に入学し、自由大韓の地で初めて学校に通うことになりました。
本を風呂敷に包んで学校に行く毎日は、とても楽しいものでした。近所の大人たちからとて
もかわいがられ、子供たちとも仲良くなりました。
徐々に、南でも落ち着いた生活ができるようになりました。叔父が将校として軍に服務して
いたことや、まだ会えずにはいましたが、聖主教の鄭錫天とその家族が先に南下していたこと
は、天が摂理を担わせる独り娘を保護するために準備していたと言わざるを得ないことでした。