自叙伝・人類の涙をぬぐう平和の母 第15話
長い苦難の末にたどり着いたみ旨の道
大邱に下った私たちは、聖主教の鄭錫天とその家族に会いました。無事に会えた喜びは、大
変なものでした。鄭錫天も、長い間離別していた兄弟にでもあったかのように、非常に喜んで
くれました。
鉄山の聖主教は、日本の弾圧と共産党の恐ろしい迫害によってほとんど消えかけていました
が、鄭錫天はみ旨を必ずや果たそうと、礼拝を捧げながら再臨主を迎える準備をしていました。
鉱山事業を営みつつ、堅実に米や石油の商売も手掛け、暮らしに困窮してはいませんでした。
私の母は、彼に切実に訴えました。
「私たちが北にいる時、許浩彬女史を通してたくさんの恩恵を受け、大きな役事がありまし
た。再臨主はもうすぐ韓国に来られます。その方をお迎えするために、精いっぱい祈らなけれ
ばなりません」
こうして、散らばっていた信徒たちが集まり、再び熱心に祈りを捧げるようになったのです。
そんなある日、母は、再臨主に会^-ためにはもっと精誠を込めた生活をしなければならない、
という天の啓示を受けました。
「祈るだけではいけない。生食をしなければ」
母は松の葉を生で食べて過ごすようになりました。蒸して食べれば問題ない松葉ですが、
それを生で食べ続けたため、歯をひどく傷めてしまいました。
また、一人しかいない娘に勉強をさせてやらなければとい^-思いから、母は商いを始めまし
た。祖父が農業を大きく手掛け、祖母もミシン商会を営んでいたおかげで、母は結婚するまで、
比較的裕福な生活をしていました。田舎では珍しく、姉弟共に上級学校に通ったほどです。
その祖父が、母にいつも言い聞かせていたことがありました。
「どれほど大変でも、他人の世話になってはいけない」
その言葉を守るために、母は小さな店を開いたのです。ところが、キムチ汁と松葉、ピーナ
ッツを一日二回だけ食べる生活をしていたので、いつも体に疲労が残り、弱っているように見
えました。ただ、ろくに食べないので元気はありませんでしたが、精神は澄み切っているよう
でした。祖母はそんな母を不潤に思わずにはいられなかったようです。
「これしか食べずにどうやって商売ができるのだろう。本当に奇跡のようだ」
母は空腹に耐えながら、わずかなお金を稼ぐため、三力月ほど商売をしました。人一倍、強
い信仰心で、「無条件、信じなければならない」とだけ考えていました。現実と妥協するとい
うことを知らなかったのです。そうして死ぬほど苦労をしながらも、娘が世俗に染まらず純粋
に育つように、常に意識を傾けていました。
私は、鳳山洞にある大邱小学校に入って、勉強を続けました。勉強はできるほうで、友達も
たくさんいました。なぜか、大人たちからもかわいがられました。
ある日の午後、母の店の前で一人遊ぶ私を見て、通りすがりの人が足を止めました。キラキ
ラと目が輝く道人でした。母が店から出てきて丁重に挨拶をすると、その人は私を指さして尋
ねました。
「あなたのお嬢さんですか?」
道人は、温かく深い眼差しで私を見つめました。母が頷くのを見て、彼は言葉を続けました。
「この娘は、十人の息子にも勝るので、しっかり育ててください。遠くないうちに、年の差
が大きい人と結婚する貴い娘です。陸海空の財産を持つ富者として暮らすでしょう」
真摯に話す道人の言葉が、胸に響きました。
母はたつた一人の娘をさらに清く育てなければならないと思い、一九五四年、済州島の西帰
浦に渡りました。雑然とした大都市を離れ、清らかな自然の中で私を育てるためでした。そこ
で、鄭錫天の弟である鄭ソクチンー家と九力月間、共に生活しました。
母は私に、小学校卒業後、世の中とは関係のない、主のための聖女の道を歩ませようとしま
した。神様の娘として召命を受けるためには、純潔でなければならないという思いで、精誠を
尽くしたの.です。新孝小学校の五年に転入した私は、遊びたい盛りの年に、過酷とも言えるほ
どの厳しい信仰生活をすることになりました。祈祷、敬拝、精誠を捧げることに、ほとんどの
時間を費やすようになったのです。
母はふやかした押し麦に、大根キムチを一つ添えて生食をし、私は粟と一緒に炊いた御飯を
食べて過ごしました。母は生食をしながらも、農民が働いている姿を見ると、そのまま通り過
ぎることができず、畑に入って仕事を手伝いました。また、道を歩いていて重い荷物を背負っ
ている人を見かければ、家まで担いであげました。そのような母の姿を見て、人々はただただ、
感嘆するばかりでした。
「何とも、奇特な人がいるものだね」
「教会に熱心に通っているそうだけど、やはり違うな」
母は誰かを助けることを生活の中で常に実践し、信仰者としての模範を示してくれました。
叔父は戦争が終わる頃に結婚し、家庭を持っていました。祖母は息子夫婦と一緒にソウルに
住んでいましたが、母と私がどのように過ごしているのか気になるようで、済,島にまで訪ねて
きました。ある日、江原道の春川勤務の発令を受けた叔父から連絡が来ました。
「済州島の生活を整理して、春川に来てください」
祖母も、「鶴子を近くで毎日見るのが、私の人生の唯一の楽しみだ」と言って、本土に来る
よう、懇願しました。こうして、母と私は済州島を離れ、祖母の住まいの近く、薬訃洞に小さ
な部屋を借りて、春川での生活を始めることになったのです。
私は一九五五年二月、鳳儀小学校に転校し、ほどなくして六年生になりました。学校には大
きなプラタナスの木があったのですが、その木陰で本を読んでいたことが思い出されます。学
校の隣には練炭工場があり、登下校のたびに運動靴に練炭の粉が付いていたこともよく覚えて
レます。
翌年の一九五六年、私は鳳儀小学校を第十一期生として卒業しました。戦争が起きる中、四
つの学校を転々とした末に、受け取った卒業証書でした。学業優秀者として、卒業式の時に優
等賞ももらいました。
そのような中で、主に出会うために捧げる母の切実な精誠に、天がついに応えてくださいま
した。私たちを見守ってこられた神様は、そのみ手を決して放されなかったのです。
私たちより先に南に下り、大邱で暮らしていた鄭錫天は、金聖道の遺言をいつも心に留め、
実践しようとしていました。
「神様から任されたみ旨を私が成し遂げられなければ、他の人を通してでも成し遂げるだろ
う。主が来られる団体は、淫乱集団だと誤解され、迫害を受けて投獄もされるはずだ。そのよ
うな教会が現れれば、真なる教会だと思って訪ねていきなさい」
彼は家で熱心に礼拝を捧げながら、復興会が開かれると聞けば、あちらの教会、こちらの教
会とこまめに訪ねていきました。そうして、一九五五年五月、「東亜日報」に載つた梨花女子
大学退学事件に関する記事を目にしたのです。
それは、統一教会は淫乱集団の疑いがあり、そこに顔を出しているという理由で、梨花女子
大の教授たち五人が解雇され、学生も十四人、強制的に退学させられたという内容でした。
母親の予言が現実のものとなっていることを直感した鄭錫天は、釜山に住む自分の姉に手紙
を送りました。彼の姉は娘と共に、新聞の切れ端を握ってすぐさまソウルの青坡洞に向かいま
したが、文総裁には会うことができず、釜山の統一教会を紹介されて戻りました。
姉から連絡を受けた鄭錫天は、今度は_ら大邱の統一教会を訪ねて「統一原理」を聞き、すぐ
に信徒になりました。ところが、入教して十日後の七月四日、文総裁が投獄されるという衝撃
的な事件が起きたのです。それでも、鄭錫天はソウルの西大門刑務所を訪問して文総裁と面
会し、大きな励ましを受けました。そして文総裁が十月四日に無罪で釈放されると、鄭錫天
は大邱での生活をすべて整理してソウルに上り、み旨の道を献身的に歩むようになったのです。
出監後、文総裁が大邱を訪問することがありました。その頃、春川にいた母が、ある夢を見
ました。それは白い龍が自分の懐に入ってくるというものだったのですが、その夢が何を意味
するのか、はっきりとは分かりませんでした。ただ、近いうちに大きなことが起こるだろうと
いう予感だけはありました。そのような折に鄭錫天から手紙が届き、すぐに大邱に向かったの
です。しかし、文総裁は既にソウルに戻った後だったので、その時は会うことができませんで
した。
残念に思いながら大邱を去ろうとした時、母はまた夢を見ました。一対の黄金の龍がソウル
に向かってひれ伏している夢でした。母はその夢を胸深く刻み、休む間もなくソウルに行くと、
青坡洞教会を訪ねました。こうして、そこで初めて文総裁にお会いし、御挨拶ができたので
す。一九五五年十二月のことでした。それはまた、白い龍の現れた夢が何を意味していたのか、
疑問が解けた瞬間でもありました。
長年にわたって、あらゆる苦行をしながら^|ダに描いてきた再臨主に会うことができ、母は
これ以上ないほど感激していました。しかし、一対の黄金の龍の夢が何を意味しているのか、
まだ解くことはできませんでした。
母の感激とは裏腹に、文総裁は他の信徒には優しく接しながら、母にだけは冷たく当たりま
した。母は目の前が真っ暗になり、胸が張り裂けるようでしたが、休むことなく、黙々と祈
りました。
ある日、文総裁がイエス様の心情について説教で話しながら、このように言いました。
「昔、イスラエル民族は真の父として来られたイエス様を迎え入れることができず、十字架
にかけてしまった。その罪がどれほど大きいことか!」
その言葉を聞いた母は、礼拝堂の片隅で説教が終わるまで、ただただ涙を流していました。
すると、そのことを伝え聞いた文総裁があとで母を呼び、天の召命を受けた人は、サタンから
はもちろん、天からの試験までも通過しなければならないと語りながら、慰労してくださつた
のです。それまで感じていた寂しさは、春に雪が溶けてなくなるように、母の心の中から消え
去っていきました。
確固たる信仰を持つた母は、すぐに春川に向かい、開拓伝道を始めました。