平和経 第1話

第一篇 真の平和の根本原理

1.神様と人間のための理想世界

日付:一九七二年二月四日

場所:アメリカ、ニューヨーク、リンカーン•センター

行事:アメリカ九ヵ都市巡回講演

今晩、このように参席してくださった紳士淑女の皆様に感謝申し上げます。長い間、アメリカ国民の皆様に会える日を心から待ち望んできましたので、このようにお会いすることができ、とてもうれしく、また有り難く存じます。きょうは、「神様と人間のための理想世界」というテーマについて、皆様と共に考えてみたいと思います。

理想世界はどこから追い求めるのか

今、人類は誰しもが、一つの世界、あるいは理想世界を心から願っています。しかし、現在において、それを実現する可能性があるようには見えないことが、人類にとって悲劇と言わざるを得ません。

もし神様が存在されるとすれば、神様もそのような理想世界、一つの世界を願われるに違いありません。神様や人間が願うのは、一つの世界、理想世界であることに間違いありません。神様がおられるとすれば、必ずそのような世界をつくり上げなければならず、神様の能力を信じる人であるならば、このことだけは必ず成就しなければならないと思うでしょう。

人間は、誰もが平和の世界を願い、一つの世界を願いますが、その世界は、ただこのままでは実現できないことも自認しています。民主世界は民主世界なりに、共産世界は共産世界なりに、それぞれ自分の主張する立場で

世界を一つにできれば、と考えているのです。それでは、民主世界を先に立てて共産世界がそれと一つになることができるのでしょうか。また、共産世界を先に立てて民主世界がそれと一つになることができるのでしょうか。これは極めて難しい問題と言わざるを得ません。

私たちが世界を中心として、統一を願って理想世界を求める時に、一つの国家を中心として「統一された国であり、理想世界に代わる国だ」と言える国はあるでしょうか。ないのです。統一された世界が存在する前に統一された国がなければならず、統一された国が存在する前に統一された氏族、統一された氏族が存在する前に統一された家庭、統一された家庭が存在する前に統一された個人がなければなりません。これが問題です。

人間は善悪の母体

統一はどこから成し遂げられなければならないのでしょうか。この世界は結果の世界なので、原因となる個々人を中心として模索しなければならないという結論が出てきます。私たち個人は、相反する二つの目的の方向をもった人間になっています。これは誰も否定できないことです。心は善の所に行くことを願うのに、体はそれとは反対の方に行けと言うのです。この二つが闘っています。そのような個人、すなわちそのような男性とそのような女性が合わさって家庭を形成します。ところが、内なる人と外なる人がいるので、夫婦が会えば四タイプの人がいることになり、それぞれが異なる行動をするようになるのです。このようにして一つの氏族ならば氏族、民族ならば民族、国家ならば国家、世界ならば世界がすべて分かれるのです。有り難いことは、数百、数千に分かれるのではなく、大きく二つに分かれることです。これが不思議なのです。

もし神様がいらっしゃるならば、このような人間をそのまま放っておくことができないので、人間の知らない歴史の背後で活動してこざるを得ませんでした。また、人間を悪へと追い込むサタンがいるとすれば、そのサタンも、神様が引っ張っていく方向とは反対の方向へと引っ張っていこうとするのです。

しかし、絶対的な神様のみ前にいくら反対するサタンがいたとしても、サタンには、絶対的な権限をもって立てた原則に反して進み出る権限がありません。正しいことは神様が管理し、悪いことはサタンが管理するのですが、そのような神様とサタンとの闘いの結果が、私たち個人から現れ始めるのです。ですから、人間は、悪の母体にもなり、善の母体にもなることを知らなければなりません。すなわち人というのは、善の出発地になると同時に、悪の出発地にもなるのです。

皆様。高くなることは良いことを象徴し、下つていくことは悪いことを意味します。皆様が人々の前で称賛されるようなことがある時は、大いに自慢したくなります。自分が悪いことが分かれば、真のほうに隠れてしまうのです。良いことをする時は、宣伝をして「私を見習いなさい」と叫ぶことができます。悪いことをする時は、知られてしまうのではないかと隠そうとするのです。悪い行動、すなわち、盗みを働く人で、堂々と宣伝して歩く人はいません。隠れて歩くのです。

人の内には、高くなろうとする部分と低くなろうとする部分の二つの部分があることを知らなければなりません。高くなろうとするのが良心作用です。悪を働きながら、良心の苦痛を受けない壮士や偉人はいないのです。人間の良心が神様の見張り台ならば、体はサタンの見張り台であり、また良心が天国の起源ならば、体は地獄の起源となることをはっきりと知らなければなりません。

ですから、善悪の本質が根本的に違うことが分かります。善は全体の利益を追求するのであり、悪は自分個人だけのために生きるのです。善の人は、私よりも家庭、家庭よりも地域社会、地域社会よりも国、国よりも世界のために生きようとします。

今まで歴史は、自分のために生きる面と、人のために生きる公的な面を中心として、闘争によって連結されてきました。この体を中心とした悪の根拠を破綻させ、根を抜いてしまうことが神様の絶対的な要求です。その反対に、良心を無慈悲に破錠させようとするのが、サタンを中心とした悪の要求です。ですから、そのように闘いながら歴史を綴ってきたのです。

良心を主とした神様の側と、体を主とした、物質を主とした悪の側が対立しながら、この世の人類は唯物主義と唯心主義とに分けられざるを得ないという結論を下すことができます。もし神様がいないとすれば、このような結果の世界は来ることができないのです。悪は、嫉妬、分裂、闘争を強調して、自滅を招きます。このように見るとき、理想や統一は、どこから始まらなければならないのでしょうか。結局は、世界よりも根本に入って「私」です。個人なのです。神様が願われるのは、統一の世界であり、理想の世界なので、人間に対してそれを教えなければならないのです。

宗教の教え

皆様。その方法を御存じでしょうか。それは皆様の願われる方法ではありません。誰もが願うような方法ではありません。第一に、良心と反対になるものを打ちなさいということです。神様は代わりに打つことはできません。打つことができるならば、サタンも打つことができるのです。中間の立場にいる人間をめぐつて争奪戦をしているのです。神様の教えは、良心を中心として体を「打ちなさい!打ちなさい!打ちなさい!」というものです。このような運動を世界的にせざるを得ません。「体の嫌うことをしなさい」というのです。それを教えるのが宗教です。

それでは、宗教の教えとは何でしょうか。すべての宗教は「体を打ちなさい!食を貪つてはいけない!自分本位にやってはいけない!肉欲に主管されてはいけない!」と教えるのです。高次的な宗教は、すべてそのように教えているのです。仏教も苦行を重要な教えとしています。キリスト教も、犠牲を信条としています。それを実践しようとすればこの上なく難しいので、神様は一つになる方案を提示しなければならない、と考えざるを得ません。人間には心と体があるので、一度は心に従ったと思えば、今度は体に従っていき、そのように行ったり来たりするのです。

宗教の教えは、体の願うことを否定し、その反面、精誠を尽くさせて、神様の力を受けようというものです。これが今まで展開してきた宗教の運動です。それで神様は、そのような個人から始まり、家庭、氏族、民族を経て、一つの国を願ってきたのですが、それがイスラエルの国であり、イスラエル民族だったのです。すなわち選民でした。歴史上に「選民」や「選ばれた国」という言葉があるという事実を考えてみれば、神様が存在することは否定できません。

神様が計画されたとおりに、個人的に心と体が完全に一つとなり、家庭的に完全に一つとなり、氏族的に完全に一つとなり、民族的に完全に一つになって、世界まで完全に一つにできる代表者を送ってくださることを約束したのが、イスラエルのメシヤ思想です。神様が原型として待ち望まれた個人、家庭、国、世界をすべてイスラエル民族と一つにさせうの国をつくり、神側の世界をつくって、この世界を救おうとしたのです。

統一の原型としてこられたイエス様

皆様がここで知らなければならないことは、イスラエル民族をしてメシヤを迎えさせ、豊かに暮らせるようにさせるという目的ももちろんあったのですが、神様の摂理は、一民族を救うのではなく、世界を救わなければならないので、イスラエル民族を立てて世界を救おうとしたのです。これがメシヤを遣わした目的でした。そのとき、イスラエル民族が願うことと神様の摂理の方向が一致すべきだったのですが、食い違ってしまいました。

ですから、このような統一的な世界をつくるために来られた個人としてのイエス様は、個人を中心として家庭的な原型をつくらなければならず、氏族、民族、国家、世界的な原型をつくらなければなりませんでしたが、それをつくることができずに亡くなったのです。例えて言えば、イスラエルの国は、主人が思いどおりにできる野生のオリーブ畑と同じです。イエス様は、この野生のオリーブ畑に真のオリーブの木として来て、野生のオリーブの木をみな切ってしまい、神様の思いどおりに、個人と家庭から一つの国家を神様の原型に接ぎ木しようとしたのです。そのようにすれば、イスラエルの国とユダヤ教団は、真のオリーブの木になるでしょうか、野生のオリ—ブの木になるでしょうか。間違いなく真のオリーブの木になるのです。そのように国を中心として主権をもってユダヤ教と一つになり、世界的に宣教をしていたならば、今日の二千年のキリスト教歴史は必要なかったのです。

心と体が一つになることができなかった人間世界に、一つの原型、一つにするための統一の基本としてこの地上にイエス様を遺わしたのですが、イスラエル民族とユダヤ教は彼を十字架にかけて殺害してしまいました。神様のみ旨に反対するユダヤ教とイスラエルの国になってしまったので、神様が数千年かかって立てた国とその基盤は、サタン側に渡るようになったのです。こうしてイスラエル民族は二千年間、国のない民族として世界の数多くの民族から踏まれ、呻吟する民族になって闘ってきました。イスラエルの国は一九四八年に独立しましたが、このように独立できる時が来たということは、再逢春(チェボンチュン)(不遇に陥った人が春を迎えるように幸福を取り戻すこと)し、新しく出発できる世界的時代に入ったことを私たちは察することができ、そのような時が来たということは、主が再び来られる時が近づいたことを、私たちは推察して悟らなければなりません。

それでは、今までの歴史過程で、イスラエルが天を裏切って以来、神様の足場となる個人の土台、家庭の土台、氏族の土台、国の土台があったと思いますか。ありませんでした。これを引き継いだのがキリスト教であり、第一イスラエルはみ旨を成就できませんでしたが、このキリスト教が、第二イスラエルの使命を受けてみ旨を成し遂げなければならないのです。ところが、地上と霊界が一つになった立場で土台を築いたキリスト教になることはできず、地上を否定し、霊界だけを中心とした国を探し求めるための運動を今まで展開してきたことを知らなければなりません。

今日のキリスト教信徒が信じているように、主が空中に再臨するとすれば、そのような原型で統一された個人と家庭と氏族と民族と世界を成し遂げることはできないのです。来られる主が成就できる目的地は、空中ではなく、この地上、この世界であることをはっきりと知らなければなりません。ですから、イエス様は一つの原型を形成した男性として、心と体が完全に統一された男性として、統一された女性を迎え、統一された家庭をつくらなければならないのですが、どのようにすればつくることができるのでしょうか。これを解決しなければ、統一された国と世界は現れてこないのです。

今日のキリスト教の信徒の中に、「私は新婦となり、新婦として主が願われる家庭を築こう」と考える人がいるでしょうか。具体的な内容を知らずにいるのです。どこに来られるのかということも、どのように来られるのかということも知らずにいるのです。主は雲に乗って来ると文字どおりに信じてはいけません。主は、神様が願う一つの家庭を求めるために来るのです。その家庭を求めるためには、その家庭だけでは駄目なのです。家庭のために生きる氏族がなければならず、氏族のために生きる民族がなければならず、民族のために生きる国がなければなりません。一つの国を中心として成し遂げることができる原型をつくっておかなければ、第三イスラエルの国を見いだせないことを、現在のキリスト教は知らなければなりません。

キリスト教思想は奉仕と犠牲の思想

ここで、個人が永遠に残るための道を一度考えてみましょう。私たちは個人として世の中で尊敬される人になろうとすれば、自らを高めようとする人になってはいけません。尊敬されることを望むならば、犠牲にならなければなりません。十人の友人がいれば、その十人の友人のために長い間犠牲になる人は、その友人たちの中心存在になるのです。

それだけではなく、彼らの親戚と彼らの友人までもが、その人と一つになろうとするのです。反対にその十人の友人に、「あなたたちは、私のために生きよ、私のために生きよ」という人がいるとしましょう。そのようにすれば、その友人はみな離れていくでしょう。独りぼっちになるのです。最後には自分も行く所がなくなってしまうのです。これが私たちの社会における善と悪の分岐点であることを、皆様は知らなければなりません。

一国の愛国者について考えてみましょう。皆様はアメリカについて考えるとき、リンカーン大統領やケネディ大統領をこの上なく尊敬しています。なぜ尊敬するのでしょうか。大統領は同じ大統領ですが、アメリカのために命を捧げたので尊敬するのです。大統領の中で、アメリカのために死んだ大統領の中で、悲惨な立場で犠牲になればなるほど、その人はアメリカでこの上なく気高い愛国者、この上なく気高い大統領の位置を占めるでしょう。

命を捧げて国を愛した人であるほど、それも悲惨な立場で犠牲になった人であるほど偉大なのです。悲惨であればあるほど、それが一時は悲惨ですが、歴史時代が過ぎれば過ぎるほど、だんだんと環境の範囲が広がり、その人を中心として一つになるようになっているのです。

イエス様の死も同じです。イエス様は誰のために犠牲になったかというと、世界の人類のために、世界の国のために犠牲になったのです。誰よりも人類を愛し、誰よりも神様を愛し、怨讐までも愛した立場で福を祈って、悲惨な立場で亡くなったのです。名もなく死んだイエス様であり、その当時は民族の反逆者として追われたイエス様が、今日、世界的なキリスト教文明圏を創建するとは、誰も知りませんでした。ここで私たちは、一つの原則を提示することができます。大きな舞台のために、公的な大きな仕事のために犠牲になった人は、滅びるようにはなっていません。滅びることはないという事実を、私たちは知ることができます。そのような人たちが歴史的な聖賢たちです。

これを見るとき、神様がいらっしゃり、神様が悪の世界に対して闘う作戦があるならば、どのような作戦方法を取るのかということを、ここで発見することができます。悪はその反対です。自分のために他を犠牲にするのです。それが個人的にそうなれば、個人の反対を受け、家庭的に、あるいは国家的にそうなれば、必ず歴史に糾弾される独裁者になるのです。

また皆様は、悪の戦法は他を犠牲にして自分が出世しようとする戦法であり、神様の戦法は他を生かすために自分が犠牲になる戦法であることを知らなければなりません。ですから、歴史過程で善を主張してきた人たちは、その時代においては歓迎されず、犠牲になりましたが、自分の身を犠牲にしながら、国を愛し、世界を愛して死んでいった人たちは、歴史が過ぎたあとに、その名が知られるようになるのです。これが事実であることは否定できません。

ですから、キリスト教の思想は、奉仕の思想であり、犠牲の思想です。キリスト教は一つの教団を中心として、自分の教団だけのために生きるようになれば滅んでいきます。もしアメリカのあるキリスト教の教団が、活動するすべての目的をアメリカの救援に置き、その目的を達成するためにあらゆる犠牲を覚悟して進み出るとすれば、そこに天は協助するでしょう。このようにアメリカを救い、キリスト教化した国家にして、世界を救うためにアメリカ国民を犠牲にするキリスト教になれば、世界を支配するキリスト教になると見ることができるのです。

Luke Higuchi