平和経 第4話
善と悪の起源
人間にとって最も問題となるのは、善が何であり、悪が何かということですが、その基準が不確かです。神様と私の関係を知り、その関係が一致して、悪が何であり、善が何であるかということを確実に根本から見極めなければなりません。悪とは何であり、悪の定義は何でしょうか。
サタンが讒訴する条件をもつことが悪です。皆様は、それを知らなければなりません。サタンが讒訴し、そこに関係を結び得る内容をもつようになれば罪です。キリスト教徒は罪の根を知らなければなりません。
皆様は、神様の愛を受けていますか。皆様の父母や祖父母は、神様の生命と愛と理想を中心として一致できる立場で生きているでしょうか。そのような立場で生きている人が、どこにいるでしょうか。そのような人はいません。なぜでしょうか。堕落したからです。サタンが入ってきて、私たちを占領しているのです。サタンが讒訴し、関係を結び得る条件が罪であると言いましたが、結局は、創造の原則、本来の宇宙の根本原則に反対する立場に立つようになったのです。
皆様。人間は、対象の立場で神様を主体とするので、神様だけのために生きることに存在の価値があり、存在の起源があるというのが原則であることを知りました。しかし、悪の出発は、サタン自身が、「私が主体になろう。私が中心になりたい」と考えるようになったことから始まったのです。エバもそうでした。主体のために存在しなければならないのですが、「私のために存在せよ」と考えたのです。これが悪です。神様の創造の原則は、対象のためにあるものなのですが、対象を否定し、「私のために存在せよ!」というようになり、それを根本にしたということです。
皆様は、善悪の起源をはっきりと知らなければなりません。悪なる人とはどのような人かというと、「私のために生きよ。みな私のもとに来て屈服せよ」という人です。神様も、これを打ち砕かなければならず、イエス様も、これを打ち砕かなければなりません。ですから、「高ぶってはならない。自分の利益を求めてはならない。他のために犠牲になりなさい。奉仕しなさい」と語られたのです。
しかし、堕落して故障したために、これを原理原則どおりに合わせなければなりません。創造の法度に一致できるようにして、壊れたものを再び合わせるためには、再創造役事の過程を経なければならないのです。堕落は、自分を相手に投入せず、相手をして自分に投入させたことなので、宗教は、反対に自分を投入させるのです。
それで、宗教は「自分を犠牲にせよ」と言います。イエス様は、この地に救世主として来られましたが、「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるため」(マタイ二〇・二八)とおっしゃいました。また、イエス様は、「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」(ヨハネ一五•一三)とおっしゃいましたが、これは完全に投入することを意味します。また、「自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである」(ルカ一七•三三)という言葉もそうです。今日、自己を主張する世界において、聖書を見ると、謎めいており、誰も好まないような内容になっています。すべてが反対になっているのです。
しかし、天理原則、ために生きる原則から見ると、聖書こそが正に真理なのです。すべてがぴったりと一致します。神様は、悪なるサタン世界とは反対の天国をつくるために、悪なる世界とは反対の道を模索せざるを得ません。それが宗教です。
より大きなもののために犠牲になるのが善!善の人と悪の人について、一つ例を挙げてみましょう。善の人は、十人の友人がいる場合、その十人の友人のために、朝夕に、今年も来年も十年後も、一生の間、世話をし、奉仕するのです。そのようにすれば、十人全員が、その人を最も良い友人であると言います。ですから、自分たちだけが好むのではなく、自分の母や妹がいれば、連れていって紹介しようとするのです。
しかし、十人の友人に、「おい!こいつめ。私のために生きよ」と三度も言えば、友人たちは逃げていきます。彼がついて来るのではないかとおびえて、逃げていくのです。皆様、そうではないですか。それはなぜでしょうか。自分を中心として主張する人は滅びます。地獄に行くのです。しかし、原理原則に入って、人のために、相対のために投入する人は天国に行くのです。
人類のあらゆる教育理念や指導理念において、漠然とでも、このような観点から善を立ててきたので、今日、この地球星が残っているのです。ある個人が全体のために犠牲になれば、彼は全体の前に善の人であり、ある家庭が全体の家庭のために犠牲になれば、全体の家庭の前に善の家庭として登場するのです。また、ある民族が全体の民族のために犠牲になって進み出るならば、その民族は善の民族として登場するのであり、ある国が全世界の国家のために犠牲になって進み出るならば、その国家は善の国家として登場することを知らなければなりません。
それが神様のみ旨ならば、イエス様を送ったのも、そのようなみ旨を成就するために送ったのです。それで、キリスト教徒たちは、人類を救うために自分の国家を犠牲にし、自らのすべてのものを犠牲にして、投入していかなければならないのです。そのようにしていれば、キリスト教は世界の前に、善なる神様のみ旨のために生きる教会になっていたはずです。神様は、世界を救おうとするのであって、長老派なら長老派、メソジスト派ならメソジスト派、ホーリネス派ならホーリネス派一つだけを救おうとはされません。長老派だけを中心とする神様にはなれません。世界のために生きる神様です。教会が真の教会ならば、世界のために犠牲になりなさいというのです。世界を生かすためには、その教会がたとえ滅びるようになったとしても、犠牲にならなければなりません。これが原則です。そうしてこそ、神様のみ旨が成就されるのですが、教会を中心として世界を審判しながら、「我々でなければならない。我々のために生きよ」と言いながら自らを絶対視する教会は滅びます。
悪なる世界をどのようにして整理するのですか。皆様、どのようにするのですか。神様の天理原則によって教育し、根本的な道理を見極め、全世界を統一しなければなりません。そこから悪を処断できる起源が生じるのです。自分を中心とする主義を壊してしまわなければなりません。
皆様。家庭において問題になることは何でしょうか。夫は「いつも自分のためにいなければならない」と言い、妻は「私だけのために生き、私だけを愛してほしい」と言います。「自分だけを愛しなさい」、これがサタン的な立場になるので、神様が離れるのです。父母は息子、娘を育てて「自分たちのために生きなさい」と言い、息子、娘は父母に対して「自分たちのために生きてほしい」と言い、互いが「自分たちのために生きなさい」と言っているのです。
今日、世界の外交問題においても、他の国をだまし、翻弄しようとする国は滅びます。この地上で「私たちの国は滅びたとしても、神様のみ旨と世界を救うことができるなら犠牲になろう」という国があるでしょうか。アメリカが外国のために協助したとき、アメリカは全盛期にありました。しかし、「ああ、世界が栄えても私たちの国が滅びれば元も子もない。世界を投げ出して、私たちの国をしっかりつかまなければ」と考えています。
この原則から見れば、神様はアメリカから離れなければなりません。もしも「世界は統一教会のために存在しなければならない」と言ったとすれば、統一教会は滅びます。しかし、「統一教会があるのは世界のためである」と言うときは栄えるのです。ですから、統一教会の青年たちが皆様のところに何度も訪問しては煩わしくしたかもしれません。
イエス様が「だれかがあなたの右の頰を打つなら、ほかの頰をも向けてやりなさ」(マタイ五•三九)とおっしゃったのは、完全に与えなさいということです。「右の頰を打つなら、ほかの頰をも向けてやりなさい」と言ったのです。そのようになれば、返ってくるのです。完全に与えれば、返ってきます。天地の原則はそのようになっているので、イエス様も、ローマ兵たちに十字架に架けられ、槍で胸を突き刺されても、福を請いながら死んでいったのです。それはどういうことでしょうか。完全に投入して行こうということです。そのようにすれば、怨讐の国までも戻ってくることを知っていたからです。それで、ローマ帝国がキリスト教の国になったのです。キリスト教になったというのです。
このように、歴史的な方向を引っ繰り返してしまわなければ、神様のみ旨は成就されません。このことについて、皆様はこれまで漠然と考えてきました。何が善で何が悪なのかを知らずに、ただこのように聖書を持ち歩きながら讃美歌を歌い、信じて天国に行くのだと言って教会に通っていたのです。それではいけません。
天国に行くために信じるのではなく、世界を天国にするために信じなければなりません。神様がこれまでそのようにされました。神様が御自身のためだけに生きられたなら、既に摂理も何もみな投げ出してしまっていたでしょう。
ために生きよ
アメリカの国民は個人主義思想を尊重していることを知っています。主体と対象の関係を忘れた個人主義はあり得ません。ですから、アメリカは袋小路に差しかかっているのです。このようなアメリカを救うことのできるただ一つの道は、どこから出てくるのでしょうか。今こそ、キリスト教の精髄の路程を明らかにし、神様の本然の生命の道を探さなければならないのです。この道以外にはないのです。そのような意味で、この時代においてミスター•ムーンは、皆様が歓迎しなかったとしても、必要な人ではないでしょうか。
神様は、天理原則を通し、「あなた個人は家庭のためにあり、家庭は民族のためにあり、民族は国のためにあり、国は世界のためにあり、世界は神様のためになければならない」とおっしゃっています。その神様に従うならば、神様のものであると同時に私のものになります。神様のためのものが、私のためのものになります。ですから、私のものは家庭のものであり、家庭は国のものであり、国は世界のものであり、世界は神様のものであり、神様のものは私のものになるのです。全世界が私のものになり、宇宙が私のものになるのです。
皆様。国のために生きる人が忠臣であることを知っています。そして、国の思想的中心存在としてその人に侍ります。このように、一つの国の中心存在として登場することを知らなければなりません。皆様は、このような偉大なことを発見しなければならないのです。若い青年たちが、このような言葉を聞けば、「ふん!ミスター・ムーンは古くさいことを言う。そのようにして、この悪の世界でどうやって生きていけるのか」と言うでしょう。しかし、そうではありません。ために生きれば生きるほど、より大きな中心存在になることを知らなければなりません。
ために生きる人は、主体になるのです。なぜかといえば、神様がために生きる創造理想をもって、これまでために生きてきたので、そのような神様に似てために生きれば、中心にならざるを得ないのです。悪が何かといえば、「あなたのものも私のものであり、私のものも私のものである」と主張することです。今日、民主世界が世界的に発展したのは、博愛思想、ために生きる思想があったからです。共産主義は、ますます崩れていくのです。なぜなら、「共産党のためだけに生きよ」と主張するからです。ですから、それは台頭しないというのです。
神様は、堕落した世界とは異なる別の世界を創建するために宗教を掲げましたが、宗教はそのことを知りませんでした。しかし、はっきりと線を引き、右なら右、左なら左と分けなければなりません。皆様は、善悪について、今後行くべき方向をはっきりと理解されたことと思います。
神様が願われた人間と、イエス様をお送りになった理由
病気になったので医者が必要であり、故障したので修理工場の主人が必要です。個人的に故障し、家庭的に故障し、国家的に故障し、世界的に故障したのです。それでは、故障する前の人間、本来、神様が完全であられるように完全な愛と完全な生命、完全な理想に一致する人が、どのような人であるかということについて、一度お話ししようと思います。
皆様は、神様の愛を受けていますか。受けることができずにいます。息子、娘が大きくなれば、神様の愛の中で結婚式をしなければなりません。そして、罪のない息子、娘を生まなければなりません。皆様は、罪のない息子、娘を生んだことがありますか。罪のない息子、娘を生むためには、イエス様を信じなければなりません。ですから、メシヤが必要なのです。
その方は、罪のない父であると同時に、罪のない祖父にならなければなりません。この世界には、サタンの国があり、王がいますが、罪のあるその王たちが、神様に対して悪を働きます。それでこの地上に、彼らよりも良い、完全な王、完全な女王がいなければなりません。そのような人を、いつ神様が得たでしょうか。得ることはできませんでした。なぜ、得ることができなかったのでしょうか。サタンのためです。ですから、サタンを追放し、神様が個人的に愛し、家庭的に愛し、国家的に愛し、世界的に愛することのできる、そのような国と国民と息子、娘と家庭をもちたいと願うのは、当然の道理であるといえます。
私たちは堕落した先祖をもっています。堕落した祖父母、堕落した父母、堕落した民族、堕落した国家、堕落した世界をもっています。堕落していない世界とは関係のない群れになってしまいました。これを一度に、個人的に修理し、家庭的に修理し、氏族的に修理し、民族的に修理し、国家的に修理して、一つの国家を立てるために準備したのがイスラエル選民です。イエス様が来られた目的はそこにあったのです。イエス様は、堕落していない完全な人として来られました。ですから、完全な家庭をもち、本然の祖父となり、王とならなければなりませんでした。そのようにするために、神様がお送りになったのです。神様は、対象としてアダムとエバ、男性と女性をつくられましたが、彼らが堕落してしまったので、二人とも修理工場に預けなければなりません。
しかし、イエス様は完全なアダムの完成者として来られたので、新婦を迎えなければなりません。新婦が必要なのです。新婦を迎えて結娘していたならば、イエス様の息子、娘はいるでしょうか、いないでしょうか。その息子、娘は、罪があるでしょうか、ないでしょうか。今日のプロテスタントやローマ•カトリック、長老派といった教派はすべて存在していません。イエス様は王になったことがあるでしょうか。そのようになってこそ、完全な人ではないでしょうか。それができなかったので、再び来なければならないのです。第一イスラエルがそれを成し遂げることができなかったので滅びました。そこで、第二イスラエル圏となるのがキリスト教です。
原因と結果は同じであり、主体と対象も同じです。イエス様がそのような目的で来られたとすれば、神様が主体であり、イエス様とイエス様の新婦となる人が対象であるなら、人として来なければなりません。「小羊の婚宴」とは何でしょうか。六千年前に、「神様は愛と生命と理想の主体である」と言える人がいれば、呼んで祝福し、人類の善の先祖としていたはずです。そのとき開かれる祝宴が「小羊の婚宴」です。そのときに人類の先祖になることができなかったので、終末に至って再び祝福し、神様が人類の前に善の先祖として即位させるのです。
無形の父母と実体をもった父母を中心として、無形の神様と実体の神様が一つになるところで息子、娘を生んでこそ、永遠の無形の霊をもち、実体をもった人が出てくるのです。私たちの霊的注入は、神様とイエス様と新婦が一つになったところにおいて、すなわち霊的なプラス•マイナスと実体的なプラス•マイナスが一つになったところにおいて、霊と実体が一つに合わさることによって行われるのです。そこから生まれた息子、娘は、永生の霊を受け、永遠の実体として、罪のない息子、娘として生まれます。ここから、永生する生命が始まるのです。そのようになれば、霊的な父を呼び求めることができ、実体的な父を呼び求めることができます。二人の父を知るのです。しかし、堕落したために、皆様はそのようになっていません。
神様の最大の願いは地上天国
神様とアダムとエバが、永遠の命と愛と理想をもって縦横で一つになれなかったことを、人類の終末時代において、初めて霊的な神様と実体の真の父母が一つになり、霊肉で地上と天上が和合する所に、子女の名分を復帰するようになるのです。そうすることによって、神様の愛を受けることのできる息子、娘の位置に入ることができます。そのような罪のない父母から、罪のない息子、娘、罪のない氏族、罪のない民族、罪のない世界を一度に接ぎ木しなければならなかったのが、イスラエル民族でした。これを成し遂げることができなかったので、主は再び来なければなりません。
神様の愛と神様の命と神様の理想が、個人的、家庭的、氏族的、民族的、国家的、世界的に一つになり、サタンが讒訴できず、サタンの痕跡のない、そのような世界になってこそ、この地上が天国になるのです。神様と私たち人間が、完全に主体と対象の父子関係として、完全に罪なく聖別された父子関係として、完全に聖別された神聖なみ旨の中で一致し、真の父母と共に真の子女、真の氏族、真の民族を中心として地上天国を成就することを願うのが、神様の人間に対する最高の願いです。
神様の永遠の愛と命と理想が、どこにでも連結されるようにしてこそ、地上天国になるのです。ために生きる世界になって、初めて地上天国になるのです。そのような世界を願うのが、人間に対する神様の希望であることを、皆様が今晩、記憶してくださることを願います。そのようにできる皆様になることを願って、このようなお話をした次第です。ありがとうございました。