平和経 第5話

第一篇 真の平和の根本原理

3.ために生きる世界

日付:一九七五年一月十六日

場所:韓国、ソウル、朝鮮ホテル

行事:「希望の日」韓国晩餐会

今晩、各界各層の著名な先生方がこのように多数参席され、私のために祝賀の夕べを盛況のうちに開いてくださり、心から感謝申し上げます。ここに立っている者は、皆様も御存じのように、韓国やアメリカで、物議を醸している張本人ですから、「いったい、あの文某はどんな人か」という思いで、この場に参席された方も多いことと思います。

愛と理想と幸福は独りで築き上げることはできない

人にとって、食べること、見ること、聞くことは、大きな満足と刺激になるものと思います。おいしいものを、より一層おいしく食べられるようにと、私たちのために音楽でお力添えいただく金康燮(キムカンソプ)KBS軽音楽団団長とその団員の皆様に、拍手で感謝の意を表しましょう。また今晩、お客様をもてなすために御苦労される朝鮮ホテルの係りの皆様にも、心から感謝申し上げます。

今晩、このようにお集まりになった皆様の前で、いったい私はどのような話をしようかと考えてみました。しばらく挨拶を申し上げて終えればよいのかもしれませんが、そのまま座ってしまえば、皆様が「文某に会ったら何か話をすると思っていたのに何も話さなかった」と、物足りなさを感じられるのではないかと思いますので、今から私の所見をしばらくお話ししようと思います。

昔から人類は、永遠にして不変の真の愛と理想と幸福と平和を思い描いてきたことを、私たちは知っております。しかし、今日私たちが生きているこの世の中とこの時代は、不信の世の中であり、混乱した時代です。このような中で、人間が願う要件を求めて成就することは、既に不可能な段階に直面していることを、私たちは直視しているのです。

人間は、できる限りの努力をしてみましたが、このような要件を充足させられない現在において、私たち人間によってはこれが成就できないとすれば、人間を超えた、永遠不変で真の絶対者を探し求め、そのお方に依存する以外にないのです。そのお方が、真の愛、真の理想、真の平和、真の幸福を念願されるなら、そのお方を通してこそ、それが可能になる道があると、私たちは考えざるを得ません。そのような立場で考えるとき、そのようなお方がおられるとすれば、そのお方は神様でないはずはありません。

神様は、愛の王となるお方であり、理想の王となるお方であり、平和と幸福の王となるお方です。そのお方を通して、このように人類が追求してきた理想的な要件を成就するためには、そのお方が提示する内容を私たちが知って、それに従っていかなければならない、という結論を下すことができるのです。これは当然の結論です。

私たちが考えてみても、愛や理想、幸福、平和というものは、独りで成立するものではないことを知っています。それは必ず、相対的な関係において成立するものなので、いくら神様が絶対者としておられたとしても、その神様が望む愛と理想と幸福と平和は、神様お独りでは築くことができないのです。神様御自身にも、必ず相対が必要だということは、必然的な帰結なのです。

それでは、「いったいこの被造万物の中で、神様の対象になるそのような存在がどこにあるのか」と反問すれば、それは言うまでもなく、人間以外にはないと結論を下すことができます。神様の理想を成就することができ、神様の愛を完成することができ、神様の幸福と神様の平和を完結できる対象が人間であるという事実を、私たちは想像もできなかったのです。神様お独りで愛そうとしても何にもならず、神様お独りで理想を得ようとしても何にもならず、神様お独りで平和で幸福に暮らしたからといって、それで何だというのでしょうか。必ず相対となる人間を通さなければ、このような要件を成就できないことは当然の結論です。

対象的存在がより一層よくなることを願う神様

このように考えてみるとき、私が皆様に一つ尋ねてみたいことは、ここに著名な方々がたくさん来ておられますが、皆様が若い頃、自分の結婚相手を選ぶ時に、劣った人を願ったのか、それとも優れた人を願ったのかということです。このように尋ねれば、皆様は誰もが、「優れた人を願った」と答えるでしょう。また、ある美男と美女が結婚して赤ん坊を生んでみると、両親の顔に比べて不器量な赤ん坊だったとしても、その赤ん坊を眺めながら、「この赤ちゃんは、お父さんやお母さんよりも良い顔立ちをしている」と言えば、その父母は、耳の下まで口が裂けそうになるほど満面の笑みで喜ぶのです。

このような事実を考えてみると、「いったい人間は誰に似てこのようになったのか」ということを、私たちは考えざるを得ません。人はあくまでも結果的な存在であって、原因的な存在ではありません。結果的な存在がそうだとすれば、原因的な存在がそのような内容をもっているために、そのような結果になったというのは当然の結論です。ですから、私たち人間が神様に似たために、そのようになっているという結論が出るのです。

神様に「あなたの対象である存在が神様よりも立派であることを願いますか、劣ることを願います力」と質問すれば、神様もやはり「対象的な存在が自分よりも立派になることを願う」と答えざるを得ないでしょう。したがって、私たち人間も、自分の息子、娘が、自分よりも立派になることを願わざるを得ないというのは、当然の結論なのです。私たちが単に人間自体を見るときには何でもないようですが、このような原則を通して見るとき、私たち人間自身は、本来、神様よりも立派になることを願われ、神様よりも価値あることを願われた存在であるという事実を、私たちは今まで知らなかったのです。

今日の既成の神学では、創造主と被造物は対等な立場に立てないと言います。もしそうであるとすれば、その創造主の前に、愛の実現、平和の実現、理想の実現ご幸福の実現は不可能なものになってしまうのです。

このような立場から見るとき、本然の人間は、神様よりも価値があり、より立派になる、そのような対象の資格をもった存在であり、子女の価値と資格をもった存在であることを、今日の私たち人類はついぞ考えたこともないのです。

このような観点から、今晩ここに参席された皆様は、私たち自身が今から神様のみ前に対象として立つのはもちろんですが、神様の対象として高い価値をもっており、より高い子女の価値をもっているという事実を、肝に銘じなければなりません。

ですから、もし神様が永遠であるとすれば、私たち人間も、地上で一時存在したのちに無になってしまう、そのような存在ではありません。地上で暮らす私たち人間も、愛する対象に対しては、一時いたのちに無になってしまうことを願う人は誰もいないことを知っています。愛する子女と離れて暮らすことを望む人はいません。このように見るとき、神様が永遠であり、唯一であり、絶対的であられる以上、神様の対象である私たち人間自体も、永遠であり、絶対的であり、唯一の価値ある存在でなければならないのです。これは極めて理論的な結論であると言わざるを得ません。

ここに参席された多くの先生方の中には、宗教を信じず、信仰生活をしない方々がいらっしゃるかもしれませんが、このような理想的要件を中心として、神様がおられ、その前に私たちは対象の価値をもった存在なので、神様がそうであられるなら、私たちも神様のように永遠の存在にならなければならないのです。ですから、永生するという言葉は妥当な結論です。今晩ここに参席された皆様が、このことさえ記憶されるならば、皆様の生涯において、より生き甲斐のある人生が始まると思います。

理想的な存在の起源はために生きるところにある

そうだとすれば、知恵の王であられ、全体の中心であられる神様は、真の理想や真の幸福や真の平和といったものの起源を、主体と対象、この両者の間のどこに置くのでしょうか。これが問題にならざるを得ません。主体がある一方で対象があるのですが、主体のために生きる道と対象のために生きる道、この二つの道の中で、神様は理想の要件をどこに置くのかということが問題にならざるを得ないのです。ですから神様は、真の理想、真の愛、真の平和を築くに当たって、対象が主体のために生きるところにその理想的な起源を置くのか、反対に主体が対象のために生きるところにその起源を置くのか、という問題を考えられたのです。もし神様がその理想的な起源を「主体である自分のために対象が生きよ」というところに立てたならば、すべての人も、「私のために生きなさい」という立場に立ったでしょう。

そのようになれば、一つになる道が塞がれ、分裂してしまうのです。一つになることができ、平和の起源となる道は、神様御自身のみならず、真の人間は、ために存在しなければならないという原則を立てるところにあるのです。ですから、真の愛、真の理想、真の平和、真の幸福などは、ために生きるところから離れては見いだすことができません。これが、天地創造の根本原則だったという事実を、私たち人間は知りませんでした。

真の父母とはどのような人かというと、子女のために生まれ、子女のために生き、子女のために死ぬ人であると言うことができます。そのようになってこそ、真の父母の愛が成立するのであり、真の子女の前に理想的な父母として登場できるのです。さらには、子女の前に平和の中心になるのであり、幸福の基準になることを私たちは知ることができます。

一方で、真の孝の道は、どこに基準を立てなければならないのでしょうか。その反対の立場です。父母のために生まれ、父母のために生き、父母のために命を懸けて尽くす人が真の孝子になれるのです。このようにしてこそ、父母の前に理想的な子女となり、心から愛することのできる子女になり、幸福と平和の対象になることができるのです。このような基準から見ると、私たちがここで一つの公式を提示すれば、ために存在するところでのみ、このような理想的な要件、すなわち真の愛、真の幸福、真の平和を見いだせることが分かると思います。

宇宙創造の原則と人間の幸福の起源

それでは、真の夫とはどのような人でしょうか。生まれるのも妻のために生まれ、生きるのも妻のために生き、死ぬのも妻のために死ぬという立場に立った夫がいれば、その妻は、「夫は真の愛の主人であり、真の理想の夫であり、真の平和と幸福の主体としての夫に間違いない」とたたえざるを得ないのです。その妻の場合も同じです。この公式を大韓民国に適用してみれば、大韓民国の真の愛国者とはどのような人でしょうか。このように質問をしたならば、国のために生まれ、国のために生き、国のために困難な環境をものともせず、上は王のために、下は民のために生き、黙々と命を捧げた李舜臣将軍のような方を挙げざるを得ないのです。

また、範囲を世界に広げ、歴史路程において、聖人の中で誰が最も偉大な聖人かと尋ねれば、私たちはこの公式を適用して、その人をすぐに探し出すことができます。その方は、誰よりも人類のために生きた人でなければなりません。ここにキリスト教を信奉しない方も参席されていると思いますが、私の知るところでは、人類のために来て、人類のために死ぬだけでなく、自分が憎んで当然の怨讐、自分の命を奪う怨讐のためにまで祈ってあげたイエス•キリストこそ、歴史上にない聖人の中の聖人と見ざるを得ないことを、この公式を通して結論づけることができるのです。このように、宇宙創造の原則と人間の幸福の起源が、ために存在するところから始まったことを、私たちは考えなければなりません。

例をもう一つ挙げると、男性がなぜ生まれたかと尋ねてみれば、きょうここに著名な方々が大勢集まりましたが、多くの男性の方々は、「私自身のために生まれた」と考えやすいのです。自分は自分のために生まれたと、今まで考えてきたはずです。本来、男性が生まれた本意がどこにあるかというと、実は、女性のために生まれたのです。女性のために生まれたという事実は、誰も否定できません。

相対的な立場から見ると、男性は肩幅が広く、女性は腰のほうが広くなっています。ニューヨークのような所に行ってみると、地下鉄が満員の時に窮屈な椅子に座っても、上が広い男性と下が広い女性が座れば、ぴったりと収まるのを見掛けるのです。そのようなことを見ても、互いがために生きる相対的関係を形成するためにこのように生まれたことを、私たちは否定できません。男性は男性のために生まれたのではなく、女性のために生まれました。また、その反対に、女性も女性のために生まれたのではなく、女性も男性のために生まれたのです。

このような事実を自らが確信できないところで問題が勃発することを、私たちは知らなければなりません。これを天地創造の大主宰であられる神様が、創造の原則として立てたので、その原則に従っていかなければ、善で、真で、幸福で、平和な世界、愛と理想の世界に入ることはできないことを私は知っています。

宗教の教えは本然の世界の法度に合わせたもの

皆様はよく知らないと思いますが、私は霊的体験、すなわち、霊界に関する内容を体験する機会がたくさんありました。神様がいらっしゃる本然の世界、今日、宗教で言う天国や極楽といった所の構造が、何を基準としてできているのかと尋ねるならば、答えは簡単です。神様のために存在する人たちだけが入る所であり、ために生まれ、ために生き、ために死んでいった人々が入っていく所です。それが私たちの本郷の理想的な構造なので、神様は、人間がその世界に訪ねてくることができるように、歴史過程で数多くの宗教を立てて訓練してこられたのです。

なぜ、宗教人は温柔、謙遜でなければならず、犠牲にならなければならないかといえば、本郷の法度がそのようになっているからです。本郷に入っていく時に備えて、その本郷に適合するように、地上生活の過程で訓練させざるを得ないので、高次元の宗教であるほど、より次元の高い犠牲を強調し、奉仕を強調するのです。その世界に一致させるという理由から、そのように強調せざるを得ないのです。

このような事実から推測してみるとき、歴史の進行過程で神様が摂理してこられたことを是認せざるを得なくなります。聖書がどんなに膨大な経典から成り立っているといっても、たった一言、「ために存在する」というこの原則にすべて一致するのです。

イエス様は「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」(マタイ二三・一二)と語られました。このような逆説的な話をされたのも、結局は、本然の世界の「ために存在する」という原則に一致させるための方便にすぎないことを、私たちは気づくのです。

それでは、神様は、なぜ「ために存在せよ」という原則を立てざるを得なかったのでしょうか。そのいくつかの要因を挙げてみます。私たちの本心を推し量ってみるとき、ある方が自分のために心から命を懸けて尽くしてくれた事実があるとすれば、皆様の本心はそれに報いるときにどのように言うでしょうか。一〇〇パーセント世話になったとすれば、「およそ五〇パーセントはポケットに入れて、残りの五〇パーセントだけお返ししなさい」というでしょうか、それとも、「一〇〇パーセント以上お返ししなさい」と言うでしょうか。そのように問うならば、私たちの本心ははっきりと答えるでしょう。「一〇〇パーセント以上お返ししなさい」と言うのです。

言い換えると、Aという人にBという人が、一〇〇パーセントだけお世話になったとすれば、Bはこれに報いるのに一〇〇パーセント以上を返すのです。そうするとAは、一〇〇パーセント以上返してくれたBに対して、パーセンテージをもっと高めて返したいと思うのです。このように与えて受けるところにおいて、与えて受ける度合が高まれば高まるほど、だんだんと多くなるので、そこから永遠という概念が設定されるのです。

永遠という概念、これは自分のために生きるところでは不可能です。運動するのを見ても、押してあげ、引いてあげるそのような相対的な方向が大きければ大きいほど、早く回ることが分かります。知恵の王であられる神様が、「ために生きよ」という法度を立てたのは、永遠に発展させるためなのです。その原則を知っておられるので、「ために存在せよ」という原則を立てざるを得なかったことを、私たちは考えなければなりません。

それのみならず、永遠の概念が成立すると同時に、そのようになれば永遠に発展し、永遠に繁栄するのです。現在の位置から前進し、発展するのです。現在の位置で発展的な刺激を感じることができてこそ、幸福になるのです。そのような要件をもっているので、神様は「ために存在せよ」という原則を立てざるを得ませんでした。

もう一つ、要因を挙げてみましょう。ある家庭で一番下の弟が、その十人の家族のために誰よりもために生きるなら、幼い弟であっても、父母も彼を前に立たせるようになり、兄弟も彼を前に立たせるようになるのです。そのようになることによって、日が経てば経つほど、家庭のために存在するその弟は、自動的にその家の中心存在として登場するようになるのです。

理想的統一を成就する立場

神様がこの宇宙を創造されて以来、神様御自身が、ために存在するがゆえに万宇宙の中心として存在するように、ために存在する神様に似たそのような人が、いくら幼い弟であっても、いくら小さな息子であっても、彼は間違いなくその家系を中心として、中心的な立場に出るのです。今日、私たちはこれを知りませんでした。

ために生きるところから自分自らが後退するのではなく、ために生きれば生きるほど、その人は中心存在として決定されるのです。神様がそうなので、そのような立場に立った人は、神様が中心存在として立てざるを得ないのです。それだけではなく、そのような立場でのみ、理想的統一、完全統一を成就させることができるのです。

今日、他人から主管されることは死んでも耐えられない、そのような人たちが多いことを、私たちは知っています。特に高名な有識者の人たちに、そのような姿を多く見掛けます。しかし、一つ知らなければならないのは、ために存在するその方に主管されて生きることが、どれほど幸福なのかという事実を、夢にも思わなかったということです。千年、万年、支配されても感謝するそのような理想的統一圏が、その場で成立することを知っているので、神様は「ために存在せよ」という原則を立てざるを得なかったのです。

もう一つの要因は、今日、皆様は「愛は私の愛である。理想は私の理想である」と思っています。しかし、そうではありません。愛は自分から始まるものではなく、理想も自分から始まるものではありません。生命よりも貴い愛と理想は、もっぱら対象から得ることができるのです。今日、私たちは、そのようなことを思ってもみませんでした。

この高貴な愛と理想を受けることができ、それを得ることのできる存在が対象です。ですから、私たちが謙遜にその高貴な愛と理想を受け入れようとすれば、最もために生きる立場に立たなければなりません。そうしなければ、それを受けることができないので、神様は「ために存在せよ」という原則を立てざるを得なかったというこの一つの事実を、今晩ここに参席された皆様は記憶してくださるようにお願いします。

よく世の中では、「ああ!人生とは何か」と言います。このように私たち人間には、人生観の確立、国家観の確立、世界観の確立、さらには宇宙観の確立、神観の確立が問題になるのです。それがどのようになっているのかということです。系統的な段階の秩序をどこに置くべきであり、その次元的系列をどのように連結させるのかという問題は、最も深刻な問題なのです。

Luke Higuchi