平和経 第6話
ために存在するという新しい価値観が確立されなければならない
ために存在するというこの原則に立脚して、私たちの一生について見るとき、最も価値ある人生観は、自分が全人類のためにあり、全世界のためにあり、国家のためにあり、社会のためにあり、家庭のためにあり、夫のためにあり、妻のためにあり、子女のためにあるという人生観なのです。そのような立場で幸福な自我を発見できるなら、これ以上の人生観はないと思うのです。国家自体についても同じです。理想的国家はどのようにならなければならないのでしょうか。「国のためにだけ存在せよ」という国は、悪い国として指弾されてきたことを、私たちは歴史を通してよく知っています。しかし現在、全世界の国家の中で、世界のための政策を展開している国は一つもありません。
皆様もよく御存じのように、今日の共産主義世界は決裂する状況になりつつあります。一九五七年を一つの起点として、共産主義世界が分かれた原因はどこにあるのでしょうか。それはソ連を第一とした共産主義が、スラブ単一民族を中心として世界制覇を夢見たからです。自分の民族だけのために生きる共産主義として登場したので、決裂が起こったことを私たちは知っています。
今日のアメリカも、民主主義の主導国家の立場から没落しつつある実情を私たちは直視しています。なぜそのようになったのでしょうか。世界のために生きる民主国家になるべきアメリカであるにもかかわらず、世界を捨てて自国だけのために生きようとするアメリカになったからです。今や後退の一途に立つたアメリカは、自らの力だけでは収拾する道がないと思われます。
このような問題について見てみるとき、今日、韓国でも一つの国家観の確立を提唱しているのを見ますが、アジアにおいて韓国だけを第一とした国家観を確立すれば、それは歴史の一時代と共に流れていってしまうのです。ソ連共産党がそうであり、アメリカ自体がそうです。今日、大韓民国はこのように国は小さく、少数の民族ではありますが、世界のために生きる民族思想をもつならば、万一、国の形態がなくなったとしても、二十一世紀や二十五世紀、あるいは三十世紀になって、韓国はきつと世界を指導するでしょう。このような公式的帰結によって、私たちは結論づけることができるのです。
真の国家とは、世界のために生きる国家です。また、真の世界とは、世界のためだけに生きるのではありません。その世界自体は結果的な位置にあるので、動機の起源となる絶対的な神様がいるとすれば、その神様の観点と一致する思想的体系をもたなければならないのです。自分のために生きる内容の思想をもっていては、世界を指導し、解決していくことはできないと見るのです。家庭の天国とは、どのようなものでしょうか。妻が夫のために一〇〇パーセント存在し、夫が妻のために生き、彼女のために死ぬという立場に立つとき、その家庭こそが天国に違いないのです。
格言に「家和万事成」という言葉があります。国が栄えるのも同じです。国を治める主権者は、自分の存在の価値が、自分の主権を行使するところにあるのではなく、国民のために生きるところにあり、その国民は、国民自体のためよりも国のために生きるところにあるのです。そのようになった場合には、その国は天国になります。このような公式的な原則を拡大していくことによって、国家と民族を超越し、互いにために生き合う世界を築くならば、その世界が正に私たち人間の願うユートピア的な愛の世界であり、理想の世界であり、平和の世界であり、幸福の世界であることは間違いありません。ために存在するというこの原則をもって進んでいくならば、どこにも通じない所はないのです。
私がアメリカに行って、短い期間で問題を提起し得た動機はどこにあったと思いますか。私は韓国人ではありますが、アメリカ人以上にアメリカを愛したところにあるのです。私は夜も昼もこの国のために血と汗を流し、アメリカの若者たちが崇高な思想をもてるようにするにはどうすべきかと考えながら努力したこと以外にはありません。私はために食べ、ために活動し、ために生きてきました。そのように生きてみると、個人とぶつかればその個人と一つとなり、団体とぶつかればその団体と和合するようになるのを見てきたのです。
国連総会で韓国案が可決されるまでの事情
皆様はよく知らないと思いますが、今回の国連総会を中心として、韓国の問題がかなりの苦境に陥ったことを、私は知りました。私が知るすべての組織を動員して情報を得たのです。国連総会の議長からその補佐官、それから、そこに参席した各国の大使とオブザーバーたちが評価するのを総括的に見てみると、韓国の問題は既に希望がないということが決定的だったのです。
私は今まで個人的に見るとき、宗教指導者として、あるいは統一教会を創設し、指導してきた責任者として、「統一教会自体は統一教会のためにある教会になってはならない。統一教会は国家のためになければならない。国家のみならず、世界をリードできる国家となるように導かなければならない」と思ったのです。説明も必要なく、宣伝も必要ないと思いました。
私は三十数ヵ国の宣教師を集め、三十四人の各国の代表者を選出しました。そして、日本の女性三十四人を彼らに付けて、六十八人のメンバーを国連総会に投入しました。一対一で、一人一人を捕まえて説得作業をしたのです。その内容とは何でしょうか。ほかでもありません。言葉が達者だからでもありません。「あなたたちは精誠の限りを尽くして彼らのために生きなさい!会えば食べることから、話すことから、彼らのために努力しなさい一と言ったのです。
そのようにして、四十日の峠を越えると、彼らは私たちの活動に感服するようになりました。私が宗教を指導する一人の責任者として、韓国に対する世界の世論がどんなに不利だとしても、五十ヵ国の大使たちから北朝鮮の日本人妻の自由往来を推進するこの問題にサインさえもらうことができれば、間違いなく韓国の問題は勝利すると見たのです。そのような話をしても、彼らは信じませんでした。
国連総会には、世界の知性ある人たちが集まります。私たちの若者たちが行って、畏れ多くも彼らに対して口を開く自信がありませんでした。しかし、真心からために生きる立場で、そこをどこかの国の事務所ではなく、自分の事務所と思って、そこに行けば掃除をしてあげ、夜遅くまで、彼らを手伝えることなら夜の一時、二時でも意に介さずに車を動員する、そのような活動を背後で展開したのです。
皆様は御存じだと思いますが、テリータウンという所に私たちの迎賓館があります。ベルべデイアという所を中心として、夜には七十ヵ国の大使たちを招待しました。そのように活動したところ、結局、彼らは完全に私たちの側へと引き込まれ始めたのです。そのような過程で明らかになったことですが、北朝鮮は既に第三世界圏、アフリカ地域の低開発国である国々に対して、国連総会でサインすることをすべて決定してきたというのです。彼らが秘密裏に語った内容を総合してみると、北朝鮮は既に五万ドルから十五万ドルに相当するお金をすべて支払い、決定した上で来たので、北朝鮮は、国連に派遣する代表団に対して勝利の祝杯を挙げて、派遣したことを知りました。
しかし、世界のために奉仕し、涙を流し、夜を明かしながら切実に事情を通告したあとの結果は、韓国の問題において、韓国の提案が六十一対四十二、北朝鮮の提案が四十八対四十八で、私たち韓国に勝利がもたらされたのです。私が、このような事実をお話しするのは、皆様に自慢しようというわけではありません。想像もできない奇跡が、この原則の基準に立脚して起こることを、私は生涯を通してたくさん体験してきました。
皆様。いったい統一教会とは何でしょうか。多くの神学者たちが歴史時代を経ながら、ローマ•カトリックとギリシャ正教を糾合しようと努力しましたが、全く糾合できませんでした。また、たくさんのプロテスタントが統合しようとしましたが、四百以上の教派に分かれました。このような実情にあるのですが、統一教会がいかにして宗教を一つにできるのでしょうか。
統一教会が世界的に発展する理由
このようなことについて考えてみれば、文某という人は頭が少し足りないのではないかと考えるかもしれませんが、問題は簡単だと思います。統一教会員がキリスト教の牧師よりもキリスト教信徒を愛し、信徒たち以上にその牧師を愛することができれば、宗教を統一することが可能なのです。
今日まで、統一教会は二十年の歴史を過ごしてきました。皆様は、統一教会に関する様々なうわさと論難の言葉を聞いていることと思います。統一教会は、地で踏みつけられましたが、そこから世界的発展をしてきました。どのようにして発展したのでしょうか。民族が背反するときに、世界に向かっていく道があることを知りました。民族が行くべき正道は世界のために行く道なので、この道が間違いなく天理の原則であり、万民が行くべき共通の公式であれば、世界がそれを理解するようになるとき、この民族が自動的に理解するようになるという、このような原則に基づいて、血のにじむ迫害の中で、私たちは海外宣教を展開してきたのです。
例を挙げて話すならば、日本を開拓するようになったのは、今から十七年前の自由党の時でした。しばらく、梨花女子大事件によって、文某という人間の評価は地に落ち、どうしようもない時でしたが、私は、日本の情勢が今後どのように回っていくのかを知り、アジアの情勢がどのように回っていくのか、私なりに感じたところがありました。
ですから、法治国家の一国民として、当時においては違法になるかもしれませんが、十年ないし五年のちには必ず大韓民国が、私たちを必要とする時が来ることが分かったので、私が犯罪人の烙印を押されたとしても、この道を断行する以外にはないと考えたのです。正に一九五六年、皆様も御存じのように、西大門刑務所から釈放され、忠清南道の甲寺に休養に行っているとき、そこに来ていた若い青年を呼んで、「あなたは日本のために密航するのだ。男が決めた道は、死を覚悟して行かなければならない」と訓戒したのです。
一九五五年十月に私が監獄から出てきてみると、その当時の統一教会の拠点はなくなり、一間の家までなくなってしまった立場でしたが、私は、国のため、アジアのために借金をして、一九五八年七月に宣教師を出発させました。そのような出来事がついきのうのことのようです。日本の統一教会は、そのような状況から出発しました。宣教師は逮捕され、収容所に拘禁されました。その人も大変なことになったのです。先生と固く約束をしたのに、基盤を築くどころか、牢屋の身になってしまったのですから、誰に哀訴するというのでしょうか。哀訴するところがないので、わざと体調を悪くさせたのです。そうして入院手続きをして、入院したのちに病院から脱出し、東京に行って始めたのが、今の日本統一教会です。
今では、日本の主要な政党が、私たちに諮問を要請する段階に入ってきました。彼らは国家の重要なことがあると訪ねてきますが、そのようになる段階にまで引っ張り上げたのです。そうしながら、この原則は天理が立てた原則であり、この原則どおりに押し進めていけば滅びないと教えました。この原則を知ったので、日本統一教会の若い青年男女の信徒たちは全国に広がり、「国家のための統一教会にならなければならない。アジアのための統一教会にならなければならない。さらには世界のための統一教会にならなければならない」と言って活動していくと、今日においては、日本国内でも知られるようになったのです。
きょう、私が公式の席上で皆様にお会いして、このようなお話をするのは、統一教会の二十年の歴史において初めてです。私は、北米大陸を駆け回りながら残念に思いました。「この孤児のようなかわいそうな男は、信じない自分の国に後輩たちを残したまま、異国の国民の前に来て、信仰を願わなければならない哀れな立場にいるが、神様はこのような者を立てて役事されたのだから、私に協助される神様は御存じだろう」と思い、ひたすら神様にしがみついて力を尽くしてきました。結果は、名実共に新しい創造の歴史を招来するようになったことを体験したのです。
ために生きるところでのみ天国実現が可能
今晩ここに参席されている皆様も、「どのような人が悪の人であり、どのような人が善の人か」、これを何で测定するかということが問題だと思います。しかし、それは簡単なことです。その人がいくら宗教人であっても、「その人は天国に行くか、地獄に行くか」ということを何で測定できるのでしょうか。自分のために生きてきた生涯が多ければ、彼は地獄行きです。他のために生きた生涯が、自分のために生きた生涯よりもーパーセントでも多ければ、彼は地獄を越えて天国に向かう道に立つのです。ところが、自分のために生きた比率が高い場合は地獄に行くのです。
御高名な諸先生方。今まで私たちは大韓民国の国民の一員として、この国のために貢献してきました。各自、自分の置かれている位置で貢献してきましたが、それは誰のためのものだったのでしょうか。全国民が各分野において、このような思想で革命をした場合には、いくら大韓民国が悲惨だったとしても、希望があるのです。家庭でそうであり、社会でそうであり、為政者から、あるいは、団体の指導者から、この民族の精神風潮がこのよな思想からなった場合には、この民族は絶対に滅びないのです。必ずこの民族はアジアに影響を及ぼすはずであり、世界に影響を及ぼすと思います。
このような観点から、私たちがいかにして理想的な体制を、一つの公式を通して探し出すことができるのかということを、結論的にお話しすれば、夫は妻のために生き、妻は夫のために生き、その夫婦は子女のために生き、家庭は氏族のために生き、その氏族は民族のために生き、その民族は国のために生き、その国は世界のために生きる、そのような国になった場合には、この国は滅びません。
神様がいらっしゃるならば、そのような人を求めるのです。神様は、世界万民を子女にしたいと思うのです。ですから、神様の目的は世界の人類を救うことです。さらには、宇宙を救うことです。国家や単一民族圏の枠を超えることのできないような宗教は、神様の全体のみ旨の前に立つことはできないでしょう。
神様は世界を救うことが主目的なので、それが可能な段階へといかに次元を高めて発展させるかという問題を考えてみるとき、原則は簡単です。家庭は氏族のためにあり、氏族は民族のためにあり、民族は国家のためにあり、国家は世界のためにあり、世界は神様のためにあればよいのです。そして、世界のために生きる人間でなければ、全宇宙を創造された全知全能であられる神様の子女となる資格はないのです。世界が神様のために生きる立場に立つならば、神様は世界のために生きる立場に立つのであり、国のために生きる立場に立つのであり、民族のために生きる立場に立つのであり、氏族のために生きる立場に立つのであり、家庭のために生きる立場に立つのです。
この話を別の言葉に言い換えると、自分のものは妻のものであり、その夫婦のものは家庭のものであり、家庭のものは氏族のものであり、氏族のものは民族のものであり、民族のものは国家のものであり、国家のものは世界のものだという観念をもったその世界は、結局、神様のものになるのです。神様のものであれば、それは誰のものでしょうか。「私」のものになるのです。そのような立場に立ってこそ、皆様の欲望を最高度に達成する立場に立つようになります。
皆様。そうではないでしょうか。人は誰しもが、「世界一になりたい」という欲望をもっています。そのような価値のある存在となるので、万有の中心である神様のものが、初めて「私」のものになり、そのような栄光の立場に人間は立つことができるのです。このように見るとき、ために生きるところでのみ、家庭天国の実現が可能であり、国家天国の実現が可能であり、世界天国の実現が可能なのです。それだけではなく、神様も人類と共に、「幸福で、理想的な園だ」と言いながら、踊って歌うことのできる世界へと連結されるのです。そのようなものが、正に宗教が目的とする天国であり、そのような天国が地上で築かれるので、そこが正に地上天国であるという結論が出るのです。
皆様。きょう、このような晩餐会を通して「ために存在する」というこの原則を心に刻んで、今からお帰りになりましたら、家庭や職曝から、そのように実践する皆様になってくださることを願います。そのように暮らす自分を発見した場合には、皆様はより満ち足りたあすの希望をもつことになり、あすの開拓者としての中心的な責任を堂々と果たす自分を発見するでしょう。
どうか、そのような皆様になってくださることを願いながら、皆様の家庭と皆様の社会とこの国に、より一層の神様の祝福があることを願います。「ために存在する」というテーマについて、今晩の挨拶に代えて皆様にお話ししました。これで私のお話を終えようと思います。