平和経 第3話
第一篇 真の平和の根本原理
2.人間に対する神様の希望
日付:一九七三年十月二十日
場所:•アメリカショージ•ワシントン大学リスナー•ホール
行事:アメリカ二十一ヵ都市巡回講演
今晩、このように参加してくださった紳士淑女の皆様。心から感謝を申し上げます。皆様にお会いできる日を心から待ち望んでおりましたが、今晩、その願いをこのようにかなえてくださり、神様と皆様に感謝をお捧げいたします。
私が語る言葉を、皆様は聞き取ることができないと思います。そのように、言葉を語っても伝えられない人と言葉を聞いても聞き取れない人との間に、通訳という橋を架けて語り、聞くことが、どれほど大変なことかを理解してくださり、御声援くださるようお願い申し上げます。
きょう、皆様に「人間に対する神様の希望」という題目でお話ししたいと思います。題目が大きいといえば大きな題目であり、内容も複雑だといえば複雑な内容になると思います。
神様と人間は主体と対象の関係
もし神様がいらっしゃるなら、神様は、私たち人間を必要とせざるを得ません。人は万物の中で最も貴く英明な存在なので、尊重せざるを得ないのです。その神様と人間の関係を、私たちは明確に知らなければならないと思います。
数多くの宗教人たち、数多くの信仰者たちは、神様と人間の関係を様々に表現していますが、それが神様と人間の関係を明確に、正しく知ることができる内容になっているでしょうか。神様と人間の関係は根本的な問題なので、この根本が狂えば、別の異なった世界へ行くこともあり、異なった結果をもたらすこともあるのです。神様だけを中心として見るか、人間だけを中心として見るかによって、二つの思潮の哲学世界があることを、私たちはよく知っています。
数多くの宗教が存在するようになったのは、根本が異なるからです。ですから、神様なら、「宗教はこうでなければならない。私とその宗教との関係はこうでなければならない」という、ある原則があるのではないかという問題が、より重要です。そのような関係について、お話ししようと思います。
この地上に生きる人間として、最も貴く感じるものは何でしょうか。このように問えば、様々な答えがあると思います。ある人は「権力である」と言うでしょう。またある人は「お金である」と言うでしょう。ある人は「知識である」と言うでしょう。果たして権力とお金と知識が、人間にとって最も貴いものかというと、「絶対的にそうである」と断言できる人は一人もいないのです。
それでは、それよりもっと貴いものは何でしょうか。もう一歩さらに踏み込んで尋ねてみれば、誰もが「愛が貴い」と答えるでしょう。その次は何かと問えば、「生命である」と答えるでしょう。そのような愛と命をもっていたとしても、理想がなければならないので、三番目には、「理想である」と答えるはずです。人間にとって最も貴いものが何かというと、愛であり、生命であり、理想だというのです。この問題について考えると、その愛と命と理想というものを一時的なものと思っている人はいません。
皆様が何かの小説の表現を見ても、愛と言えば、永遠の愛、不変の愛、唯一の愛を強調していることに気づきます。愛が変わることは誰も望みません。青春時代や中年時代、老年時代を問わず、愛は永遠であることを願います。また、愛もそうですが、生命の問題においても、「私は、少しだけ生きて死のう。なくなってしまいたい」と考える人はいないでしょう。生命も永遠であることを願います。自分の生命は変わらないことを願い、特権的であり絶対的であることを願うのです。
皆様が宗教を信じる目的も、救いや永生があると考えるからです。もし永生がないとすれば、宗教は必要ないでしょう。宗教を通して、人間の理想の愛を描ける道があると信じるがゆえに、宗教を必要とするのです。したがって、私たち人間にとって最も必要なものは、愛であり、生命であり、理想です。それが、一時的なものではなく、永遠であることを願うのが、私たち人間の欲望にほかならないのです。
ところで、「愛」という言葉や「理想」という言葉は、一人で語る言葉ではありません。一人でいながら「ああ、私は一人で愛する」と言っても、これは成立しません。「ああ、私は一人で楽しく、うれしい」と言うことはできないのです。したがって、私たちが「愛」という言葉と「理想」という言葉を追求し、絶対視し、望む立場にいれば、私たち人間が別の一つの主体や対象的な何かを求めなければならないというのです。
そこで、私たちが対象であれば、ある主体を必要とするようになります。私たちが結果的な存在であるならば、ある原因的な存在が必要であることを示しているのです。私たち人間を超越して、そのような主体的、原因的な存在がいるとすれば、それは不変でなければならず、永遠でなければならず、理想的でなければならないことは間違いありません。主体と対象は、いかなる面においても、いかなることにおいても一つにならなければならないのが原則です。一つになることにおいて、悪い位置で一つになることを願う人は一人もいません。最高の位置、変わらない永遠の位置、完全に統一された位置で一つになることを願うのは、主体と対象の存在がそれぞれ願う基準にほかなりません。
それでは、対象であり、結果的な立場にいる人間が願う最高のものが、愛であり、生命であり、理想であるとすれば、主体であるその方の要求と、その方の希望と欲望は何でしょうか。もし神様に、「神様、あなたが最も貴く、絶対的で、価値があると認めるものは何ですか」と問えば、神様もやはり対象が求めるものを求めざるを得ないという結論が出ます。
神様にとって、お金や知識、または権力は必要ではありません。間違いなく、その方は「愛であり、生命であり、理想である」と答えるでしょう。そのようなことを考えるとき、神様がいくら偉大で絶対的だとしても、結局のところ誰に似ているかといえば、私たちに似ているのです。主体と対象は似ていなければなりません。
絶対的な主体と絶対的な対象
神様は、どのようなお方かというと、愛の主体であり、生命の主体であり、理想の主体であられます。そうだとすれば、私たち人間は、愛の対象であり、生命の対象であり、理想の対象であるという結論を立てることができるのです。
神様が絶対的なら、私も絶対的な位置を願わなければなりません。神様が不変なら、私も不変でなければなりません。神様が唯一なら、私も唯一でなければなりません。神様が永遠なら、私も永遠でなければなりません。そのような観点から、人間の永生は必然であり、それは当然の結論にならざるを得ません。いくら神様に愛があっても、私に愛がなく、いくら神様に生命があっても、私に生命がなく、いくら神様に理想があっても、私に理想がなければ、すべては無駄なことなのです。
したがって、主体という存在にとって、対象はどれほど価値があるかということを、私たちは否定できません。それは、常識的に認めなければならない問題です。私がこの場に立って、聴衆がいないのに、こぶしを振って「おお」と言うなら、狂った人だと思われるでしょう。しかし、一人の足の不自由な人であっても、その人に対して目を見開いて語っているとすれば、それは精神病者ではありません。また、誰一人いなくても、小さなものを見ながら、喜んで詩を詠んだとすればどうでしょうか。それを狂っていると言えますか。
これは何を意味するのでしょうか。相対圏が「絶対」を擁護する絶対的な原理をもっていることを主張しているのです。それが対象の価値です。神様がいくら気高く、偉大だとしても、対象がいなければどうするのでしょうか。神様はうれしいでしょうか。一人で喜ぶことができるでしょうか。ですから、神様は喜ぶために対象の世界を創造されたことを知らなければなりません。
ある宗教では、神様は神聖で高潔な方であられ、人間は悪なるもの、罪悪にまみれたものなので、創造主と被造物は同等にはなり得ないと主張してきました。このような信仰は、根本的に間違っているのです。対象がいなければ、どんなに偉大な人でも、どんなに悟りを開いた人でも、どんなに絶対的な人であっても、悲しいのです。私たち人間が悲しむのは、神様がそのようになっているからであり、主体に似ているからです。この問題が、これまで度外視されてきました。絶対的な神様のみ前に、絶対的な対象の価値をもち、堂々と登場する権威を失ってしまったというのです。
神様のみ前に歩み出ることのできる唯一の道は愛
それでは、そのように気高い神様のみ前に、私たちがいかにして相対的な位置へ進み出ることができるのでしょうか。努力によって可能でしょうか。力を使えば可能でしょうか。何をもってしても不可能です。ただ愛の関係によってのみ可能です。愛の関係さえもっていけば、誰もが直ちに同等な位置に進み出ることができます。皆様、この世でもそうではないですか。ある偉大な男性と、その男性を中心として一人の女性がいるとき、その女性が、世間一般的に見れば何の立場もなく、知識もなく、すべての権限においてないに等しかったとしても、主体であるその男性と愛の関係さえ結べば、瞬時に堂々とした対象的権限をもつようになるのです。夫が行く所には、妻もどこにでもついて行くことができるのです。
神様と私たち人間との関係も、愛を中心として連結されれば、神様と人間との愛は、この世の父子関係の愛よりも高いものなので、その愛を中心として、瞬時に対等な位置に上がるようになるのです。愛は絶対的であり、不変であり、永遠なので、それが可能なのです。ですから、偉大な価値の根源を忘れた私たちの人生の本源地を回復しなければなりません。
したがって、主体と対象は一つにならなければなりません。原因と結果も必ず一つにならなければなりません。聖書によると、神様は「わたしはアルパであり、オメガである」(黙示録一•八)とおっしゃいました。それはどうなるということでしょうか。二つが離れるということでしょうか。一つになるということです。神様がアルパなら、私たち人間はオメガです。神様が最初なら、私たちは最後です。神様が初めなら、私たちは終わりです。端と端が、そのまま一つになることはできないのです。回らなければなりません。左手が回って右手と一つにならなければなりません。
それでは、一つになるとき、互いに異なるのでしょうか。一つは大きく、もう一つは小さくてもよいのでしょうか。和睦を望み、平和を望むことは、一つになる起源を離れては不可能です。平和や幸福といったすべてのものも、神様が愛と生命と理想の主体としていらっしゃるのならば、神様は、人間と一つになるために、人間と対等な愛と命と理想が連結される位置を策定しなければならないのです。
神様の愛を占有することが人間の最高の欲望
皆様。これで関係については理解しました。主体と対象の関係は理解できました。次は、その統一の場所がどこかということを、はっきりと知らなければなりません。私たち人間は、最高の欲望をもっています。そして、比較する知能をもっています。二つのうち、少し良いものが下にあり、悪いものが上にあれば、降りてきて良いものを取ろうとするのです。また、もっているものよりも良いものがあれば、もっているものを投げ捨ててそれを得ようとします。もっと貴いものがあれば、既にもっているものがあっても、また欲しくなるのです。最も貴いものを望むというのです。
ですから、これまで人間の欲望は終わりがないと信じられてきました。これが一般的な結論であり、評価です。そうだとすれば、神様はいないことになるのですが、どこまで行かなければならないのでしょうか。終わりがなければなりません。それはどこまででしょうか。世界最高の偉人が生きているとしましょう。言葉一つで全世界を動かすことができ、一言でどんなことでもできる聖人がいれば、皆様は「ああ!私はあの人の友人になれたらいいな」と思うでしょう。それで友人になったとします。
そうなれば、それで満足するでしょうか。それよりも高い位置があれば、高い位置を望むでしょう。友人よりも、その方の養子になる道があるならば、友人になることを捨てて、「養子になれたらいいな」と思うでしょう。しかし、それで満足するでしょうか。皆様。満足しますか。私は、そうは思いません。皆様も間違いなく、「言うまでもなく同じである」と答えるはずです。私は東洋人で、皆様は西洋人ですが、西洋人も東洋人も何ら違いはなく、同じなのです。
ですから、養子よりも直系の息子、娘になる道があるならば、なりたいでしょうか、なりたくないでしょうか。養子の立場よりも、直系の息子、娘になろうと思うでしょう。それでは、なぜ養子を捨てて息子、娘になろうとするのでしょうか。本心からにじみ出る完全な愛を受ける道が、その道しかないからです。その人を占領する前に、その人の愛を完全に占領できる息子、娘になれば、その方は誰の父ですか。その方は誰になるのですか。その方が喜ぶことは私が喜ぶことであり、その方が所有するものは私のものになるのであり、その方が従えるすべてのものは私のものになるのです。それは手続きを経てそうなるのではなく、自動的です。
それでは、もし神様がいらっしゃるなら、その神様を中心として、そのような位置を願わざるを得ないのです。神様がいらっしゃるなら、天の国の民になりたいと思うかもしれませんが、それよりは、神様の友人になることができれば、それを願うのです。それでは、友人になることを願いますか、それとも養子になることを願いますか。友人をやめて養子になることを願うのです。その次に、息子、娘になることができるなら、養子もやめるのです。このように見るとき、人間に最高を求める欲望を与えたのは、神様と関係を結べる対象の価値観が創造目的に設定されているからです。
それでは、神様にお会いすることだけを願いますか、神様と共に暮らすことを願いますか。結局は、神様の中に一つしかない、その愛を占領しようとするのです。人間の欲望が、神様の絶対的な愛を占領し、また何かを求めるようになれば、神様は何もできないのです。それ以上はあり得ません。ですから、神様の愛を占領したのちには、春の中の春、喜びの中の喜び、世の中のすべてのものが「私」の言葉によって動き、私の行動によって動くようになるのです。
神様と人間の父子関係の決定
ここに立っている人は、神秘的な境地に入り、宇宙の根本が何であるのか、追求した時がありました。神様からの答えは、「父子の関係である。父と息子である」というものでした。一般の人であれば、自分の父母との関係と考えるでしょう。言い換えれば、自分を生んでくれた父と母であると考えやすいのです。しかし、それは神様と人間との関係のことを意味しているのです。
父子関係がもつ特定の内容とは何でしょうか。父と息子が出会う最高の場所はどこでしょうか。愛が交差するその中心、生命が交差するその中心、理想が交差するその中心で出会うのです。そのように見れば、愛と生命と理想は一カ所にあるのです。その場所に行けば、神様も愛であり、私も愛であり、神様も生命であり、私も生命であり、神様も理想であり、私も理想になります。それを決定できる最初の関係と最初の統一の場所が、父子関係が結ばれる場でなければあり得ないのです。
それでは、例を挙げてお話ししてみましょう。皆様が父母を通して生まれるためには、父母の愛が芽生えなければなりません。互いに相対的関係が成立しなければなりません。そうして、その愛の環境、生命の一致点で、命が連結されなければならないのです。夫と妻が、互いに嫌だというのではなく、互いが理想的でなければなりません。夫婦が愛を結び、一つになってこそ、夫婦の愛が成立するのです。そうしてこそ、夫の愛は私の愛であり、夫の命は私の命であり、夫の理想は私の理想となるのです。反対に、妻の愛と生命と理想も同様です。そのように一つになった場で発生するもの、そのような統一的な場で生まれるのが子女です。
ですから、その子女は父母の愛の実現体であり、投入体です。父母の生命の延長体です。また、父母の理想の具現体です。皆様の中で、子女を生んで愛してみたことのある人たちは、分かるでしょう。その愛する息子に対して、「この子は、私の愛の実体であり、生命の延長体であり、理想の具現体である。第二の私である」と思うのです。出発から、愛と生命と理想的基盤の上で生まれたので、父母は、その子女を見れば見るほど愛らしく、見れば見るほど生命が躍動し、見れば見るほど理想的な相対として登場するのです。
父母と子女としての神様と人間
神様がいるならば、その神様と人間はどこで連結されるのでしょうか。生命が交差する所、愛が交差する所、理想が交差する所です。その点は、どのような点でしょうか。父子関係にほかならないという結論が出ます。
このように考えるとき、私が神様と同等になることができるという喜びがどれほど大きいか、考えてみてください。そこに祈祷が必要でしょうか。「神様、私は罪人です」という祈祷が必要でしょうか。愛の主体であり、生命の主体であり、理想の主体なのに、祈祷が必要でしょうか。威信と体面を超越するのです。躊躇することなく神様をつかまえることができるのです。神様が私を抱き締め、なでてくれ、愛してくれることを体験すれば、骨身が溶けてしまうでしょう。
ここに宗教指導者の皆様もいらっしゃると思いますが、そのような神様の愛を一度受けたことがあるでしょうか。そのような立場で呼吸をすれば、世界が出たり入ったりします。酒を飲んで酔うことより劣るでしょうか。神様の愛に入るようになれば、満たされないところがありません。六十兆個にもなる細胞までも踊りを踊るのを感じることができるのです。目は目で、手は手で、みな感じることができるのです。それ以外の他のものを持っていってあげても、みな満足しません。
そのような神様の愛があるので、人間の最高に高貴な欲望が、それを望んでいることを徹底して知らなければなりません。それがなくてはならないのです。皆様は、他人の父親を自分の父親であると信じるのですか、自分の父親を父親であると信じるのですか。神様について、そのような実感がなければなりません。神様と私たちの関係は、このように偉大であることを、間違いなく感じなければなりません。どんなに孤独で苦難の場にあったとしても、神様の愛の中に抱かれるならば、たとえ受難の道を行くことになったとしても、苦痛を感じないというのです。ここに賢い方々がみな集まっておられますが、皆様は、そのような境地を得ることができるなら、何億ドルを出してでも得ようとするでしょう。しかし、それはお金で買えるものではありません。骨髄からしみ出る愛の心情を説明する前に、主体と対象の情の流れが中から爆発しなければなりません。そこから始まるのです。
イエス様も、そのような価値の内容を通して見たとき、宇宙と生命を取り替えることはできないと言いました。神様と連結されるその生命には、愛があり、理想が通じるようになっています。生命と理想が自動的に連結されるのです。愛を中心として生命が躍動し、理想を中心として生命が躍動するようになっています。今、皆様は神様と私たちの関係と位置を知りました。兄弟同士、そのような立場に立つことができるでしょうか。できません。夫婦同士も、そのような立場に立つことができるでしょうか。できません。それを知るようになるとき、堂々と神様のみ前に出ていくことができるのです。しかし、今日、イエス様を信じる人々、キリスト教徒たちを見ると、「私たち人間は、罪人であり、被造物なので、価値がなく、イエス様は神様である」と言います。それで、どうやって神様と連結されるのでしょうか。
テモテへの第一の手紙第二章五節を見ると、「神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト•イエスである」とあります。それでこそ正しいのです。そうでなければ、この罪人たちが、どうやって神様のみ前に行くことができるでしょうか。そのような根本的な問題を理論的に、すべて整理しておかなければなりません。その方は罪のないお方であり、私たちは罪人です。これが違うのです。ですから、イエス様は、神様の愛と交流でき、生命と交流でき、理想と交流できるお方なのです。
私が、この宇宙の根本問題に突き当たって、これを解決しようとしたとき、このような内容を知って、心底から神様に感謝しました。これを知ることによって、本当の意味で人間の価値を知ることができ、本当の意味で人間の本郷を探し求めるべきであり、人類が暮らすことのできる祖国を建設しなければならないという考えをもつことができたのです。
神様の完全投入体としての人間
皆様は神様に似ています。皆様は、皆様自身のために生きる時があります。神様は、天地万物と人間を造る前、御自身を中心として存在しておられました。それで、神様に似た私たちも、自らを中心として考える時があるのです。そのような神様が天地万物を創造し始めたのは、対象の世界を展開するためでした。結局は、別の自分の相対的存在をつくろうということです。それで、神様御自身を投入されたのです。見えない神様から見える神様へと展開させようということです。
創造の業を行うということは、力の投入を意味します。創造とは、力を消耗することです。投入したのですが、どのくらい投入したのでしょうか。人々は聖書を読んで、神様がみ言で「このようになれ!」と言って創造されたと思っています。しかし、そうではありません。そこには、真の生命を投入し、真の愛を投入し、真の理想を完全に投入したのです。
創造前と創造後が違い、創造する前は自分のことを考えましたが、創造を始めたときからは対象のために生きる時代へと転換されたのです。「私がいるのは、私のためにいるのではなく、相対のためにいるのであり、息子、娘のためにいる」と考えるようになったのです。
ですから、皆様はそれを知らなければなりません。愛や理想という言葉は、主体と対象との関係において使う言葉なので、理想的な存在の起源は、自分のために生きるところにあるのではなく、相対のために生きるところにあります。神様は、一〇〇パーセントを投入しても損をするのであれば、投入されないのです。返ってくるときに九〇パーセントになり、一〇パーセントが損害となれば、投入されません。それ以上に返ってくるものがなければならないのです。それで、一〇〇パーセント投入することによって、なかったものが生まれました。対象が生まれました。それだけではなく、その対象が、自分の望んでいた愛をもってきて、生命を刺激する理想的対象として現れるのです。神様も愛には引っ張られます。その対象が引っ張れば、引っ張られるのです。対象が好む所に神様も行くようになります。自分自身を見て喜ぶのではなく、相手を見れば見るほど喜ぶのです。人間の創造は、自己の完全投入です。人間は、それによる最高の傑作です。
有名な画家がいれば、その画家は、遊び半分で描いた絵を重要視するでしょうか。食事もせずに精神を集中させ、すべて投入して、一つ一つ慎重に自分自身の構想どおりにできた作品に対して、「傑作である」と言うでしょう。「その原画は自分が持ち歩き、保管し、愛したい」と思うのです。
ですから、真の神様は、相対をつくることに完全投入されることによって、より価値のある理想的な完全形を展開したのです。神様も、アダムとエバをお造りになってからは、アダムとエバのために存在しようとするのです。神様のためではありません。自分お一人でいた時から、相対のために生きる時へと展開されたのです。理想的存在は、自分を中心としません。理想的存在は、人のために生き、対象のために生きるところにあるのです。この原則が、宇宙の根本であることをはっきりと知らなければなりません。
相対のために生きるとき永遠に存在する
ここに、ワシントンDCの有名な方々が来られていることと思います。「私なら、この先この国の大統領にもなることができ、どこに行っても、実力においても、何においても負けない、堂々とした私である。私は、自分のために生きる人である」という人がいるかもしれません。私たちは結果的な存在であり、神様に似ているので、神様が御自身のことだけを意識していた時があったように、皆様も、皆様自身のために生きる時があります。そうしてこそ、自分自身が成熟するのです。大きくなるのです。吸収し、成熟します。しかし、対象が現れるようになれば、自分を捨てて相対のために生きる時へと越えていかなければなりません。
男性として生まれた人は、自分のためだけに生きようとするのではなく、相対のために生きようとしなければなりません。男性は何のために生まれたのでしょうか。男性自身のために生まれたのではありません。女性のために生まれたのです。
また、どんなに美人で、またどんなに男性が嫌いな女性でも、なぜ女性として生まれたのかというと、自分のためではありません。相対のために生まれたのです。存在の起源は、私のために生きるところにあるのではなく、相対のために生きるところにあります。そのような世の中になれば、それは天国にほかなりません。
父母は子女のために生き、子女は父母のために生きるようになるとき、互いにために生き合うので回るようになるのです。ために生きれば生きるほど、早く回ることができます。四角ではなく、立体的に回るのです。ために生きることは、押してあげることです。あちらから私のために押し、私もあちらのために押してあげるので、早く回るのです。ですから、世の中は円形に似ています。顔が丸く、目も丸いのです。上部と下部がありますが、それが完全に与えて受けるようにしなければなりません。静脈と動脈も与えて受けるのです。与える道があるのに受ける道がなければ、病気になります。壊れてしまうのです。存在物は運動をしますが、その存在の根源においてために生きる作用の原則を立てなければ、永遠に存在することができないのです。