天聖経: 第391話

第十二篇 天一国

第三章 天一国国民の道と「家庭盟誓」

第四節 心情と心情文化世界 2-11

2 母親が自分の赤ん坊を生んだとしても、隣村の乞食、もしくは貧民の息子、娘がお乳を飲めずにいれば、彼らに自分の息子、娘のようにお乳を飲ませてあげてこそ、心情が生じるのです。心情とは、そのようなものです。自分の息子、娘のように愛することができ、世界を越えてでもその愛を実践してこそ、心情の世界が訪れます。情の世界が訪れるのです。

村に数多くの息子、娘が生まれれば、彼らを自分の息子、娘よりもっと愛することができ、自分の息子、娘を愛したのと同じ心情をもってこそ、心情の世界、解放の世界、神様が訪ねてくることのできる世界になるというのです。彼らを同じ体のように愛さなければなりません。

 

3 心情は、生活観念など、あらゆるものを通過できる内容と力をもっています。生命の根源の位置にあるのが心情なので、生命を否定したとしても、心情を否定することはできません。存在を否定したとしても、心情を否定することはできません。心情は存在以前のものです。ですから、神様は愛だという結論が出てくるのです。

私たちは、心情を見たことがありません。心情は長いのか、丸いのか、高いのかと問い掛けてみても、答えることができません。しかし、愛する人が離れていけば、慕わしさがいっぱいにあふれてくるというのです。神経の最高の触感までいっぱいに満ちてくるのです。心情は五官で測ることができません。

人間の心情でもこのようなものだとすれば、絶対的心情の主体であられる神様と関係をもってその心情に接した人はどうでしょうか。これは、表面には現れませんが、存在するのは間違いありません。そのような心情主義、心情理念を中心として、新しい世界に向かって進もうというのが統一勇士です。

 

4 統一教会で言う心情とは、人類が共に願う希望の心情であり、万民が関係を結ばなければならない心情であり、神様が今まで探してこられた心情です。その領域においては天地を包括することもでき、全体を包んで余りある心情のことを意味しているのです。そのため、天の勇士になろうとすれば、第一に、この心情に通じなければなりません。その次に、愛が問題です。

ところが、アダムとエバは、堕落することによって、神様の心情が分からなくなりました。アダムとエバが人格を完成して神様のみ前に近づいていたならば、神様は、彼らを祝福してくださり、彼らに御自身の心情を相続させてくださったでしょう。神様は、愛と心情が通じる天的な夫婦を通して、血統的な家庭をつくろうとされたのです。本来、アダムとエバは、このような途方もない神様の心情を相続し、心情の基盤の上に人類の真の始祖にならなければなりませんでした。そのような心情の土台を失ってしまったのが堕落です。そうして、神様の心情を相続できなくなったのです。神様の心情を失ってしまい、神様の心情に似ることのできる人格を失ってしまい、人格の上に立てられるべきみ言の目的を失ってしまったというのです。

 

5 人間が堕落することによって、この世界に国境が生じました。根が変わり、文化背景が変わりました。神様が思いどおりに出掛けられる文化圏になれなかったのです。サタンの文化圏です。アダム文化圏ではありません。一つの根、一つの血統を中心として、一つの心情的基盤を築き、東西南北の立体的な球形までも管轄できる愛の理想圏に私たち人間が生きることができず、反対の位置にとどまるようになったのです。そのため、今日、私たちは、本然の理想圏に帰らなければなりません。

 

6 歴史の流れとともに、すべての文化は発展してきています。今日の文明は、賑やかで華やかな世界をつくっています。しかし、これが私たちの体と心の問題、心情問題を解決するには、何の助けにもなっていません。外的には複雑な環境と複雑な組織形態が現れましたが、その全体と「私」の心情が通じずに、すべてのものと和合できないのが実情です。天地が共に楽しみ、天地が共に声を上げてくれる基準をもつことができていない世の中だというのです。

今日のこの時代は、心の指向する方向と心情が求めている方向が、全く違う形で流れていっています。人間は、いつでも心と理念に通じる心情を求めるので、そのような心情に対して外的な生活に通じる体を調整する、ある基準が立っていなければ、人類はいつの時代であっても、あえぎ苦しむ立場から抜け出すことはできないのです。神様が目標とする世界は、現世の文化世界と文明世界ではありません。心の基準と心情の基準を立てて文明を治める世界が、神様の願われた世界であり、私たちの先祖たちが後代の万民に残さなければならない世界なのです。

 

7 今日の世界は、神様が訪ねてこられる外的な世界形態は備えられていますが、心情の世界は備えられていません。この世界は、事情の通じる環境にはなっていますが、心情が通じる環境にはなっていないというのです。これから神様が訪ねてこられるとすれば、心情をもって訪ねてこられるでしょう。この世界を代表し、世界人類を治めることができる民族がいるとすれば、神様の心情を伝統として立てていく民族です。また、人の心と人の心情を通して出てくる文化が世界を治めるのではなく、神様の心情を通して出てくる文化が世界を治めるでしょう。最後の問題は、そこにあるというのです。心情が通じる世界、心情の世界を完成した最終目的の世界を探し出すまでは、皆さんがここで荷物を解き、永遠の安息の生活をすることはできないのです。

 

8 神様が目標とする世界は、どのような世界でしょうか。現在、私たちが目にするこのような文化の世界ではなく、文明の世界ではありません。文明を正しい方向に指導できる心の基準、心情の基準を立てるのが、天が願う中心のみ旨であり、私たちの先祖が後代の万民に立てようとした基準の世界です。

 

9 万民が平和の世界を望んでいます。その世界は、今日の世界の先進国が追求していく文化を通して成し遂げられるのではありません。真の父母を通して成し遂げられるのです。真の父母がいくらむしろをかぶり、占びたふろしきを背負って、色あせて擦り切れた服を着ていたとしても、また千丈、万丈のくぼみから疲労困憊しながら出てきたとしても、堕落した人間は、その真の父母を中心として、神様の心情を学ばなければなりません。統一教会は、心情の道理を教える所です。皆さんは、神様の心情に接ぎ木しなければなりません。

 

10 慕わしさは、愛を抜かしては生まれてきません。その愛は、人間的な愛ではなく、永遠の安息と、永遠の生命の源泉である神様の愛でなければなりません。そのため、他の宗教よりもキリスト教は、愛の宗教としてその使命を果たそうとするのです。宗教の目的は、心情世界の法度を遵守し、生活感情に相対する宇宙万象のあらゆる道理を管轄する権限をもって人格者を培うことです。

木石のような人たちであっても、神様は、六千年間、人間を慕う心情の基準を立てて摂理してこられました。歴史は千態万象に展開してきましたが、神様は、アルファでありオメガの立場で、終始一貫して慕わしく思い、その心情を失われなかったのです。そのような神様の心情と違いがあるとすれば、その人間は敗北者であり、歴史路程における落伍者なのです。

 

11 多くの人々が、復帰過程において、サタンの讒訴を受ける圏内で天国を味わったかもしれませんが、サタンを取り除いた中で、本当に永遠の平和の祖国、天国の味を体恤した人はいないのです。本当の天国の味を感じ、神様の愛を感じた人は、サタンと闘わなければならないという刺激を受けます。そして、本当の天国の味を感じ、神様の愛を一度受ければ、神様から再び離れることはしないのです。このように神様の愛を体恤した人が、この地に現れなければなりません。神様の所有が決定されるべき限界線は、どこまででしょうか。それは、一株の草から、一坪の土地から、一つの世界から、最も末端から出発して天国まで、さらには神様の心情世界までです。

Luke Higuchi