天聖経: 第390話
第十二篇 天一国
第三章 天一国国民の道と「家庭盟誓」
第三節 神人愛一体と侍る人生 9-18
第四節 心情と心情文化世界 1
9 神様が創造した当時に理想とされた神人愛一体の家庭が完成していたならば、私たちは天国に入っていたでしょう。ですから、問題になるのは、神様と人間の真の愛が主体と対象の真の愛として一つにならなければ、神様と人間の真の愛が互いに違うものになるため、二つの方向と目的地が設定されるということです。そのようになれば、神様と人間が願う絶対的な理想世界は探し出せません。
その二つの真の愛が一点で出発することを願った神様のみ旨は、堕落によって完全に停止してしまいました。サタンの愛を中心として偽りの父母が生じ、人類は偽りの愛と偽りの生命、そして偽りの血統を受け継いだ子孫なので、みな地獄に行くのです。天国と関係がありません。今まで、肉身を制御し、心が思いどおりにできる人を中心として、神様の真の愛を占領しなければならないという事実を知りませんでした。
10 神人愛一体、この一体はどこで成し遂げられるのでしょうか。神様の愛と人間の愛がどこで合わさるかという論理を、今まで誰も知りませんでした。これが分からなければ、「父なる神」という言葉は荒唐無稽(むけい)であり、関係ない言葉です。アダムとエバの実体の結婚式が神様の結婚式になるのです。霊界に行ってみれば、それがはっきり分かります。これまで分からなかった理論がすべて当てはまるのです。
ですから、皆さんが神様の愛を占領してこそ、その欲心が満たされ、「これでよし」と言うのです。作用は、主体と対象がいなければなりません。人間の欲望が作用するためには、「私」が相対であれば主体がいなければならないというのです。その主体が神様の愛です。神人愛一体圏の特権的基準を賦与したので、それを成就するときまで、欲望はいつでも活動するのです。それを占領すれば満たされるのです。
11 信仰生活において「神様!」と叫ぶことは、神様の信頼を受けるためです。信頼を受ければ、結局、神様の愛の一体圏を訪ねていくのです。そのようにすることによって、人間の愛と神様の愛が一つになるというのです。
12 統一教会は、安息日の代わりに侍義、侍ることによって救いを得る時代に入っていきます。侍るときは、ただ侍るのではありません。永遠に安着すべき神様が臨在して、家庭に入ってきて安着した場で侍ることによって、神様と一緒に生活できる、解放圏ではなく釈放圏が成し遂げられるのです。今まで、一週間を中心として聖日としてきましたが、十数圏内で最も重要な日が八日です。八日は再出発の日です。八日が最も重要な日なので、安着侍義の日です。「安侍日」が定着し、神様に侍ることによって、初めて救いを得るのです。
13 侍義時代とは何でしょうか。神様に侍って暮らす時代です。聖書における第一の戒めも、「神様を愛しなさい」というみ言ではないでしょうか。後天時代には、神様御自身が真の父母の姿で万民の前に顕現されます。したがって、真の父母に侍る統一教会の立場は、世の中のいかなる力や勢力とも比較できない天の権勢として現れるのです。
14 今日、堕落した人間に父母はいますが、その父母は真の父母ではありません。その父母は、神様に認定を受けた父母ではありません。それでは、終わりの日に私たちがすべきこととは何でしょうか。私たちが生きているこのときに、宇宙的な父母に侍り、教団的な父母に侍り、家庭的な父母にまで侍らなければなりません。すなわち、三大父母に侍らなければならないのです。
家庭は民を代表することができ、教団は子女を身代わりすることができ、宇宙的な父母は真の父母を身代わりできる型です。今日、地上に人間が暮らしていますが、神様が許した真の父母の愛の圏から外れています。父母と血肉が相通じる関係が、生まれてから永遠の世界まで連結されていないことが悲しいことなのです。そのため、家庭的な父母から教団的な父母、宇宙的な父母と神様の愛が絡み合って、初めて六千年全体の愛の圏に入っていき、神様のみ前に顔を上げて立つことができます。これが、私たち人間が必ず行くべき路程です。
15 エデンの園でアダムとエバは思いのままに堕落し、その堕落圏内で生きたので、直接的な侍る生活ができませんでした。このような侍る生活ができなかった人間は、天上の天国に入る資格がありません。しかし、皆さんは、堕落の血統を受けて生活しましたが、復帰の一つの路程を蕩減し、アダムとエバが侍ることのできなかった真の父母に地上で実体をもって侍り、神様に侍って生きてから逝ったという条件によって、天国に入っていける資格を得るというのです。それでこそ、天国の市民権を得るのです。
16 神様を宇宙の父母として侍れば、神様の愛がこの地上に君臨するというのです。そのようになる日には、神様の愛を受けて兄弟を愛するようになり、「けんかしなさい」と言ってもしなくなります。エデンの園での堕落は、どれほど忌まわしいことでしょうか。エデンの園で争い、今まで血を流してきた路程がどれほど忌まわしいことでしょうか。個人が天国に行こうとすれば、一人では行けません。二人が合わさり、兄と弟が一つになって父母に侍っていかなければなりません。
17 「天一国平和統一平定」を宣布します。「天一国平和統一平定」とは、どこでも同じだというのです。同じでないものはどこにもないという意味です。「平定世界時代を発表する」ということです。「天一国平和統一平定時代到来発表宣言」、この言葉は、天の国や地上が同じだという意味なのです。ですから平定です。先祖を呼べば、子孫が真の天一国平和統一の祝福を受けた家庭なので、先祖は答えてあげなければなりません。したがって、霊界が地上に自由自在に再臨でき、地上人の願いが自由自在に先祖と神様のみ前に報告される時代のことを意味するのです。それで、平定時代到来発表を宣言するのです。
18 私たちの願いは、神様と同じ位置に立つことです。同位権です。同居権は一緒に暮らすことです。その次に同参権です。同行権でも同参権でも同じです。一緒に参席し、一緒に行動しなければなりません。その次に同愛権、共に、愛の目的のために生きるのです。それで、イエス様も「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ一四・六)と言ったのです。
「わたしは道であり、真理であり、命である」と言ったのですが、「愛」という言葉が抜けました。天一国は、愛を中心として行くのです。ですから、皆さんの願いは、父母様と共に同じ位置にとどまりたいということなのです。父母様と共に暮らしたい、父母様と共にすべてのことに同参して行いたいというのです。永遠に共に、愛を中心として幸福に、自由に解放された立場で生きなさいというのです。そのような意味で、天一国平和統一平定時代が来たというのです。
そのため、皆さんが動くときは、一人で動くのではなく、皆さんの国がついて回るというのです。霊界全体が、天の国全体がついて回り、地上世界と万民が擁護する中で、主人の資格をもって暮らしているというのです。ですから、神様の愛の伝統をもって、「私」の一族を通して侍り、「私」が一国の伝統の骨となる思想に侍る主人にならなければなりません。
第四節 心情と心情文化世界
1 「心情」は、「心の情」と書きます。心の情がある所は、どこでも心情圏に属するのです。神様が人間を造ったので、神様の心情の流れが既にそこに内的に連結されているのです。神様の愛の電気が通じるのが心情圏です。心情圏に対する体恤とは、その電気を「ああ!」と感じることです。心情体恤はどれほど強いかを感じることなのです。良いかどうかを感じるのです。心情圏というのは、すべてのものが通じる内容をもっています。この心情圏に属さないものはないというのは、どこであろうと心情的電気が通じるということです。