天聖経: 第388話
第十二篇 天一国
第三章 天一国国民の道と「家庭盟誓」
第一節 純潔と一心・一体・一念・一和の人生8-10
第二節 正午定着と共鳴の人生 1-7
8 統一教会の第一条件は何でしょうか。心身一体です。神様が天地を創造するとき、絶対信仰、絶対愛、絶対服従したのです。私が語れば、信じるとおりに実体が現れるのです。現れなければ、投入しながら現れるようにして成し遂げます。いくら大きいものでも、命令したとおりに或し遂げられるのです。願った以上に投入するので、完成するというのです。
9 一心、一体、一念において、神様を中心に体と心が一つになった一心は、愛天です。天を愛しなさいという意味です。一体は人類を愛しなさいという意味です。
一念は愛国ですが、愛国は国家を愛しなさいという意味です。国家は家庭を拡大したものです。家庭を愛しなさいというのです。
男性と女性が願うすべての骨子であり主流が、一心、一体、一念の思想です。天宙といえば神様の家なので、万物世界、天地がすべて入ります。被造万物がすべて入っていくのですが、その天宙人の主流思想だというのです。一心、一体、一念は、神様と天宙人の主流思想なのです。
10 一和という言葉は、「一」の字に「和」の字です。「化」の字ではありません。「和」の字というのは、皆さんの個性がすべて違いますが、側性が違う人々がただそのまま一つになるのと同じように、個性が違う民族、個性が違う国家が合わさらなければならないという意味が内包されています。
第二節 正午定着と共鳴の人生
1 正午定着は、影がなくなるときに可能です。体と心が一つになれば、影がなくなります。夫婦が一つになれば、影がなくなるのです。太陽が東にあれば西に影ができ、西にあれば東に影ができます。また、南にあれば北に影ができ、北にあれば南に影ができます。東西南北に影ができます。しかし、正午に中央に立てば、影がありません。そのような父母、夫婦、父子の関係、そのような兄弟の関係にならなければなりません。そうしてこそ、神様が八段階の愛を中心として、主人になる位置が決定するのです。いくら精誠を尽くしても、正午定着にならなければなりません。十二時に影がないように定着しなければ、影のない神様のみ前に行けないのです。垂直になりません。永遠に影がない垂直にならなければなりません。
2 正午定着です!四位基台に影があってはいけません。正午定着すれば、神様が頂上から降りてきて、すべてが喜ぶのです。いくら広くても、すべてが喜ぶのです。「私」が正午定着できる母、父になり、夫、妻になり、息子、娘にならなければなりません。ここに影が生じれば、「私」ゆえに天地のすべての災いが私たちの家庭に根を降ろすのです。恐ろしい言葉です。これが一つの公式であり、モデルです。そこに合わせなければなりません。すべてがペアになっています。四位基台です。何かを見るときも、視神経を中心として焦点を合わせてこそ、意識構造にきちんと入っていくのです。これがすべて四位基台です。口も四位基台であり、聞くのも三半規管を通して共鳴してこそ、聞き取れるのです。違いがあれば、何の言葉か分からないのです。正午定着を生活哲学として大切にしていかなければなりません。
3 神様の宝座が地上で地獄の真ん中に来ていますが、中心は太陽のように昇らなければなりません。そのようになれば、すべてのものが影のない正午定着時代に入るのです。その正午定着という言葉は、影が永遠にないことを意味します。霊界に行けば、太陽がいつでも中間に浮かんでいます。影がないということです。影ができれば、すぐに善の霊が集まってきて吹き飛ばしてしまうのです。なくなるのです。そのため、善の霊が地上に来て、影のある世の中を処断してしまうのです。
4 皆さんの体と心はいつ共鳴しますか。神様の愛を中心として、成熟した位置で心は自然に神様の愛と周波が合うというのです。その愛の周波によって体が完全に、一〇〇パーセント神様の愛と一つになります。電気で言えば、プラスとマイナスが、火花が散ってはんだ付けされたのと同じようになるのです。そのようになっていれば、私たちの体と心と理想が神様と完全に接ぎ木されていたでしょう。
しかし、その位置を失ってしまったというのです。ですから、神様の愛を中心として、私たちが接ぎ木できる体と心の基準を発見しなければ、これを家庭で発見することはできないのです。これを国家的にもっていって、国家で発見することはできません。それでは、どこで探すべきでしょうか。個人において探さなければなりません。そのため、宗教は個人完成を追求してきたのです。それを知らなかったというのです。そのような共鳴圏をつくってこそ、完成するのです。
5 人間の完成、すなわち絶対者の対象体として完成するということは、どのような境地でしょうか。愛と完全調和の主体であられる絶対者の前に、対象体が備えるべき条件は、自体内の主体と対象が完全に調和し、一体となることです。ですから、人間が絶対者を中心とした人格的成長をすることによって、心と体が完全に一つになれば、絶対愛を実現する土台になるのであり、このときに人間は絶対者との愛の共鳴圏に入っていきます。すなわち、心と体が少しの衝突もなく、完全に調和すれば、愛の感応圏が生じ、音叉が共鳴するように、自動的に絶対者との共鳴圏が生じるのですが、これは、相対的な世界で絶対境地に接する最低基準になるのです。
6 私たち人間は、どこから始まったのでしょうか。愛から始まりました。それでは、人間の目的はどこにあるのでしょうか。愛から始まったので、愛の帰結点をつくって連結されなければなりません。出発が愛だったので、目的も愛によって到達しなければなりません。そのようにしながら、その中で既に完成という一つの枠組みを備え、ここで前後、左右、上下に愛を中心として交流できる「私」自身にならなければなりません。愛によってその核と完全に一致し、核と一致した立場に立てば、「私」の体と心、全身、心の五官と体の五官が完全に和合でき、共嶋圏に入っていくようになります。この共嶋圏に入るとき、初めて体と心を中心として成熟した人、堕落していない本来の人間の個人完成が出発するのです。
7 愛の場に入っていけば、すべてのものが唯我独尊です。釈迦牟尼が「天上天下唯我独尊」と言ったのですが、これは、ただ語った言葉ではありません。体と心が一つになって、「天地が調和しているのは、今も皆も同じだ。真の愛の共鳴圏に入って私の中と全体の動きを見つめれば、神様も私の中におり、万物も私の中にあり、すべてのものが私と友人であり、すべてのものが私と兄弟だ。私が主体なので、私が主人と同じであり、私が主体になっているので、天上天下に唯我独尊だ」という境地で、そのような言葉を語ったというのです。