天聖経: 第365話
第十一篇 礼式と名節
第五章 主要名節と記念日
第二節 主要記念日 19-27
19 統一教会が神様によって始まったとすれば、この統一教会が経ていくべき道は、多くの道ではありません。出発も一つであり、行くべき道の方向も一つであり、帰着すべき目的地も必ず一つに違いないのです。神様から始まったので、行く道も「私」自ら行くことはできません。神様が動機になっているので、その動機に従って私たちが集合したので、その動機と一つになって、一つの方向を経ていく途上に立っているのです。その方向は、どこまでも私たちが自ら思いどおりにできるものではありません。
20 統一教会は、宗教の中で、最も長い歴史をもっていると見ることができます。最も長い歴史をもっているというのは、神様の愛の歴史を中心として、誰も知らない世界まで発掘したということです。愛の世界は、時間と空間を超越します。歴史はそこから出発し、過程ではそこを慕いながら行き、終着点であるそこを顕現させて、生活舞台で受け継ぐために行くのです。したがって、それは過去にもなければならず、現在にもなければならず、未来にもなければならないのです。
21 これから統一教会の名前を、「世界平和統一家庭連合」という名称に変更して使用します。「世界平和統一家庭連合」が中心となって先頭に立っていくのです。今までは、統一教会が先頭に立ちましたが、これからは家庭連合が先頭に立ち、統一教会は徐々になくなっていく時が来るのです。統一教会の「世界基督教統一」という言葉はなくなるのです。キリスト教が責任を果たせませんでした。それで、その次元を超えて、キリスト教の祝福が万民にすべて委譲される時代に入っていくというのです。
「世界基督教統一神霊協会」の神霊も、結局、真の父母様を中心として地上に家庭的メシヤの基準が定着するときには終わるのです。神霊の実体をこの地上に侍って暮らすべき人々が真の父母の継承者たちなので、その真の父母は、霊的完成と地上完成を代表した家庭の出発から、国家出発、世界出発、天宙出発を身代わりできる一つのモデル的な基台になるのです。そのため、「世界基督教統一神霊協会」時代は過ぎ去っていくというのです。
22 今日、団体の集まりは、一つの家庭を中心として結束できる代表的な核です。「女性連合」は母親の立場です。その次に、「青年連合」はカインの立場です。そして、「学生連合」はアベルの立場です。エバと共にこの三つが一つにならなければなりません。これから団体活動をするときは、すべて別々にするのではなく、一つになってしなければなりません。
今までは、縦的な時代であり、サタンが上から反対するので、仕方なく縦的な関係を結びながら、横的関係は結びませんでした。先生は、多くの団体をつくりましたが、これは、世界的基準まで縦的蕩減を越えるためのものでした。今や縦的蕩減を終結させるときになったので、横的に展開できるのです。それで、すべての団体は、「世界平和統一家庭連合」に結束するのです。家庭が着地しなければなりません。そうでなければ、蕩減復帰になりません。公式になっているのです。
23 神様を中心として、真の愛の血統を受け継いでいたならば、真の生命、真の血統と真の良心をもった「真の私」になったでしょう。堕落によって「偽りの私」になったので、体と心が闘っているのです。今や本然的アダム家庭の世界型版図に加入すべき時代に入ったので、全世界の人々が家庭を中心として完成しなければなりません。完成すべきものは何でしょうか。堕落した家庭を蕩減復帰した家庭にしなければならないのですが、これは、「世界平和統一家庭連合」を通して、世界的に各自が努力して備えなければなりません。
完成は、アダムとエバがしなければならないのです。神様がしてくれるのではありません。真の父母がしてくれるのではありません。これができることによって「家庭連合」が形成されるのです。これは、世界的な組織です。堕落した世界のアダムの血統を越えるのです。山を越え、坂道を越えるように、復帰過程を上がっていって失敗すれば、いつでもこれを繰り返すのです。何百万年、何千万年、繰り返すのです。
入監・出監日と愛勝日
24 先生は、監獄に入って頭をそられるとき、神様のみ前に祈りました。「私が願って頭をそるのではなく、怨讐の手に引かれていって、無理やり頭をそられるのです」と言ったのです。そのとき、先生の目がどれほど鋭く光ったか分かりません。落ちていく髪の毛を見ながら、私が願った幸福を捨て、さらには怨讐の前で頭をそられることが悲痛でした。復帰の事情を綴っていく路程では、そのすべての逆境が残念で悲しいことです。しかし、過ぎてみれば、神様が私を記憶してくださったがゆえに、それに勝つことができたというのです。
何日間も拷問を受け、むち打たれて倒れる場においても同じでした。私がむちを打たれるのは、私のためではなく民族のためであり、私が流す涙は、この民族の痛みを身代わりした蕩減の涙でした。先生は、すべての行路において、神様をつかんで身もだえしながら、神様の同情を受けるときまで、この蕩減路程の道を行かなければなりませんでした。私独り、この道を越えてきたのです。
25 拷問を受けて倒れる瞬間が、神様の声を開ける瞬間であり、息絶えるかどうかという場が、神様と出会える場なのです。統一教会のこの真理が出てくるまでには、皆さんの知らない深い背後があり、谷間があり、洞穴を通ってきたという事実を、皆さんは、考えることもできないでしょう。私は、「どうやってここまで来たのだろうか」と言うほどの立場だったことを知っています。先生は、監獄生活をしたことを、少しも悲しく思いません。「私が福を受けられる、天が私に財産を残してくれるための良い方法だった」と考えるのです。
26 服を脱げば、この道に歩み出たあとにできた傷跡が何カ所もあります。それを見つめるとき、この傷跡は人類と天が先生に与えた勲章だと考えるのです。それを見ながら「お前は、そのときに決意したことを、死ぬまで生命を懸けて行くと言ったその誓いを忘れたのか」と何度も誓うのです。悲惨です。これがなくなっていないのに、私が消えるわけにはいかないというのです。これを見るたびに、朝、昼、夕にそれを見つめながら誓うのです。「勝利しろ、この傷跡をもったお前は勝利しなければならない!」と激励するのです。
27 先生が興南監獄で労働するとき、冬の寒い時期に素手でアンモニアの肥料袋を運びました。肉が裂けて骨が見えるほどになり、血が出ているにもかかわらず、毎日のようにアンモニアの肥料を運びました。普通の綿の作業服では、一週間以内にすべてこすれて破れてしまいます。そのような所で半年だけでも働けば、体の細胞が死んで、つねれば水が出てくるのです。しかし、これは、問題にもならないというのです。自問自答して、「これが大変というなら、これ以上のときには天に背き、天の裏切り者になってしまうではないか!」と言うのです。