天聖経: 第364話
第十一篇 礼式と名節
第五章 主要名節と記念日
第二節 主要記念日 6-18
6 お母様になるためには、三代が一人で暮らさなければなりません。お母様は、幼いときも誰の援助も受けずに独り育った一人娘でした。そのような一人娘にしたのは、サタンの血統を残さないためです。そして、お母様の母親も一人娘であり、その母親も一人娘です。三代が巻き込まれていくのです。それで、お母様は三大受難を受けました。祖母と母親は信仰に夢中になって歩き回ったので、おむつをきちんと替えてあげ、御飯をしっかり食べさせてくれたでしょうか。人間世界の情を知らず、天上の道理を受け継がせるために、一片丹心、身と骨が溶けるのも意に介さず、神様のみ前に絶対服従し、絶対従順する道を歩んだのです。
7 み旨がなければ、先生は、お母様と出会うことはできません。み旨がそのようになっているので、出会ったのです。お母様になる人は、二十代を超えてはいけません。本来は十八歳を超えてはいけないのです。十八歳を一日でも過ぎてはいけません。エバが十六歳で堕落したので、三年を経て、十九歳まで連結されるのです。
8 お母様自身が、愛を中心として羊のように従順でなければなりません。すべての面で絶対従順できる条件を探さなければなりません。そうして、全面的に夫のために犠牲にならなければなりません。夫を愛するとき、絶対的でなければなりません。「私の父にも劣る。私のお兄さんにも劣る」という比較の基準を置いてはいけません。なぜでしょうか。
エデンの園で、エバは男性というものを目にすることができませんでした。男性に対して他の考えをもつ余地がなかったのです。
9 お母様を選ぶときには、すべての条件が合わなければなりません。前後に合わなければならず、左右に合わなければならず、上下に合わなければなりません。第一の条件とは何かといえば、どのような血統をもって生まれたかということです。サタン世界において讒訴を受ける血統の因縁をもって生まれたのか、それともそれを越える血統の内容をもって生まれたのかが重要です。
10 お母様を見れば、非常に端正です。お母様が慎ましくじっとしているときは、誰にも負けない、尊敬する内的な性稟をもっているのです。そのため、西洋人も、「東洋の女性美があのようなものであるなら、自分も東洋の女性と結婚したい」と言えるように教育させるのです。西洋の男性の中には、「東洋の女性はお母様のような人だろうから、結婚の対象を東洋の女性に決めた」という人がたくさんいるのです。そのような面で、東洋の女性像を世界の食口に教えてあげることに、偉大な功績を積んだお母様であると考えられます。そのような意味で、お母様としての資格は十分だというのです。
11 解放直後の七年と七年で、満十四年を過ごしてから聖婚式をしたのです。蘇生旧約時代、長成新約時代の基準を越えて、アダムとエバが長成期完成級で結婚するようになっていたので、蘇生、長成の各七年期間を越えていき、連結できる位置に進まなければなりません。完成期蘇生級を国家基準を越えなければならないのです。
世界基督教統一神霊協会創立日
12 統一教会は、歴史的な関係に従って、「基督教」という名称をつけました。神様は、統一教会の神様としてのみ存在することを願わず、キリスト教の神様としてのみ存在することも願いません。統一教会は、統一教会だけのためにできたのではなく、キリスト教もキリスト教だけのためにあるのではありません。この二つは共同目的を中心として縁と関係を結び、より大きな世界的一念を中心として進んでいかなければなりません。
13 世界基督教統一神霊協会は、神霊によって統一するのですが、父子関係の神霊によって統一するというのです。愛を中心とした霊的世界と人間世界を調和させるものを神霊と言います。神霊は、目の見えない人の目が開くことが問題ではありません。塞がっていた耳が開くことが問題ではありません。神様は、それを必要としません。聖書にも、「神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」(ヨハネ四・二四)とありますが、それは何の真理でしょうか。愛の真理です。その愛の最高の真理とは何でしょうか。父と息子、娘のことを言うのです。神様は、お金や権力、知識が必要なのではありません。愛が必要なのです。
14 統一は、二つが一つになることです。「統」の字は、従える「統」の字です。主体性があるのです。連合ではありません。統一です。統一はどこまでも主体性をもっているのです。統一教会は、連合教会ではありません。統一教会です。主体性をもっているということです。その主体の根源はどこでしょうか。永遠に残るべき絶対的な神の心情の起源から出発したのです。
15 先生は、教派をつくろうとはしませんでした。名前を「世界基督教統一神霊協会」と言うのですが、教派をつくろうとはしなかったのです。教派を超越した超教派的な面において運動をしようとしたのですが、できなかったというのです。それで、仕方なく統一教会をつくったのです。
16 受難と試練の中で統一教会が創立されたというのは、ある意味では、天の全体的なみ旨を中心として見るとき、悲しいことですが、私たちが歴史的伝統を回想するとき、そのように困難な環境で創立されたことが、より印象的なのです。統一教会は、皆が歓迎する立場で創立されたのではなく、寂しい立場で何人かが集まり、涙とともにこの日を宣布したのです。このように悲しい事情がありましたが、それがかえって歴史上において追憶の中心になりました。往々にして人々は良いものを願いますが、良いものだけが良いのではありません。良いものは日常的に過ぎ去っていくことがありますが、その良いものを探し出すために困難を克服した歴史は、いつでも良いものを迎えることのできる、新しい日の約束を刺激する力の母体として残されるというのです。
17 統一教会とは、どのような教団でしょうか。反対していたキリスト教の代わりに、その前に新しいアベル的宗教の形態として登場したのが統一教会です。言い換えれば、反対するキリスト教によってみ旨を成し遂げられないため、そのキリスト教を身代わりして復帰してきたのが統一教会です。キリスト教がカインであれば、統一教会はアベルの立場です。私たちがアベル教団だとすれば、何から復帰してアベルにしないといけないのでしょうか。キリスト教から復帰しなければなりません。これは、カインを復帰する原則と同じです。
18 世界基督教統一神霊協会を創設することになった動機は、人意、すなわち人による志よりも、神意、すなわち神様によるみ旨があって出発したのです。この社会や歴史は、人意だけで構成されていくのではありません。ここには、必ず神意を中心とする大いなるみ旨を中心として、一つの目的を指向してきているのです。そのような意味で、人の志だけで協会が創立されては、歴史の流れや、これから来たる新しい世界に貢献できないということを考え、神意に立脚した新しい宗教を創設したのです。人意と神意が合わさることのできる一つの組織体が宗教であると考えたので、宗教は必ず、神意を中心として人類全体が願う人意的なすべてのものを結束しなければならないと考えたのです。