天聖経: 第359話
日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー
第十一篇 礼式と名節
第五章 主要名節と記念日
第一節 主要名節 20-28
20 先生が母親のおなかの中にいるとき、母は松の木の内皮をむいて食べながら過ごしたという話も聞きました。神様は、先生を愛しているように見えるのですが、生まれるときは、なぜそのように歴史的に追いに追われ、一番の患難の谷間に立てて責めたてたのでしょうか。先生が生まれるときは、私の家庭、一族が困難に遭いました。先生は、蕩減法を知っているので、このようなことをすべて理解するのであって、そうでなければ、「それはすべて間違いだ」と言うでしょう。私の家門の一家、従兄弟から七親等まで、すべて蕩減を受けるのです。私の家は、先生一人が生まれることによって廃虚のようになりました。先生が十五歳になる前まで、そのような患難が家庭から離れませんでした。
21 地政学的に見るとき、韓国が強大国の侵略を受けながら、どれほど多くの血を流したか分かりません。そのような恨多き歴史過程において、どれほど多くの若い男性たちが軍隊に引かれていき、また若い女性たちが引かれていったでしょうか。願わない受難の過程において、家庭と個人が犠牲になり、男性と女性がそのように犠牲になり、国土が蹂躙され、国権が踏みにじられました。どれほど多くの侮辱を受けたか分かりません。
先生の一家を中心として起こった内的な出来事を見るとき、それが偶然にそのようになったのではありません。必然です。夢でもなく、どうすることもできない必然的な結果です。そのため、アベルを中心とした蕩減歴史が、ある一つの家門を中心として、前後左右にすべて清算しなければならない摂理史的運命があるので、その運命の場に呼び出されたのが、先生の家庭であることは否定できません。先生は、そのような背景をもって生まれなければならないのです。
真の父母の日
22 私たちの先祖、アダムとエバが堕落していなければ、私たちは、既に「父母の日」を迎えていたでしょう。しかし、アダムとエバが堕落したので、「父母の日」を迎えるためには、まずこの地上に真の父母が来なければなりません。それでこそ「父母の日」を迎えられるのであり、その日を基準として真の父母によって子女が生まれたあとに「子女の日」を迎えられるのです。そのようになれば、万物を主管できる日も迎えることができます。このような日を、神様は、堕落していない人間先祖に約束されました。
しかし、人間先祖が堕落することにより、神様の創造理想だった「父母の日」、「子女の日」、そして「万物の日」を迎えることができなくなったのです。したがって神様も、天地創造の目的を完成した神様として喜ぶことのできる日と、誇ることのできる日を迎えられませんでした。もちろん、アダムとエバが神様を失った状態に落ちたのが堕落ですが、アダムとエバの堕落によって、神様もまた、「父母の日」と「子女の日」と「万物の日」を失ってしまったのです。それにより、神様は、願っていたすべての日を失ってしまわれたのです。
23 今日、人類は、堕落の血統をもって生まれたので、永遠に不幸な立場で苦しまなければならない運命に置かれています。しかし、人間はこの地で神様に侍り、幸福と栄光を享受できるという希望をもっています。それでは、このような希望の中で最高の希望は何でしょうか。それは、正に「父母の日」を迎えることです。「父母の日」を通じなければ、天の国に行くことができず、また神様を訪ねていくこともできません。
キリスト教は、小羊の婚宴をする日を願っていますが、彼らが願っている日が、正に「父母の日」なのです。「父母の日」は全人類のためにあるのです。
24 世界には、神様を身代わりし、万民を解放させ、万民を幸福にしてあげられる神様の息子、娘が必要です。イエス様がこの地に来られた目的もここにあります。天地が願う日が、正に「父母の日」です。今日、全世界にキリスト教が広まっていますが、彼らが願う日は小羊の婚宴を行う日です。その日が「父母の日」です。既に十分成長したとしても、再び生まれて父母を迎えなければなりません。今までは、「父母の日」を迎えられなかったために、いくらよく信じても神様のみ前に養子としてしか立つことができませんでした。イエス様が再び来られるときは、父として、父の使命をもって来られるというのです。
25 世界に広がっている数多くの人種と民族は、多くの名節を迎えていますが、いまだ「父母の日」を迎えることができていません。ところが、一九六〇年を中心として、韓国で「父母の日」が設定されました。この日は、韓国が解放されたその日よりも、世界が喜べるいかなる日よりも、もっと喜ばしい日です。そのような「父母の日」が、追われ、迫害を受けている統一教会の群れによって立てられたのです。この日なくしては、天宙の恨を解けません。この日が来なければ、神様のみ旨を支えることができません。この日が立てられなければ、サタン世界であるこの地上に神様の勝利の足場を築くことができません。神様が勝利の日を決定する日もこの日であり、聖徒たちが解放される日も、正にこの日です。天宙間において、願いと理念が一つになるのもこの日であり、天地が開闢する日もこの日なのです。
26 私たちは、「父母の日」を迎える中で喜びを感じることができ、喜びを感じる場において、再び生まれることができる基準をもたなければなりません。また「父母の日」は、子女が生まれる日を天地の前に公布する日でもあります。神様は、子女としてアダムとエバをお造りになり、万物を主管できるように祝福されました。皆さんもこのような心情的関係によって復帰の路程に従っているので、父母に対することのできる位置に立ったのちに、万物を主管できる祝福を受ける子女の立場に立たなければなりません。このように、「父母の日」は本当に意義深い日です。「父母の日」が立てられることによって「子女の日」が立ち、「子女の日」が立つことによって「万物の日」が立つのです。「父母の日」を基準にして、三つの大きな日が出てくるのです。
27 「父母の日」の理念は、本来、神様の創造理念の中でも中心理念でした。神様が万物を創造されたのち、その万物を主管する人間を創造され、人間に万物を主管せよと祝福された目的も、正に真の父母を立てるためでした。本来は、アダムとエバが神様を中心として一体になり、真の父母になるべきでした。そうすれば「父母の日」が立てられるのです。そのようになれば、全宇宙が父母の名とともに頒栄を捧げるようになります。このように「父母の日」は、全宇宙が父母の名とともに頒栄を捧げる喜びの日なのです。
28 「父母の日」は、決して統一教会のためだけの日ではありません。韓国のための「父母の日」でも満足できません。世界のための「父母の日」でも、その意味を果たせません。天上天下、全天宙が和合できる一日として、神様と共に全宇宙が喜べる日にならなければなりません。私たちには、個人的な「父母の日」はあり得ません。
私たちは、個人的な「父母の日」を氏族的な「父母の日」として、氏族的な「父母の日」を民族的な「父母の日」として、民族的な「父母の日」を国家的な「父母の日」として、国家的な「父母の日」を世界的な「父母の日」として、世界的な「父母の日」を天宙的な「父母の日」として立てなければなりません。