天聖経: 第352話
日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー
第十一篇 礼式と名節
第四章 祝福家庭の生活儀礼
第一節 祝福家庭の生活法度 33-34
第二節 家庭の愛の法度と夫婦の礼節 1-9
33 一心、一体、一念、一性の完成は、体と心が完全に一つにならなければなりません。体と心が完全に一つになるのは、いつでしょうか。堕落した人間においては、永遠に体と心が一つになれないのですが、結婚するとき、初めて核が形成されるのです。一心、一体、一念、一核、その上に何が来るのでしょうか。純潔、純血、純性、純愛が一つになるのです。そうして、和合しなければなりません。一和にならなければなりません。こうしてもああしても、それは永遠に一つです。
34 一心、神様の心、心の根本を中心として、定着しなければなりません。宇宙完成をするとき、定着しなければならないのではないでしょうか。その心の中で一心というのは、統一した心、平和統一した心を意味するのです。それで一心です。ここに一体とならなければなりません。その次に、一念にならなければなりません。一体になって、一つの考えにならなければなりません。その次に、純潔を中心とした性にならなければなりません。
このようにして、男性と女性が一心、一体、一念、一核を中心として性の関係を結ぶことにより、男性と女性が初めて一つになるのです。核が一つになるのです。プラスとマイナスを中心とした球形を見れば、上弦、下弦、右弦、左弦、前弦、後弦があるのと同じように、核にもそれがなければなりません。異なる男性の心と女性の心が一つになって、神様のみ前に対象的な体と心の位置で、夫婦の愛の根本とは何かを知り、神様をお迎えして一つになるのです。そのような家庭を中心として、全体に男性と女性の愛を中心とする一体圏が形成されるので、一和、すなわち和合して統一されるのです。永遠に変わらない統一になり、そうして安着するのです。
第二節 家庭の愛の法度と夫婦の礼節
1 父母に息子、娘が二人しかいなければ、どのようになりますか。息子から見れば、彼には姉が必要であり、兄が必要であり、弟と妹が必要です。また、娘には兄が必要であり、姉が必要です。また弟と妹が必要です。兄がいなければならず、姉がいなければならず、弟と妹がいなければなりません。これがすべて備わっていなければ、不幸なのです。妹、弟、姉、兄、すべて備わって完全に一つになる家庭は、神様が保護されます。これが氏族と民族と国家の起源になるからです。兄と姉は東西を意味し、弟と妹は南北を意味するので、それが完成すれば立体になるのです。これが愛の法度です。神様の愛の法度において根源となる創造原理の概念がここから出てきます。このような愛の法度が定着するとき、平和の起源が形成されるのです。
家庭の愛の法度
2 「私」が父母に会いたいと思うのと同じように、父母は、自分の兄弟を父母よりもっと愛してくれることを願うのです。「父母に孝行をする」と言いながら兄弟同士でけんかをすれば、その孝行は成立しません。父母の心は、自分のために尽くしてくれようとする思いよりも、兄弟同士がもっとために生きることを願うのです。父母を世話することができなくても、「お母さん、少し待ってください。私は弟と妹を愛してきます」と言えば、「この子は、見どころのある子だ」と思うのです。
兄弟を父母以上に愛そうという人は、天国で永遠に暮らせる人です。兄弟を父母のように愛せない人は、ここから外れるのです。その道理の根本を悟ってみれば簡単です。それが分からずに、今までできなかったのです。私たち食口同士で一つになれるか、なれないかということが問題です。父母の前に孝行できない立場に立ったならば、父母のために自分が精誠を込めたものを、父母の代わりに自分の食口のために与えなさいというのです。そのようにすれば、父母に孝行した以上のものとして天が受け入れます。そのような人は必ず祝福を受けるのです。
3 天国に行く道は、兄弟を神様のように愛するところから開かれます。皆さんは、先生についてこようとするのですが、その心で兄弟と一緒に行こうと努力してみなさいというのです。天国に最も高く、早く、正しく導いてくれるのは、神様でもなく、先生でもなく、兄弟です。父母と夫婦の愛を凌駕する愛をもって努力する人は、最高の愛の主体者として相対を主管できるのです。
4 兄弟は、同じ愛の同参者です。父母の愛の同参者です。ですから、互いに争うことができません。自分の右手を上げるときは父の手、左手を上げるときは母の手、右足を上げるときは父の足、左足を上げるときは母の足になるので、右手と左手が、右足と左足が争うことはできないのです。既に愛を中心として、そのようになっているのです。
5 兄弟は、多ければ多いほど良いのです。兄弟がいくら多くても、御飯が茶碗一杯分しかなければ、兄弟で分けて食べなければなりません。御飯が茶碗一杯しかないからといって、争ってはいけません。兄弟が多くて大変な中で暮らしていても、「私は御飯を食べなくても、お姉さんにあげたい。弟と妹にあげたい」という愛の心をもてば、いくらでも良いというのです。良い服は自分が着て、悪い服は弟と妹にあげますか。サタン世界と反対に考えなければなりません。統一教会の祝福を受けた家庭の子女たちが考えるのは、サタン世界とは違わなければならないのです。
6 皆さんが母の腹中から出てくるとき、どれほど大変だったか覚えていますか。神様は、赤ん坊を生むとき、なぜこのように生むようにしたのでしょうか。話をするかのように簡単に、おいしい食べ物を食べるかのように簡単に、香水の香りが漂うかのように簡単に、ただ喜んで口を開け、「ははは!」と赤ん坊を生めるようにすれば、どれほど良かったでしょうか。なぜそのようにせず、汗を流しながら、死ぬか生きるかという境地で生むようにしたのでしょうか。光り輝く愛と出会うためにそのようにしたのです。
7 父母は、子女のためにいるものです。もし「子女は父母のためにいるものだ」と言うなら、その人は父母ではありません。今後、統一教会の原理を中心として倫理観が形成されるようになります。父母は、どうあるべきですか。子女を生んだ父母は、子女のために苦労しなければなりません。これが倫理の第一条です。なぜそのようにすべきなのか、説明は必要ありません。うれしいからだというのです。うれしいからその子女のために生きようとする父母の立場は、幸福な立場です。
8 皆さん自身は、父母のものであり、息子、娘のものです。そのようになれば、父母は子女のものであると同時に、神様のものです。ですから、皆さん自体は、まず神様のものになり、子女のものになったあとに、自分のものにならなければなりません。そのようになるとき、初めて完成するのです。そのため、父母を敬うその法度が地上に残っており、人間生活に残っているのです。ここから、「父母を敬い、子女を愛しなさい」という言葉が出てきたのです。父母がいなければ孤児と言います。父母の愛を受け、子女を愛してみてください。それでこそ、私という人間が四方を、上も下も見分けることができるのです。
9 父親は、子女と向き合うとき、友達の中の友達にならなければなりません。そうすれば、自分の友達と遊んでいても、父親が現れれば、友達を捨てて父親に向かって走っていくのです。そして、先生の中の先生にならなければなりません。「私のお父さんは大統領よりもすごい。一番だ。神様の次にすごいのが私のお父さんだ」と言わなければなりません。「友達と替えることができないお父さんだ。どんな先生とも替えることができないお父さんだ」と言わなければならないというのです。