天聖経: 第350話

日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー

第十一篇 礼式と名節

第四章 祝福家庭の生活儀礼

第一節 祝福家庭の生活法度 11-20

11 私たちは、個人中心ではなく、家庭中心です。だからと言って、家庭だけを中心としてすべてのものを清算するのではなく、すべて連結しなければなりません。ですから、昔、独りで修道の生活をしていたときの努力ではいけません。「昔、努力したときの何倍以上も努力しよう」という決意と覚悟を加えなければなりません。

悪に対して挑戦していく生活は、ややもすると疲れて後退しやすいのです。家庭をもったときは、独りのときの何倍も努力しなければなりません。家庭は中心をつかむ場です。私たちは、現実を避けることはできません。前後、左右、上下の関係を家庭で築かなければならないのです。ですから、過去の信仰形態ではいけません。過去の一方的な信仰態度でも駄目なのです。祝福は、死ぬか生きるかの決定点です。

 

12 個人の信仰は、いい指導者に出会いさえすればいいのです。しかし、家庭では、互いに指導者とならなければなりません。家庭は、誰のため、何のために生きるかが問題です。独りのときは、祈ればすべてのことがうまくいきました。しかし、家庭では、反対する人がいれば、その十字架を背負って本然の基準まで貫いていかなければなりません。個人は客車と同じであり、家庭は機関車と同じです。個人が失敗したものを復帰するのは簡単です。しかし、家庭的に失敗すれば破綻なのです。

 

13 父母の愛を受けるには、何をすべきでしょうか。父母様が愛するすべてのものを愛さなければなりません。そのようにしてこそ、愛を受けるのです。自分の父母に愛されることを願うならば、父母の愛を受けようとする息子は、父母がもっているすべてのものを愛したのちに、愛を受けなければなりません。これをしないで愛を受けようとしてはいけません。父母が貴く思うものを自分が勝手に引き継いでは、愛を受けられないというのです。

 

14 神様の立場と父母の立場は、まず先に考えてあげる立場です。神様は、「私」よりも先に考えてくださるのです。父母も「私」より先に考えてくださるのです。だから良いというのです。それで主体なのです。二人で暮らすというとき、「あの食口がすべきことを、私がしてあげなければならない」と言うべきです。神様がそのような方です。そのような人が中心です。ために尽くしてあげる人が中心になるのです。

 

15 よりために生きなければなりません。よりために生きる人が責任者になります。十人の中で誰が中心になるかというと、その十人のために愛し、ために生きる人です。その人には、十人がみな、訪ねていくのです。今までは、ために生きるのは悪いことだと思ってきました。しかし、主人、中心者になるというのです。天理がそうです。ために生きるのは損なことだと考えてきましたが、これが中心になるためのものであり、責任者になるためのものであり、すべてのものを相続するためのものなのです。ですから、ために生きなさいというのです。悪いことではありません。損することではありません。商いの中でも、このような商いはないのです。

 

16 時代が変化することを知り、言葉や生活や態度が変わらなければなりません。霊界でそれを願っています。向こうの国は既に統一され、一つの目標に向かって走っているのに、地上はざわざわとして、目標も定められないまま混乱の中にあります。ですから、精誠をよく尽くしてこそ位置が定まるのであって、そのようにしなければ落ちていくのです。今の時は、そのような時です。

ですから、いい加減に生きられません。先生を中心として、どこであっても思いのままについて回り、何かの大会をしても、自分の大会のようにするのですが、それはいけません。一切、そのような行動をしてはいけません。自分の家庭を中心として、天のみ旨を家庭から立てる活動をしなければなりません。そのためには、父と母から変わらなければなりません。

これから伝統を立てるにおいては、まず統一教会に長くいる人が、息子、娘の前に伝統を立てなければなりません。伝統を相続させるに当たって、信じられる父母にならなければならず、信じられる兄弟、信じられる夫、妻、信じられる息子、娘にならなければなりません。家庭から整理しなければならないのです。

 

男女間の愛の礼節

17 西欧文明圏では、小学校のときから性教育をしますが、それは良くありません。それは、自然に分かるようにしなければなりません。アダムとエバに対して神様が性教育をしましたか。かえって、知らないのが良いのです。分かるような年齢になれば、それが恐ろしいことを教えてあげなければなりません。そして、どれほど貴いものかを教えてあげなければなりません。

先生の時代は、男女共学時代ではありませんでした。ところが、近頃の子女たちは、体を接触させながら踊りを踊ります。ですから、私たちは、そのような教育機関をつくらなければなりません。これは、恐ろしいものの中で最も恐ろしいものです。殺人罪よりもっと恐ろしいのです。殺人は一人を殺すことですが、これは、数千代の子孫を滅ぼすのです。何人、何百人、何千人が犠牲になるのです。今後、この問題は殺人よりもっと恐ろしい罪であることを教えなければなりません。これからは、このようなことを考えることもできないように教育しなければならないのです。

 

18 今日、青少年が父母に反対して家庭を破綻させるのは、愛の秩序を破綻させることなので悪です。それによって家庭が破壊され、社会が破壊され、国家が破壊され、人間が破壊されるので、これは明らかに悪なのです。思春期のときは、映画に出てくるスリルある場面を見れば、実践してみたいと思うのです。「それのどこが悪いのか」と言うかもしれませんが、そのような放縦が広がって環境を破綻させることが起きるので、制裁を加えなければなりません。皆さんの知性がより明るくなり、社会の体験と環境的なすべてのものを調整できるようになる、そのときには良くても、今は駄目だというのです。

 

19 皆さんは、今正に咲こうとしているつぼみが良いですか、いっぱいに咲いた花が良いですか。先生は、いっぱいに咲いた花が良いのです。咲くときは自分の思いどおりに、思い切り咲きなさいというのです。他人の力によって咲くのではなく、自分の思いのままに大きく咲きなさいというのです。それは、皆さんが自然に育ち、自然に思春期を過ぎ、自然な環境でいっぱいに咲いて、愛したい夫を迎えなければならないという意味です。咲くこともできないまましなびてはいけません。葉が落ち、時を逸してから咲く花になってはいけないというのです。男性も同じです。男性もいっぱいに咲かなければなりません。

 

20 まだ咲いてもいないつぼみなのに、手紙を書いて恋愛する愚かな若者になってはいけません。自然に大きく咲かなければなりません。神様が御覧になるとき、「やあ!純粋に、清らかに咲いたな。香りを嗅いでみると、初々しいな」と言えなければなりません。ですから、神様も希望が多いというのです。そのような神様が手つかずのものを願われるでしょうか、しなびたものを願われるでしょうか。それでは、皆さんは、手つかずのものを願いますか、しなびたものを願いますか。堕落した皆さんも手つかずのものを願うのに、神様は、それをもっと願うのではないでしょうか。そのため、純情をもっていっぱいに咲き、今日の堕落した世界において悲しみの峠に引っ掛からず、それを越えていける、価値ある皆さんにならなければなりません。

Luke Higuchi