天聖経: 第342話
日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー
第十一篇 礼式と名節
第二章 礼拝儀式
第二節 献金生活 6-11
第三節 訓読会の生活 1-6
6 十数は帰一数であり天に至る数です。人間が占有できる数は九数までです。九数は、今までは悪い数として扱われてきました。サタンが今までこれを支配したというのです。今日、サタンが支配するこの地上で、この九数を天のみ前に預けて連結させることにより、神様が私を主管できるのです。そのようにして、十数の位置を取り戻しておけるので、私が神様を信じて九数を引っ張れば、この九数圏内のすべての所有権をサタン世界から分離することができるのです。それで、十分の一献金という言葉が出てきたのです。
7 神様にはお金が必要ありません。神様と堕落した人間が関係を結ぶための条件物として、お金を必要とするのです。神様のために献金するのですか。神様は、お金が必要ありません。神様は、二十四時間いつでも、いくらでも、黄金やダイヤモンドを作ることができるのに、何のお金が必要でしょうか。皆さんを生かしてあげる条件を立てるために必要なのです。「私は神様のために献金する」と考えずに、国のために献金し、世界のために献金すると考えなければなりません。救いの目的を成し遂げてさしあげるために献金するのです。神様のために献金するのではありません。
8 一つの生命を育てるということは、決して簡単なことではありません。精誠を尽くさなければできないことです。使い残した物ではいけません。食べ残したかすのような物でもいけません。そのような物は、果敢に切り捨てなければならないのです。最初の物は、神様のみ前に捧げなければならず、手つかずの物を神様のみ前に捧げなければなりません。手つかずの物がない所には、神様が共にいません。新しい物がない所には、神様が共にいないのです。祭物も、他の人が残した物ではいけません。それは汚れてしまっているというのです。恩恵を受けた人であれば、すぐに分かります。それで、不浄な所には行かせないようにするのです。
9 精誠を捧げ、恩恵を受けていく代価として、感謝献金をするようにしなければなりません。精誠のないお金は、天が願いません。精誠を込めたお金でなければならないのであって、ポケットに入れてあったお金を、そのまま献金してはいけません。三日以上身につけて供えて聖別し、それから献金しなければなりません。自分の生命、財産をすべて入れなければなりません。先生は、もっている財産をすべて捧げました。その捧げた物を通して、世界の物質が渡ってこれるように橋を架けるのです。そうすれば永遠に滅びません。永遠に生き残るのです。
10 精誠を込めた献金や礼物と向き合うとき、その価値を知らずに向き合っては、精誠を込めた礼物に審判を受けます。王も身の振り方を誤れば、すなわち精誠を尽くした人にいい加減に向き合えば、滅びるのです。その王に従った人々も、精誠を尽くす人に反対すれば、天の逆族として追いやられます。そのため先生は、精誠を尽くす人に、いい加減に向き合わないのです。
11 記念をする祝いの日には、必ず統一旗とともに先生の写真を置き、礼物を捧げなければなりません。民族を代表し、国家を代表し、自分の家庭を代表して、記念の礼物を奉献しなければなりません。これは、先生が食べるのではなく、今後の国と自分の子孫に返してあげるためのものです。宴をしたり、良いことがあるときは、必ず精誠を込めたお返しの物を奉献しなければならないのです。それが天に侍る生活です。
第三節 訓読会の生活
1 これから、訓読会をしなければなりません。本を買って、皆さんがその体制をつくっていかなければなりません。食口がひと所に集まり、訓読会をしなければならないのです。先生は、山に行っても、訓読会の時間になれば、独りでもしています。皆さんも訓読会の時間になれば、寝ていても、起きて訓読しなければなりません。今後、原理を知らない人は、人としての扱いを受けられなくなるのです。
2 先生と関係を結んだみ言に通じるようになれば、み言に通じれば通じるほどその精誠の度数が強くなり、愛の心がそこに宿ります。ですから、み言訓読会を毎日のようにしなさいというのです。訓読会の味が、御飯を食べることよりも、愛することよりもおいしいという人は、無限に発展するでしょう。先生の生涯の一つ一つの場面を、最高に深刻な立場で集めて宣布したのです。
3 み言がどれほど貴いかをよく知る人は、先生しかいません。そのみ言がすべて、今まで埋まっていました。そのみ言を伝えたときは、生死を越えて話をしたことを知らなければなりません。そのみ言には、そのときに深刻だった天の心情圏が埋まっています。そのみ言を読み始めれば、昔、感動を受け、関係を結んだ霊人たちがすべて協助するので、相当な恩恵が宿るのです。もう一度このように目を覚まして読むことにより、昔、天が役事したその役事を今も同じようにするのですが、その背後では霊界の協助によって何十倍、何百倍、強く役事するというのです。
訓読会の起源と意味
4 子女たちも聖日の敬礼式に参加し、その時間を慕わしく思えるように、父母が手本を見せてあげなければなりません。父母がその時間を喜んで待つとき、父母が喜ぶ姿を見て、「私たちもあのように、母と父が歩む道を学ばなければならない」と言えなければなりません。そのようなものを残してあげるべきです。また、訓読会の集まりをもつことを、見せてあげなければなりません。訓読会のみ言は、どこにでもあるのではありません。統一教会にだけあり、先生から始まったのです。先生のみ言を訓読する場に行くことを喜び、御飯を食べる時間も後回しにし、お客さんが来ようとどのような人が来ようと、すべて振り払っていける伝統を立てなければなりません。それでこそ、自分の家庭がまっすぐに行くのです。息子、娘に伝統を立ててあげなければなりません。
5 み言は流れる(伝える)ものです。流れなければなりません。自分たちの前にとどまらせておけば、み言のゆえに十字架を背負います。み言が重荷となり、座り込んでしまうのです。それを流さなければなりません。従弟妹や父母、村人に流さなければなりません。流れれば流れるほどみ言が大きくなって、自分の実績が大きな川のようになり、郡であれば郡を占領します。
6 訓読会の「訓」の字は、言偏に「川」です。み言が流れるという意味です。そのため、腐らないのです。水は、一週間でも溜まっていれば腐ります。ですから、流れていかなければなりません。父が聞いたのなら息子、娘に、祖父が聞いたのなら孫に、市長が聞いたのなら市全体の市民に教えなければなりません。水は高い所から流れます。
訓読会は、み言を分け与える永遠の営みです。「読」の字は、言偏に「売」です。売るというのです。み言を千人に与えれば、その千人は損をしません。これは、永遠の営みです。お金を集めてもお金は過ぎ去っていきますが、み言は過ぎ去っていくことがありません。