天聖経: 第341話

日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー

第十一篇 礼式と名節

第二章 礼拝儀式

第一節 礼拝と祈り 36-42

第二節 献金生活 1-5

36 先生は、精誠を捧げる人に対しては、何もできません。それで、今まで教会を指導してきながら、二人いれば、その二人のうちどちらが立派かという問題を解決しなければならないとき、顔が立派であるかを見るのではなく、心がどこに向かっているかを見ました。すなわち、私的なのか、もしくは公的なのかということを見たのです。皆さんがこのような原則を中心として公的な道を歩むようになれば、絶対に滅びません。そのため、皆さんは、物を公的に管理し、人に公的に接し、天に公的に侍りなさいというのです。

 

37 朝、最初の一歩を踏み出すときも、公的な一歩なのか、私的な一歩なのか、反省しなければなりません。そして、一日の仕事を終えて床に就くとき、公的な一日を送ったのか、私的な一日を送ったのか、反省しなければなりません。もしくは一年を中心として、公的な生活をしたのか、私的な生活をしたのか、一生を中心として公的だったのか、私的だったのか、反省しなければなりません。このようなことを中心として、皆さんの生死を決する秤の竿が上がったり下がったりするのです。このような原則を皆さんが知ってこそ、公的な路程において行くべき道が決定されるのです。

 

38 一旦責任を担えば、その次は戦闘であり闘争です。相手が折れるか、私が折れるかという闘いをしなければなりません。その闘いで、皆さんは、皆さんの一代において、少なくとも反対の立場にいる三人以上を、自然屈伏させられる土台を固めなければなりません。神様には手段や方法だけでは絶対に通じません。また、み旨の前において、一生受ける立場にいてもいけません。み旨の前では、ただ与える立場に立たなければなりません。

 

39 指導者になるときは、本当に病気の人を治療する医者の立場に立たなければなりません。病気になった人の心霊状態が低下するときは、夜も昼も時間を問わず、夜を徹してその人と共に涙を流しながら、その人を治療してあげるために努力しなければなりません。それが霊的指導者です。皆さんは、生命を生かしてあげるために、何日徹夜してみましたか。生命を救うために、どれほど忙しく歩んでみましたか。そのようなことが、今後、霊界に行けば表彰の対象になり、人格的な基準になるでしょう。

 

40 食口が離れていったからといって、落胆してはいけません。本当に不思議なことに、食口が一人離れていけば、その人と性格も似て、話し方も似て、歩き方までも似ている人が入ってくるというのです。どのような面で見ても、不思議なほどに離れていったその人とあまりにも似た人でありながら、すべての面において、はるかに優れた人が入ってくるというのです。そのようなことを見るとき、精誠を尽くしたものは失わないというのです。これは、間違いなく事実です。

私たちは、誰に会うとしても、会ってそれで終わってはいけません。特に天を中心として会った人であれば、絶対にその縁を忘れてしまってはいけません。その人が教会に通っていたのに来なくなったといって、切ってしまったり、呪ったりしてはいけないというのです。その人が離れていったとしても、その人と結んだ縁だけは、捨ててはいけないのです。

 

41 皆さんが話をし、教えるすべての言葉に、神様の心情を感じなければなりません。言葉の後ろに立つのではなく、言葉の前に、神様の心情が先立たなければなりません。そのため、いつでも謙遜でなければなりません。聖日に説教をするときも、女性がお産の苦痛を感じるのと同じ立場で説教をしなければなりません。精神をそこに集中しなければなりません。説教の檀上に立つときは、妊産婦が分娩室に入っていく感覚を覚えなければならないのです。その境地に行けば、準備が必要ありません。説教の内容が問題ではなく、話すのが問題ではありません。そのような心情になっているかが問題です。

 

42 説教をする時間は、礼拝参加者が天国に入れるかどうかの分岐点になります。「今まで統一教会について気になっていたが、一度行ってみよう!」と言いながら教会に来たのに、「あの説教は何だ?」と思わせてしまえば、その一人の首を完全に切ることになるのです。公判廷に立った判事が宣告するその時間より、もっと深刻な場が説教をする場です。数十人、数百人の人が、そのような運命の場に立つという事実を知らなければなりません。責任者がその責任を疎かにして、下にいる人が自分を嫌うようになってはいけません。そのような人がいないように努力しなければなりません。それで、責任者は大変だというのです。自分の正体を人々の前に現すその場は、この上なく恐ろしく、怖い立場なのです。

第二節 献金生活

 

1 皆さんは、統一教会に入ってきて、蕩減復帰という言葉を学びました。蕩減復帰するためには、祭物的な条件が必要ですが、祭物を捧げるためには精誠を尽くさなければなりません。思いどおりにできるなら、どれほど良いでしょうか。自分の思いどおりにすれば、神様が受け取れないのです。話にもならないというのです。そのため、条件物は「私」の生命の代身です。「私」の代わりに死ぬのです。

ですから、その条件物と完全に一つにならなければならず、その条件物を完全に愛さなければなりません。それが死ぬとき、一緒に痛みを感じ、心の中で泣きながら祭祀を捧げなければなりません。アブラハムが子女を祭物として捧げたのと同じように、心情的に切っても切れない関係を備えた立場で捧げなければならないのです。このような立場で祭物を捧げるべきです。そのため、自分にとって一番貴いものを祭物として捧げなければなりません。物質を捧げるときは、皆さんが使い残した物を捧げれば罰を受けます。そのような物は、かえって捧げないほうがよいのです。

 

2 十分の一献金の内容を見れば、そこには本当に恐ろしい内容があります。十分の一献金を捧げなければならないという聖句もあります。十のうち、一を神様に捧げなさいというのです。「なぜ十分の一献金をするのか」と言う人もいるかもしれませんが、十分の一献金は、一だけ捧げたということを、十まで捧げたという認定を受けるものです。

もし皆さんが、皆さんの父母の誕生祝いや還暦祝い、あるいは王の誕生日を迎えて祝賀してさしあげるために、牛も屠り、豚も屠り、あるものないものすべて作って捧げた場合、その方たちがそれをすべて食べるでしょうか。食べません。受け取ることはすべて受け取りますが、すべてを食べることはできず、ほんの少ししか食べられません。このように少ししか食べなくても、すべて食べたという条件が立てられるのです。

 

3 十分の一献金は、「私」が所有している物の中から十分の一を神様に捧げることにより、全体を捧げるという意味があります。父に全体を捧げるのではなく、その中から精誠を尽くして十分の一を捧げるというのは、そのような意味で価値があるのです。そのように十分の一を捧げることにより、残りの十分の九も聖なる物として取り扱われるようになります。このように十分の一献金を捧げながら暮らす人は、絶対に滅びません。日がたてばたつほど、その人の「天の倉庫」があふれるようになっているのです。

 

4 神様のみ前に精誠を捧げるとしても、手つかずの物をもって精誠を捧げなければなりません。そのようにしてこそ神様と関係を結べるのであって、使い残した物で精誠を捧げてはいけません。十分の一献金は、一番精誠を込めた手つかずの物でなければなりません。それが祭物です。祭物を捧げるときは、手つかずの物を捧げなければなりません。もし、息子を祭物として捧げるとすれば、一番良い息子を捧げなければならないのです。祭物は「私」の代身だからです。

 

5 精誠を尽くして十分の一献金をすれば、絶対に飢え死にしません。その子孫が、物質に関して窮乏に遭わないのが原則です。十分の一献金を捧げるために精誠を尽くさなければなりません。それが信仰の本質です。適当にするのは通じません。祭物は、自分の生命の代わりに捧げるのです。ですから、最も貴いものを捧げなければなりません。地上人にとって一番貴いものは生命です。ですから、「私」の生命を捧げるのです。これが、蕩減復帰の祭物を通して罪を洗い清めることなのです。

Luke Higuchi