天聖経: 第236話

日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー

第八篇 信仰生活と修練

第二章 心と体の修練

第三節 信仰の修練 24-26

第四節 心の修練 1-11

24 共鳴圏は、二人が一つになった境地です。父母も二人であり、夫婦も二人であり、兄弟も二人であり、子女もそうです。すべて二人です。カップルになるので、関係という話になります。「兄弟関係」というものも、二人を前提に語る言葉です。独りでは「関係」という言葉は使えません。「政治関係」も国と民であり、「主体と対象の関係」もやはり二人を前提に使う言葉であって、独りでは関係を結べないのです。

 

25 人間に体恤させ、人間と父子の関係を結ぶために苦労していらっしゃる父であることを、心や生活で感じなければなりません。私たちの最後の希望として残されているもの、すなわち神様の恩賜の中で私たちが立てられるのも、何を基準として立てられるのでしょうか。それは、創造の理念である神様と人間の父子関係を回復するために、地上でどの程度実践したかということにかかっています。私たちの生活圏でどの程度実践したかによって、自分たちの価値を見いだすことができるのです。

 26 鳥や、海にいる魚のような万物、万有の存在にも、歌と、踊りと、会話できる言葉があります。言葉が少し発展すれば歌になり、歩き方が発展すれば踊りになるのです。このような表現で和合し、会話できる関係というものは、愛を中心として成り立っていることを知らなければなりません。愛の時間を分かち合い、愛の時間を互いに高揚させるための行動を、万有の存在が競争しているのです。人間は万有の主人です。ですから、人間がこの歌の話と、和合の話を一日に十倍、百倍加担させて、さえずり、喜べる世の中になれば、その世の中は、神様が酔いしれて暮らせる環境となる世の中なのです。

第四節 心の修練

 

1 心は永遠を伴い、体は一生を伴います。心は生涯を調整して現れ、体は生活を調整して現れます。生活と生涯は異なります。生涯とは一生について語ることであり、生活とは一日について語ることです。このように、私たちの心と体は、それ自体が異なります。人間は、心が生涯を主管し、体が生活を主管するようになっています。ですから、一日一日の生活で食べなければ、体は死ぬようになります。しかし、心は食べるには食べますが、生涯の観点から外れる立場で食べてはいけないというのです。このような意味から見るとき、心が望む観念がより大きいというのです。

 

心は父母の中の父母

2 私たちがほかの人と和合できない心をもっているとすれば、私たちは、その心を動かして、すべての人に一〇〇パーセント合わせることができる心の修練をしなければなりません。そうでなければ、サタンは終わりの日に皆さんを審判台の上に立てておき、「誰それよ、お前はこのような不備な条件があるではないか」と言って、そのようにできない点を掲げて讒訴するのです。

 

3 心は、宇宙の神様を身代わりしているので、父母の中の父母です。師の中の師であり、主人の中の主人です。ですから、純潔さをもっている「私」の心は、世の中の母よりもっと近い母であり、父母です。世の中のどんなに立派な先生よりも、私に一番近い先生です。また、世の中のどんな主人よりも、自分の僕たちを正しく導いてくれる主人の立場に立っているのが心なのです。

 

4 心と体は異なります。心はどこからもらいましたか。神様からもらいました。心は神様から来るのです。皆さんの心は天、体は父母から来ました。体は地から来たので、地から出るものを食べるのです。皆さんは、地の世話になっているのです。この地は物質です。人は、男性でなければ女性です。神様が創造されたアダムとエバの延長が正に「私」です。人といえば、そこには既に実体があるのです。人の中に何種類のものが入っていますか。地が入っていて、人が入っていて、神様が入っています。昔から「天、地、人」という言葉があります。心は天であり、体は地であり、人は人なのです。

 

5 「私」一人には、神様が入っていて、地が入っていて、人が入っています。心が主体となり、体は対象になります。心は、体の中心になるので、意志がなければならず、観念がなければならず、主張がなければなりません。これが一つに一致した人を人格者といいます。心の命令どおりに体が動く良心的な人を、人格者というのです。自分の一身を思いどおりにできる人が人格者です。ですから、心が中心です。心は神様の代身であり、体は人の代身です。神様は、人の心を治め、人の心は人の体を治め、人の体は万物を治めるのです。

 

6 人間には心と体があります。父母からもらった体、地から体の要素になる物質を供給された体をもっています。しかし、心が問題になっています。神様は、その心と体を不変の心情の基台の上に立てたいと思われるのです。そのようにすることが、神様が人間を創造された目的であり、堕落した人間に対して摂理される目的です。いくら心が喜び平安だとしても、その心は心情の家に入って休むことができずにいるだけでなく、体もやはりそうだというのです。

 

7 今まで人間は、何を求めて苦労してきましたか。人倫の心の代わりとなる天倫の心情を求めて、その心情と私たちの心が一つになるようにと、今まで骨を折ってきました。一つになったその心は、絶対的な心と関係を結んだので、その心は誰かが切り取ろうとしても切り取ることはできません。ですから、このようにどんな理念と、どんな主義主張をもってしても、決して侵すことはできない心を、私たちは、今まで求めているのです。ですから、もしこれを探し出せないとすれば、決して悲しみと悲哀を免れることはできません。

 

心の指向性

8 心は、自然の道理に符合します。善に向かって無限に動こうとします。それは、羅針盤が南と北を示すのと同じです。自然の道理が、方向を失って善を避けていくことはありません。そのような現象はないのです。人間の心もやはり、ある目的に向かって動こうとします。生命に向かって動く心、心情を通して動く心、真理を分別する心、全体と和合したいと思う心、全体のある理念に和合して生きたいと思う心、この心が、天が善の方向を指示できる基盤なのです。

 

9 私たちには心があります。その心は、より大きな理念に向かって、寝ても覚めても時間と空間を越えて、「私」をある方向に押し出そうとしています。しかし、このような動きが連続する歴史とともに動いていこうとする事実を感じながらも、そのような面をもっている自らを解明できずにいます。

皆さんは、自分を分かってほしい、自分を信じてほしいと言いたいでしょう。そして、私が考え、私が主張するすべてのことが、そのある動きと関係を結ぶことを願いながら今まで生きてきたという事実も、否定できないでしょう。それでは、私を信じ、私を分かってほしいと求めるとき、自らを確定して、天倫の大きな目的と関係を結んだ立場に自らを立ててから、そのような要求をしたかというと、そうではありません。

このように見るとき、私の価値は、どこで決定されるのでしょうか。万象を動かせる主体、あるいは主動体となることを心で望み、生活で、行動で動いて成し遂げようとする自らを、もう一度分析して、冷静に批判する過程を経るまでは、大きな目的を成し遂げることはできません。天は天倫の目的を成し遂げようとされますが、自らがそのようにすることができなければ、天のみ前に堂々と立つことはできません。天倫の前に頭を上げることはできないというのです。

 

10 天は、生命の主体であり、理念の主体であり、愛の主体であって、私たちの心と体の主体です。ですから、私が天と接触する瞬間には、私の体は自分の体ではありません。私の心は自分の心でなく、私の心情は自分の心情ではないのです。私の理念は自分の理念ではありません。その時こそ、神様を身代わりした体になるので、万物の主人公になるのです。その時に、私の心が神様と同じ心になるので、私の心は神様を身代わりすることができるのです。その時に初めて私の生命は、万宇宙を動かせる生命の権限をもつのです。私の心情は、神様の心情を身代わりして現れることができ、私の理念であり、父の理念だというのです。それでこそ、私たちの心的な願いのすべての目的が終結するのです。

 

11 心は、刺激的で苦痛な現実の環境を避け、理想に向かって進むことを促しています。どんな指導者でも、この現実と闘わなければなりません。しかし、理想を指向し、待ち望み、催促するこの心について知っている人は、一人もいません。その心の命令に従って行動しなければなりません。

歴代の数多くの預言者たちも、その心に抵抗しませんでした。今後、どんな人でも同じです。その心に応じるべきであって、誰かがどのようにするからといって、できるのではありません。抵抗できない、自ら応じるべき運命に置かれている自分たちであることを心から認めるとすれば、今日、この世界は、理想世界ではなく、私たちが夢見て希望する理想世界と関係を結んでいないというのです。それは堕落したからなのです。

Luke Higuchi