天聖経: 第237話
日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー
第八篇 信仰生活と修練
第二章 心と体の修練
第四節 心の修練 12-24
12 神様が私たちのために受けたあらゆることは、私たちの心と体に反映されます。体が行動する一つ一つに、心は善の目標を指向するように環境を管理し、休む暇もなく努力します。また、体がその目的と方向を失い、死亡のどん底に陥るようになった時、心は体に向かって、善のものを見つめなさいと勧告します。ですから、「私」自身から解決しなければなりません。私たちの心が天を身代わりするならば、心が望む目標と天が望む目標が一致しなければならないのです。
13 神様が私たちの心の中心ならば、その神様が望む目標と、私たちの心が望む目標とが一致しなければなりません。また、心と体が一つになるために、体はこの地の理想的な基準と一致しなければならず、心は神様が目標とする方向と一致しなければなりません。歴史的な最後の終末時代、善の理想世界は必ず訪れるものなので、「私」の体が生活において善の理念世界と接する関係をもっていなければなりません。心の基準が神様の基準と分かれるとき、苦衷が生じるようになり、体の生活基準が世界的な理念と相反するとき、また、苦衷が生じるのです。それでは、どこから是正するのでしょうか。それは相対圏ではなく、私自身にかかっています。
信仰と祈り、精誠の道
14 きょう、死を覚悟して新しい信仰の道に立ち上がった皆さんが、絶対的な信仰で神様の希望に向かっていけば、そのような信仰路程を通して神様と同じ価値を探し出すことができます。このような信仰をもって責任感をもたなければならず、このような信仰をもって実践する真の息子、娘たちにならなければなりません。そのようにならなければ、到底父の前に立てません。絶対的な父の前に真の息子、娘として、忠臣の姿として立ち得ないのです。
15 天は歴史的に何を通して人間を訪ねてくださったかというと、信仰という条件をもって訪ねてくださいました。天は人間をして、この信仰の条件を立てさせる一方、人間に対して実践を求めました。天と「私」が関係を結び、悲しみの心情を除去することのできる一つの足場を立てるためには、信仰を中心として一つの実践的な行路が生じなければなりません。そうしてこそ、歴史的な関係を立てることができるのです。
16 不都合な立場を解消するためには、自分自身に対して率直に告げなければなりません。「私は本来、このような人です」と率直に通告し、「私はこのように悪い人だが、あなたは善の人なので、私のような人に同情して、行くべき道を模索できる方案があれば、私に哀れみを施してください」と言わなければなりません。
祈る心で人と向き合えば、自由な環境が広がります。しかし、ただそのまま踏みとどまっていては、いくら自分がやっても、心では収拾がつきません。環境を収拾できないというのです。ですから、「私はこのような人間ですが、あなたと関係を結びたいのです。ですから、哀れみを施してください」と率直に告げなければなりません。それが祈りです。
祈りは、自分が行く方向が間違ったとき、正しい方向に行くよう導いてくれます。皆さんの生活を見れば、言葉一つ、行動一つ、感じ方一つによって、二転三転しています。皆さん自身が、今日、現実の中で息をしながら生きているこの瞬間に、このように秤にかけています。その秤の目盛りを合わせることにおいては、率直でなければならないのです。
17 先生の祈りは、一般の人が聞いても分かりません。百回読んでみてこそ通じます。天の神秘の声を聞いて、そこに共鳴できる心と体で体恤する境地が必要なので、自然と通じ、すべてに通じなければなりません。通じなければ、分かりません。釈迦牟尼も言いました。「天上天下唯我独尊」という言葉は、その境地で語った言葉です。境界線を越えるようになれば、必ずそのようになるのです。
18 皆さんに必要なことは、祈りと精誠です。自分が自ら復活した位置に立ったのでしょうか。復話した位置に立てなかったとすれば、切実に求める位置に立ったでしょうか。信仰をもちながら、環境に責任をもち得る自らになったでしょうか。私たちは、そのようにはなっていません。
ですから、祈りが重要です。祈りは、生死の基準を動かす能動性をもっています。そのような祈りを捧げるのは、大変なことです。「私」が見上げるほど高く、広い塔を積むとすれば、どれほど忙しいでしょうか。広くて高い塔を積もうとすれば、どれほど忙しいかというのです。それを五十年なら五十年の間に、すべて積み上げなければならないと誓ったとすれば、休む暇がないのです。
19 先生は、祈りが最も威力のあるものと信じています。不可能を可能にすることができるからです。統一教会では祈りを強調しますが、ほかの特別な方法で祈るのではありません。しかし、その内容は異なるのです。「自分自身のために祈ってはいけない」というのが先生の教えです。自らの使命のために、そして他の人のために、また自分の祈りが慰労の言葉として神様に伝えられるようにしなさい、と教えています。
20 難しい問題があるときは、祈りを捧げて解決していかなければなりません。それでは、祈りはなぜするのでしょうか。祈りとは、神様の心情的基準を中心として関係を結ぶものです。ある問題を中心として、真の意味で国を心配し、神様を心配する思いで祈りを捧げれば、神様は、必ず前後を教えてくれるようになっています。そのような役事は、いくらでもあるのです。
21 私たちは、外的に伸びていくことよりも、精神を統一して内的に深く追求していく道を模索しなければなりません。これが今日、キリスト教で言う「祈りの生活」です。皆さんが目的を立てておき、それを成就させようとする祈りよりも、神様の考えに接して、神様が語りたいと思われるみ言を体恤し、それを実践するという祈りが、より貴重なのです。ですから、祈りを捧げるために、静かな所を訪ねていくのです。
22 祈りの生活をすれば、形容できない喜びが訪れます。その境地が、創世前の神様の心の境地です。皆さんがそのような境地で、「こうだ!」という内容をもって説明できる立場に立つとすれば、その立場は、正に神様が天地万物を創造された立場だというのです。神様がみ言で被造物を創造された立場です。そのような境地でみ言を宣布しなければなりません。そうすれば、人々も必ずそのようなみ言に触れようとするのです。
23 皆さんが祈りを捧げようとすれば、一日の日課を始める前にしなければなりません。ですから、最も重要な時間が早朝です。早朝が最も重要なのです。この時間が一日の勝敗を左右する重要な時間帯です。この時に祈らなければなりません。深い祈りをするときに、自分が今まで全く感じてみたことのない分野を感じてみるためには、自分を中心とした祈りをしてはいけません。国家なら国家、世界なら世界という、大きな目的を中心として祈らなければならないのです。
24 深く根を張った祈りの生活を、たくさんしなければなりません。み旨に徹した生活をしなさいというのです。そして、神様が行かれる道と教会が行く道に、自分がどれほど呼吸を合わせて生きるかを、常に考えなければなりません。そうしようとすれば、「教会の便りが気になって死にそうだ」と言いながら、直接、訪ねていけなければ、「電話してでも知りたい」と思う気持ちがなければなりません。そのような心を前面に立てて暮らす家庭なら、神様が共にいない道理はありません。そのような根もないのに植えておけば死んでしまうので、植えないことより良くないというのです。皆さんは、このような原則を知り、生活を再整備して、そのような基盤を築き上げなければなりません。