天聖経: 第238話
日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー
第八篇 信仰生活と修練
第二章 心と体の修練
第四節 心の修練 25-38
25 祈りは、御飯を食べることより重要です。ですから、先生も自然を好み、一人で過ごす時間は心が満たされます。静かな夜が本当に好きです。生活の豊かな底辺基盤を築くことができるのは、祈り以外に道がありません。その世界、その場で愛を感じ、愛を体験できるのであって、普通のところでは難しいのです。そのような基盤の上で、自分自体が力を補強できる立場に立ってこそ、皆さんの信仰の道を皆さん自身が行けるのであって、いつもこのように先生が導いてあげていては、先生がいないときはどうするのですか。そのような背後の生活を備えるためには、祈りが必要です。夜も昼も全体のために祈ってこそ、それが生きた祈りになります。そうしてこそ、何年かごとに、自分が願う祈りが変わり、題目が変化するとともに発展するのです。ですから、今の時がどんな時なのかを知らなければなりません。そのような背後の生活を、皆さんは、祈りの生活を通して備えなければならないのです。
26 祈りは、自分の気が散るような所でするものではありません。奥深い所、天を代表する所、境界線から遠い中央の地に行って祈らなければなりません。ですから、どのように祈るのでしょうか。自分の生涯の切実で重要な問題を祈るためには、自分自身を清め、この境界線と関係のない、永遠にサタンと関係のない所で祈らなければなりません。ある人は、「神様のみ前にいくら祈ってみても、応答がなかった」と言いますが、それは応答するようにはなっていません。サタン側で祈っているのに、神様がそのような祈りを聞いてくださるでしょうか。
27 心は丸く、心門というものがあります。祈れば、いつもうまくいくわけではありません。そこにも、春夏秋冬と同様の、自分の性稟による型があります。天の方向と心の方向がぴったり合う時があります。その時を逃してはいけません。そのような時が来れば、すぐに分かるのです。祈りの生活をすれば、直ちに「何か起こる」ということが分かります。その時のために、しっかりと準備しなければなりません。その時には、百事に備え、この心の門を開いて、そこを掘り下げれば、非常に大きな力と、非常に大きな神様の愛が、どのようなものかを感じられる段階に入るのです。
28 涙を流しながら祈りをたくさんしなければならない時が、終わりの日です。また、涙だけでなく、血を注ぎながらでも祈らなければなりません。私たちは、涙の峠、十字架の峠を越えてきました。イエス様はゲッセマネの園で血のしたたりのように汗を流して、涙の祈りを捧げられました。民族を胸に抱いて涙を流されました。そのような祈りは、サタンの権限を抑えることができるのです。
29 皆さんは、自らの心を通して祈れる人にならなければなりません。皆さんが体を通して現す言葉や行動が、皆さんの心の中心と連結された時、その言葉や行動は、神様とサタン、またはどんな人の前でも恥ずかしくなく、堂々としているでしょう。神様は、正にこのような存在を求めていらっしゃるのです。
30 心で祈り、すべての面で戒律を立て、天に向かって訴える祈りは成就するようになっています。今日の祈る人たちのような祈りを数十年したところで、成就しません。真の愛の心情をもって、約束する位置で祈りを捧げなければなりません。一度祈って三十年、四十年待てる、切実な心をもたなければならないのです。三十年、四十年過ぎても忘れない、切実な思いで祈って待ってみるのです。成就するというのです。多くの祈りは必要ありません。
31 祈るときには、涙を流しながら祈り、汗を流しながら祈らなければなりません。「何かがぶつかっても、私を突き抜けるのであって、私は倒れない」、このような信念をもって祈りを捧げなければなりません。迫害があり、反対が起こっても、祈りを成就してくれるための、神様の時が近づいたことを知らなければなりません。統一教会を信じていくとともに、だんだんと大変になれば大変になるほど、時が近づいたことを知らなければなりません。
32 神様だけを主として、自らが新しいものを刺激できる生活を直接経験しなければなりません。そのような心情を感じながら活動をすれば、そこには必ず繁殖が起こります。そのようになれば、発展するのです。生きている木には新芽が出てくるのです。きのうときょうが違うというのです。そこには必ず生命力が躍動するのです。皆さんがこのような感情を失う日には、生死を懸けて祈りなさいというのです。徹夜の祈りを捧げてでも精誠を積んでいかなければなりません。
神様は、皆さんがそのような生活をしようとすれば、わざとその時間を奪っていこうとするかもしれません。そのときは、いくら努力しても、希望を見いだそうとしても見いだすことができません。努力すればするほど、一層真っ暗な窮地に陥るときもあります。ですから、付きまとうサタンまでも「私」に屈服させて、神様に仕えなければならないという気持ちをもって、より一層強く闘うことができなければならないのです。
33 私たちが行くべき道は、いずれにせよ突破していくべき道であることを考えれば考えるほど、これは私たちの力だけでは不可能です。ですから、信仰者は祈りを捧げなければなりません。個人として神様のみ旨と一致する伝統を受け継ぐ道を見いだせなくなる時は、彼がいくら努力をし、いくら忠誠を尽くしながら行くといっても、その結果は、必ず神様のみ旨に背く立場に帰結するようになります。そのような観点から、現在の「私」の位置がどれほど重要かということを知らなければなりません。
34 皆さんは、息子、娘のために祈る前に、まず天界にいる、今まで苦労した歴史的な先祖たちのために祈らなければなりません。自分が幸せに暮らすことを願う前に、この地の人類が幸せに暮らすことを願う心をもたなければなりません。「私」が踊りを踊る前に、まず嘆息圏内にいる万民を見つめて心配できなければなりません。また、うれしくても、うれしい表情をすることができず、楽しもうとしても、楽しむ行為ができなかったイエス様の事情を身代わりできる心をもたなければならないのです。
35 自分の思いを中心として祈ってみなさいというのです。いくら夜を明かして祈っても、神様とは関係がありません。一生を否定し、一生をつかみ、その一生のために行かなければなりません。例えば、家庭を否定し、国を抱きなさいというのです。より大きなもののために生きること、それが公的です。そうしてこそ、残るのです。自分の欲望を中心として、家庭を中心として行くこと、それはあとのことです。より大きな目的を中心として行かなければならないのです。
36 堕落した人間は、生まれる時、喜びの中で生まれても、逝く時は涙を流しながら逝くのです。しかし、今、かわいそうな民族のために泣く者は、民族の福を受けるのであり、かわいそうな教団のために泣く者は、教団の福を受けるのであり、かわいそうな世界のために泣く者は、世界の福を受けるでしょう。
祭物になって分立する道
37 皆さんは、まず、皆さん自体を天のみ前に、誓いの条件物として立てようとしなければなりません。イエス様も世界のために、天地のために、あるいは多くの人のために、ただ一度誓いの条件を立てましたが、それが何かといえば十字架です。イエス様は、この十字架を通して、数多くの先知先烈(先駆けて道を悟った先人、義のために命を捧げた烈士)が命を捧げて苦労してきたその基準を一時に乗り越えたのです。ですから、皆さんは、宇宙的な生の価値を実現するために、今後、ある一時、天の前や世界の前に、または個人の前に捧げられる一つの誓いの祭物になろうという観念を、はっきりともたなければなりません。
38 統一教会自体を見ると、神様のみ旨と、先生のみ旨と、皆さんのみ旨が一致しなければなりません。まず、そのようにならなければならないのです。そのあとに方向を定め、条件物を提示しなければなりません。それが一致しなければ、いくら時が熟したとしても、み旨の成就は絶対に不可能です。祖父母、父母、自分、三代が合わさって、一つの祭物と同じ立場に立たなければなりません。宇宙史的な全体を中心として見るとき、一つになる道しかないのです。