天聖経: 第239話

日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー

第八篇 信仰生活と修練

第二章 心と体の修練

第四節 心の修練 39-41

第五節 体の修練 1-9

39 祭物というものは、所有物を決定する条件物です。先生は、そのようなことをみな知っているので、このような定義を下しました。善に所有されるか、悪に所有されるかという問題は、何を中心として決定されるのでしょうか。サタンと神様が愛の心情を中心として取り引きしていることを、誰も知りませんでした。愛の道を開発し、愛の道を開拓するみ旨を立て、愛の人を求める立場に立ち、高い愛の基準を天のみ前に返すまでは、サタン世界の愛の基準の物が、天の所有物として登場することはできません。天の所有物として登場しなければ、神様が人間と共に一つになった物を所有できる道がないというのです。ですから、祭物は犠牲になり、人を身代わりして所有させるのです。

 

40 人類が遭遇するあらゆる苦痛を自分の苦痛として、人類が喜ぶあらゆることを自分の喜びとして感じられる立場に立っていらっしゃるのが神様なので、そのような神様のみ前に祭物の場に出ていく存在は、人類が喜び、神様が喜ぶことのできるその場に歩調を合わせなければなりません。人類と神様がプラスされるところに歩調を合わせてみると、自分はマイナスにならなければなりません。自分は犠牲にならなければならないのです。これが堕落によって失ったすべてを回復させられる、一つの助力部隊です。一つの祭物的条件物だというのです。

 

41 本質的愛を離れて、公的な愛を離れて、異質で自主的な覚醒をしたところから堕落が始まりました。自己を中心としたところから堕落が始まったので、自分を中心として愛を論じるその世界は、サタンの着陸基地がただそのまま延長されていくというのです。しかし、神様の愛、公的な愛を中心として自分の個人的な愛までも犠牲にさせてサタンを分立しようと、これを踏み越えるところでは、サタンの侵食基地が零になってしまうのです。

第五節 体の修練

 

1 体は地を象徴するといいました。ですから、体が安息して暮らせる福地に向かっていこうとすれば、生まれ変わる苦痛を経なければなりません。したがって、時間がたてばたつほど、だんだん不安と恐怖にとらわれるようになります。しかし、その峠を越えれば、喜びがあります。

妊娠した夫人たちは、出産の期限が近づくほど苦痛がだんだんひどくなりますが、その苦痛を越えれば、その苦痛に反する喜びがあるように、そのような峠がなければなりません。人間を愛される天は、人間を造って祝福され、「あなたの体は地を治めるのであり、あなたの心は天を治めるだろう」とおっしゃったのです。

 

2 サタンは、死亡の障壁を立てています。その下に敷かれているのが私たちの体です。神様のみ前に怨讐となったサタンは、本来、天使長です。神様が主体であれば、天使長は霊的な対象です。心は天を象徴し、体はその対象を象徴するので、サタンは人間の体を足場として活動しているのです。それで、どの宗教も体を打つのです。どこかの国家や何かの主義を征服するのではなく、体を征服することが宗教の目的です。そして、本然の良心基準に入っていこうとするのです。体が求めるあらゆる条件を無視して心の門を開き、アダムとエバが堕落せずに上がっていかなければならなかった良心基準に到達するようになるときに、初めてそこから平和が始まるのです。

 

純潔を守る

3 男性も純潔であり、女性も純潔でなければなりません。結婚前に汚すことはあり得ません。純潔、それから純血です。血統です。愛を望む人は、純潔を守らなければならず、新しい血統、純血の血統を受け継がなければなりません。それで純潔、純愛、純血です。それとともに男性と女性が結婚して、二人が一つになって東西南北に切り替わっても、上下が切り替わっても、前後左右が切り替わっても、どのようになったとしても「私は投入して忘れ、ために生きる」と言えば、千年、万年解放され、和合しないものがないがゆえに、統一世界が現れるのです。

 

4 私たちには、蕩減路程が残っています。み旨のためにはすべてのものを犠牲にし、「私」の体の純潔を守りながら、自分の血族、親族を一時に失っても、み旨に従わなければなりません。すべての一家、親戚が自分を捨てても、み旨に従わなければなりません。歴史上のノアがそうであり、アブラハムがそうであり、モーセがそうでした。そうかといって、すべて失ったのではありません。永遠なものと取り替えたのです。しかし、彼らはすべてのものを失って永遠のものを得る、ということが分かりませんでした。漠然とは分かりましたが、具体的な内容は分からなかったというのです。

 

5 いくら美男美女がやって来て皆さんを誘惑しても、そのような渦中で倒れてはいけません。ですから、従順と貞節を重要視する男性と女性になって、祝福の血統を千年、万年守り、数千代にわたって純潔を守る子孫を残さなければなりません。そのような子孫を長く残すほど、世界を指導し、天国を指導できる皇族圏の血族として残されるのです。

 

6 愛は唯一のものです。一つしかありません。唯一のものであり、絶対的なものです。そのような愛を願うので、妻に接するとき、絶対「性」をもって接しなければなりません。妻に出会うことによって、天国が私を訪ねてくるようになります。そのようになっています。男性がいくら苦労しても、愛の道を訪ねていき、愛の正道に従わなければ、天国に行くことはできません。そのような天国を「私」に紹介するために訪ねてきた方が、妻という人であり、夫という人です。その二人が仲たがいする日には、天国が壊れていきます。私たちの人生の本然の理想と夢にひびが入っていくのです。

 

7 一つの個体において、過去と未来がきょうを中心として連結されています。過去、現在、未来が関係を結んでいます。過去と現在と未来を中心にして、天地の運勢が巡っていくのです。神様が最後の審判をする時、私個人が審判の聖書になり、法典になります。ですから、審判をしても引っ掛からない絶対的な立場を築いてこそ、個人復帰が完結します。

今は、個人完成の上に家庭を完成すべき時です。家庭の歴史のすべてが審判の材料になります。ですから、審判される時に、サタンが讒訴できない純潔の家庭にならなければなりません。そうしてこそ、家庭的な復帰を完成し、民族的な基盤を完結することができます。民族的な勝利の基盤を完全に築けば、サタン世界の万民を審判でき、神様が自ら裁判長の立場に立つようになります。全世界に散らばっている民族がサタンを攻撃するようになる時、抗議を受けない絶対的な勝利の基盤を築いてこそ、民族的な復帰の道を行ったということができます。そのような人が、国家、世界、天地、全人類を贖罪者として救う主人になるのです。

 

肉身の主管によって

8 私たちの体の限界点とは、どこまででしょうか。心が体と闘うとき、一番勝ちたいのは何でしょうか。それは食欲です。食べることです。宗教生活をするためには、食欲をいかに克服するかということが問題です。御飯は食べなければなりませんが、人間は御飯のために生きてはいけません。イエス様も四十日断食祈祷をしたのち、サタンから、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」(マタイ四・三)という試練を受けました。

しかし、それに対するイエス様の答えは適格でした。「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きるものである」(マタイ四・四)と言いました。み言で生きるというのです。み言で生きるということは、真理に従って、すなわち道理のとおり、法のとおりに生きるという話です。ですから、イエス様がサタンに言ったそのみ言は、「あなたはなぜ神様の法度に背きながら生きるのか」ととがめるみ言なのです。

 

9 私たちは、二十四時間を治めなければなりません。時間を治めなければなりません。愛は、時間圏を治める立場に立たなければならないのです。その次には、行動を治めなければなりません。愛は、行動を治める以上の立場に立たなければなりません。時間を治めなさいという言葉は、睡眠を治めることです。行動を治めなさいというのは、御飯を食べることなど、あらゆる欲を治めることです。そして、情欲を治めなければなりません。愛は、その上にあります。その次には、物欲を治めなければならないのです。

Luke Higuchi