天聖経: 第235話
日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー
第八篇 信仰生活と修練
第二章 心と体の修練
第三節 信仰の修練 12-23
蕩減の峠を越えて
12 神様は、アダムとエバの堕落によって、人類を一度に滅ぼしても収まらないほど悔しくて無念なのに、その父の世話になって良い暮らしをしようと、自分が幸せになろうと考えてはいけません。神様が捨てるしかない世界を再び収拾し、第二の理想郷に向かって、本郷の故郷の山河と父母たちに侍っていた孝子、忠臣、聖人たちが歩んだその後ろ姿についていき、一歩でも間違いなくその道を踏んで、この蕩減の峠を越えなければなりません。父母様が歩んだ道は、皆さんが一緒に行かなければなりません。ついていかなければなりません。千里万里、千里遠征です。千里遠征が残っているのです。
13 蕩減の道は、必ず時間が消耗されなければなりません。また、単に時間の消耗だけでなく、自分自らの消耗が起こらなければなりません。このような信仰の道を切り開いていくべき、各自の責任が残っています。それでは、皆さんがここにどれほど時間を消耗し、どれほど自分自身を消耗したでしょうか。これが蕩減の要因を除去させるか、させられないかを左右します。
このように見てみるとき、信仰の道は、犠牲の道です。自分の生涯の犠牲です。言い換えれば、自分が幸福になるすべての要因を投入する道です。それだけでなく、自分の肉身もここに巻き込まれなければなりません。全体を中心とした犠牲と、自分自体を中心とした犠牲の代価を支払わなければならないのです。その時間が長く、自分自体の犠牲の量が多ければ多いほど、それに比例して、自分一代で清算できる蕩減の量が多くなるというのは、正当な道理です。
14 豊かに暮らす人より、苦労をたくさんする人が福を受けます。一番高い基準は、一番苦労することです。それで、先生は皆さんを苦労する場に追いやるのです。「その分野においては私でなければならない」と言うことができなければなりません。それでこそ、責任を遂行することになります。僕の中の僕になり、養子の中の養子になり、息子の中の息子になって、子孫までも公認する永遠の祝福の立場まで進んでこそ、責任を全うした皆さんになるのです。
行くときは、僕として行き、養子として行き、息子として行き、聖霊とイエス様の資格で行き、最後には父として行かなければなりません。息子、娘の立場までは自分のための蕩減分野であり、聖霊とイエス様の立場は父のための蕩減分野です。父の責任まで果たしてこそ、自らの責任を全うすることになり、過去、現在、未来に対して不足のない自らになるのです。
15 神様の息子であるイエス様は、世界と天宙を連結して親孝行をする男性になることが目的ではありません。親孝行をする家庭をつくるのです。家庭で血統を誤った基準から、個人的家庭、家庭的、氏族的、民族的、国家的、世界的家庭をつくるのです。先生独りでその十字架を背負って蕩減の峠を越え、境界線、国境線を越えてきています。先生は、世界的な基準で勝利することによって、神様とサタンの戦争までやめさせ、平和な地上天国、天上天国をつくるのです。
16 神様の悲しみを蕩減してさしあげなければなりません。神様が「私」のために涙を流した代わりに、私たちは、兄弟のために、国家のために涙を流し、世界のために涙を流そうというのです。このような責任を遂行する群れが世の中に現れるようになれば、その群れは滅びません。その子孫は、間違いなく発展するでしょう。
皆さんの当代には、もちろん悲惨な、歴史的な何かがあるかもしれませんが、今、終わりの日が来たので、当代に二つの世界を審判し、一つの世界を建国できる時代が来ることを知り、この時こそ歴史的な時であり、神様のみ前に孝子になることができ、忠臣になることができる時であることを知り、神様を慰める皆さんにならなければなりません。
17 もし、どんな悲惨な環境の中でも、自信と勇気をもって困難を克服して再出発できる群れがいるとすれば、新しい世界は彼らから始まります。しかし、何かをもっている群れは、動くに当たって勇気がなく、もっていない群れは、動こうとしても動ける力がないのです。ですから、私たちは、このような境遇にある人たちにつき従うことができ、また与えることのできる、その何かをもっていなければなりません。この境地を越えるには、そのままではできません。そこには、多くの蕩減条件と犠牲を経なければなりません。自分の利益のための犠牲ではなく、全体の利益になる犠牲を払い、全体の勝利、全体の価値のために、自分の一身を犠牲にすることに満足する群れが必要です。
関係回復の原理
18 神様の愛を中心として、すべての万物が和動する中で、万物の主人の資格を備えて神様に、「我が父よ。栄光をお受けください!」と言うことができたアダムが堕落することによって、そのような価値を喪失してしまいました。ですから神様は、創世以後、本然の息子、娘が現れて「父よ」と叫ぶ、その一言を聞きたいと思うのです。
今日、私たちが呼び求めているその父は、罪悪の立場で呼び求める父ではありません。ですから、私たちは、罪悪の世の中から抜け出して、善の理想の園に入っていかなければなりません。その理想の園とは、人間が神様の栄光を現す世界であると同時に、喜びに陶酔して生きることのできる世界です。言い換えれば、人間が動ずれば万物が動じ、人間が静ずれば万物が静ずるようになり、人間と万物が動じ静ずると同時に、創造主の神様も動じ静ずることのできる世界です。それだけでなく、神様と人間の相対的な関係を超越して、一体となる理想の園なのです。
19 神様は、人間が御自身と一つになることを願われたのであり、一つになった中で驚くべき愛を中心として喜びに酔う、その一場面を思い描きながら、そのような世界を創造してこられたのです。ところが、人間が堕落することによって、これが自分たちの怨恨になったと同時に天倫の怨恨となり、堕落以後今日まで、その怨恨に怨恨を加重させる悲しい歴史を連ねてきたのです。
それでは、神様が今日、この地に対して摂理される最大の希望とは何でしょうか。それは、堕落の父母をもつ人類を再び神側に立て、「私は、あなた方の永遠の父であり、あなた方は、私の永遠の息子、娘だ」と叫ぶことです。そのようにできる日を迎えることが、堕落した人間の歴史的な希望であり、天倫に対する天的な希望なのです。
20 平和の世界は、国家と国家の間に良い関係を結ばなければなりません。闘争の概念があってはいけません。関係を結んで相対的立場にならなければなりません。縁があって来たので、相対的な関係になってこそ関係が結ばれるのです。関係というのは、悪いものを中心として語る言葉ではありません。良い意味の言葉です。
21 関係は、縁のないところでは結ばれません。仏教では因縁を語りますが、統一教会では関係を語ります。一段階先を行っています。関係は必ず二つ以上で結ばれますが、因縁は一人でも結ばれます。心と体は相対関係になっているので、統一された醐係を結びます。男性と女性も相対関係になっているので、「夫婦一体」と言うことができます。
このように見れば、関係を結べるその中心がなければならないのです。父子関係も相対的な関係なので、「父を中心として」、「息子を中心として」と言うように、絶対的な内容を満たせる「中」がなければなりません。真ん中を意味する「中」の字、これは四方の中心を意味するのです。
22 主体と対象の関係というものは、時間と空間を包括しています。関係を結ぶようになるとき、相手は低い位置にいますが、大きな心をもって対すれば、その相手にも大きな栄光を与えるのです。父母の心が広ければ広いほど、その相手もそうなるのです。主体の前には、必ず対象存在が生じるようになっています。
23 関係というものに型があれば、その型に縛られたすべての人間の歴史や個人の事情は、みな異なります。ですから、主流とどのような関係があるのかというのです。木で言えば、木の葉は千年前に出てきた葉も、千年後に出てきた葉も、その本質は同じです。その木の中心の根と連結されています。また、中心の幹と連結されていて、中心の芽が連結されています。枝も同じです。東西南北の四方にほかの枝があっても、その内容においてはみな同じだというのです。