天聖経: 第229話
日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー
第八篇 信仰生活と修練
第一章 信仰生活とは何か、
第五節 信仰生活での体験 14-20
第二章 心と体の修練
第一節 修練とは 1-4
14 先生が車に乗って出発すると、すぐに良くないと感じるときがあります。そのときは、進路を変えます。そのようなインスピレーションや体感が来るのです。体感は、体恤する信仰生活で生じます。皆さんが道を行く途中で、電柱でも何でも、それをつかんで痛哭したい心情になるときがあるはずです。そのような時を絶対に逃さないようにしなければなりません。そのような時を何度か逃せば、そのような機会は私から遠ざかります。それを逃してしまえば、絶対に「私」にプラスになりません。かえって反対の力になって、私を押しのけるのです。
15 体恤は、必ず信仰生活に必要です。体恤を通して、神様の人格について知ることができ、それと同時に、神様が「私」と共にどのような内的な心情関係をもつのか、ということを感じられます。体恤の道を通してのみ、私たちは、そのようなことを感じられるというのです。信仰生活を通して幸福を感じ、また、信仰生活を通してより理想的な新しい希望をもつことも、体恤の過程を経なければ現れません。
キリスト教がローマ迫害時代に圧迫を受け、ライオンの餌になりながらも信仰の道をひるまずに行けたのは、漠然とした立場でそうなったのではありません。これは、そのような立場を乗り越えられる、体恤した内容があったからなのです。
16 皆さんは、天倫を中心として運行される神様と、そのみ旨を成就するために、人間に対して無限に忠誠を尽くされた神様の事情を体恤しなければなりません。また、このみ旨を立てるために無限に犠牲になってこられた神様の心情、また未来の理念を立てるために無限に御自身を超越された神様の心情、無限に与えようとされる神様の愛の心情を体恤しなければならないのです。
重生の体験
17 私たちは、信仰生活をするにおいて、完全に自分自身を忘れ、祭物になりながらも足りなさを感じ、犠牲になりながらも足りなさを感じて、死の場においても自らを叱責することができなければなりません。このように天のみ前に何も誇らない本性の人になってこそ、永遠であられる天の復活の理想を成し遂げることができるのです。
18 信仰路程において、サタン世界のどんな人よりも優れていなければならないのであって、彼らと同じ程度であってはいけません。内的な心情と心性を比較してみるとき、あえて彼らがついてくることができないほどの気高い心情と心性の円満性をもたなければなりません。その条件を根拠として、復活圏内に入ることができるのです。
19 私たちは、悔い改めの涙で復活圏を迎えなければなりません。アダムとエバが流せなかった涙を流して、抜け出さなければなりません。互いが反目し、妬ましく思いながら、「私の罪の動機は、お前のせいだ。私はこうなるはずではなかったのに、お前のせいでこうなった」と言って、自分の悲しみを第三者に転嫁させようとして、「私は肯定されるべきであり、正常だ」という気持ちをもってはいけません。「私」を否定して、環境を肯定しなければなりません。私が救援されることよりも、国が救援されることを願い、国のために涙しなければなりません。また、家庭が救援されることを願い、家庭のために涙することができなければならないのです。
20 私たちの生活を復活させ、私たちの生涯を復活させて、善を追求するようにする主体的な対象が存在するという事実をはっきりと知り、信仰心をもっていく「私」自身になったとすれば、私自身が対象の立場でその主体と一つになり、主体の目的と対象の目的が一致する一点を選んでいかなければなりません。
そのような人は、いくら難しい環境であっても、その環境を克服することができます。いくら難しい事情があるとしても、その主体であられる絶対者の願いと目的はこうだと、はっきりと知って悟れば悟るほど、その悟りが自分の生涯路程において、直接的に新しい力の源泉になるのを感じるようになるでしょう。
第二章 心と体の修練
第一節 修練とは
1 修練とは磨き、鍛錬することです。磨き、鍛錬するには、何を標準としてするのでしょうか。皆さんの中には二種類の人がいます。外なる人と内なる人がそれですが、堕落した立場から見れば、堕落した外なる人と堕落した内なる人がいます。これらが本然の人格体に似ていくのです。本然の人格体とは、万物が敬拝し、神様が懐に抱かれ、キスしてあげることのできる幼子のような姿です。したがって、皆さんは、本然の人格体を標準として修練を受けなければならないのです。
分立によって善の対象になる
2 皆さんは、どれほど統一教会のために生きたでしょうか。統一教会のために自分がいたのでしょうか、自分のために統一教会を利用したのでしょうか。ここから善悪の基準が分立されるのです。善と悪が別々にあるのではなく、み旨から外れるときは、悪と善として分かれます。善は正常な軌道を行き、悪は異常な軌道を行きます。
今日、人倫道徳や社会の道徳基準を中心として見てみるときも、原理原則があります。原理は、「私のために生きなさい」と言うところで成立するのではありません。ために生きようとするところで原則が成立します。ですから、統一教会の教会員として、二十四時間自分のことを考えるより、もっと大きな統一教会のイメージが「私」を占領していなければなりません。夢においても、統一教会と離れている自分になってはいけません。
3 善の神様の人にならなければ、善の神様が願う家庭を望むことはできません。また、善の神様の家庭にならなければ、善の国家や世界を望むことはできません。ですから、一番の問題は、「私」自身で解決点を探さなければならないということです。その境界線が心と体です。
苦行による蕩減
4 肉身を打つ方法は、正に苦行です。それで、イエス様は、「自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである」(ルカ一七:三三)と言いました。これは、体が願うものを切ってしまわなければならないという話です。体が願うものをなくさなければならないのです。