天聖経: 第230話
日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー
第八篇 信仰生活と修練
第二章 心と体の修練
第一節 修練とは 5-16
5 歴史時代において、どんな宗教よりも、苦行する宗教を訪ねていかなければなりません。宗教生活とは、良心が拷問官になって、「この体め、この体め!」と言いながら、完全に死んで倒れる時まで拷問し、降伏させ、再び目覚めないように占領できるようにすることです。心が体を占領しなければならないのです。
6 宗教は、なぜ苦行をしなければならないのですか。なぜ十字架を負わなければならないのですか。なぜ犠牲になって奉仕しなければならないのですか。それは、あらゆる人間が嫌うことです。ですから、この堕落した世界で、宗教は出家を強調してきたのです。すべてのことを完全に否定しなければなりません。統一教会の祝福は、完全否定を追求するのです。
個人否定から家庭否定、氏族否定、民族否定、世界否定、思想否定まで、あらゆるものを否定してきました。その否定する段階が高まるにつれ、自分の価値が蓄積されるのです。サタン世界を否定する足場が広くなれば広くなるほど、「私」の本然の人格の蓄積は高まります。大きくなるというのです。ですから、否定するのです。ですから、宗教は現実を否定して出家するのです。
7 宗教は、苦行の道を行きます。体が好むものは足で蹴ってしまいなさいというのです。肉的な目が喜ぶとおりに行ってみると、心の目はそれを嫌います。すべて反対です。人間はもともと矛盾した存在だと考えるのも、堕落を知らなかったからです。
矛盾した自我の発見、これは偉大な発見です。歴史において、どんな発見よりも偉大です。堕落がどのようにしてなされたかを知っているとすれば、それは何より驚くべきことです。この混沌の中から解放される道があるとすれば、どんな犠牲を払っても行かなければなりません。それが堕落した人間が行くべき責任路程なのです。
8 「復帰蕩減」ではなく、「蕩減復帰」です。「復帰蕩減」というものはあり得ません。神様の「復帰蕩減」という概念は、エデンの園にはあり得ません。もしそれがあるとすれば、アダムとエバを思いどおりにすることができます。堕落によって血統が変わったことが問題です。種が変わりました。それを蕩減しなければならないのです。
否定によって本然の道を求める
9 復帰の道においては、皆さんが最も好むものが怨讐です。男性には女性が怨讐であり、女性には男性が怨讐であり、父母には子女が怨讐であり、子女には父母が怨讐であり、その父母の一族には氏族が怨讐であり、氏族は民族が怨讐です。
すべて怨讐になっています。これを一度に清算するためには、すべて否定しなければなりません。自分の一族の四位基台を失った悲しみすらも体験できない人は、天の国に行くことはできません。神様は、数千代を延長しながら、今まで四位基台の復帰を願ってきたのです。神様のみ前に千年、万年親孝行しても、顔を上げることはできません。罪人の中の罪人のような自らを、逃れることはできないというのです。
10 天国に入るためには、サタンの血統を否定して再び元に戻さなければなりません。純潔であり純血です。純潔血統、純潔愛を中心とした家庭基盤の上で孝子にならなければなりません。家庭的孝子になれずにいます。国家的忠臣、孝子になれずにいます。家庭的純孝子、家庭的純忠臣、家庭的忠聖人、忠聖子にならなければなりません。天地を身代わりして相続できる息子、娘になれずにいるので、これを皆さんの一代で成し遂げなければならないのです。
11 自分のために生きる世の中は滅びました。堕落は、自分自体を先に自覚して中心の位置に立ったものなので、それを否定しなければなりません。自分を否定して全体を生かしたあとで、自分がそこに花を咲かせなければならないというのです。花の香りは、一年育った花でも、根と幹、枝のすべての栄養素を吸収して花が咲いたあとに出るのです。ですから、全体のために生きる人になって、花が咲き、香りが漂ってこそ、神様が訪ね、天使が飛んできて保護するようになります。それが天地の願いなのです。
12 皆さんは、神様を喜ばせる贈り物をもっていますか。神様が訪ねてくるとき、「本当にありがとう!」と言える贈り物をもっているのか、神様が訪ねてくるときに、家庭的に善の贈り物を差し上げられるのかというのです。夫婦になっていれば、夫婦は神様が訪ねてくるときに、贈り物として差し上げるものは、ほかのものではなく、愛で一つになった夫婦です。
愛で一つになった夫婦はどのような夫婦でしょうか。自分のために生きる夫婦ではなく、妻は夫のために生き、夫は妻のために生きる夫婦です。その夫婦が永遠に一つになろうと、生殖器を守って永遠に行こうという、その家庭を神様が贈り物としてもらうことを願うというのです。
13 アダムとエバが完成して息子、娘を生んでこそ、実体的な神様の姿になります。しかし、サタンの息子、娘になりました。天使長の息子、娘になりました。神様と関係のない息子、娘になったのです。ですから、完全に否定しなければなりません。血統を汚したので、神様が思いどおりにできません。
愛する女性とあす、あさってに結婚しようというのに、山賊が盗んでいったも同然です。そのように山に入って、盗んだ物で生活し、息子、娘を生んで一つの民族になったのです。昔、結婚の約束をしていた男性がその姿を見たとき、どれほど惨めでしょうか。神様が全知全能だといっても、天使長を思いどおりにすることはできません。天使長を葬り去ることはできない状況で、その血肉が混ざった息子、娘全体を葬ってしまうことができるかというのです。ですから、神様は、囹圄(牢獄)の身です。監獄に閉じ込められているというのです。
14 自分を否定するまでは、創造本然の原素材の立場に戻ることはできません。そこには、分かれた隙間があってはいけません。皆さんが本然の愛の理想家庭に定着するためには、サタンが入る隙間があってはいけません。水が入ってきてはならず、空気が入ってきてはならず、光が入ってきてはいけないのです。
15 愛を受ける位置に立とうとすれば、主体と対象の立場で一つにならなければなりません。主体は完全に与えようとしなければならず、対象は完全に受けようとするとき、主体と対象が一つになるのです。百を与えようとする主体がいれば、「私は百を受けなければならない」と言わなければなりません。天が百を与えようとするのに、私たち人間が自分の考えや自己主張、自分の欲望を中心として受けようとすれば、百を満たせる場が生じません。
自分の欲望があり、希望があれば、それが八十、七十、六十、五十になるというのです。ですから、百をみな受けることはできません。「百を完全に受けようとすれば、あなたのところにあるすべてのものを空けてしまいなさい。すべてのものをなくしてしまいなさい。すべてのものを否認しなさい。ここでは、すべてのものを放棄してしまいなさい」と言わなければなりません。全体を放棄して、絶対服従するのです。服従は悪いことだと思うかもしれませんが、完全に服従していけば、その人を占領することができるというのです。
16 善の人は、生まれてから死ぬ時まで、永遠に人を助けてあげようという人です。階級を超越して、東西南北を超越して、人種を超越し、歴史過程で定められた伝統を乗り越え、永遠に助けてあげながら生きて逝ったとすれば、その人は善の人です。自分が永遠に人のために与えてみると、空っぽになって、低気圧になるのと同じです。自分自体を他のところに押し出すので、あちらの世界の周辺には高気圧圏が生じます。ですから、息が止まるときは、その高気圧が一度に押し寄せます。千年積んでおいたものが一瞬のうちに上がってきて、「私」を一気に数千万年の頂上に上げてくれるというのです。