天聖経: 第222話
日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー
第八篇 信仰生活と修練
第一章 信仰生活とは何か、
第二節 信仰生活の目標 12-22
12 神様のみ手によって造られた万物、神様のみ言によって実現された万物、その栄光を想像してみてください。今日の天と地は、そのようにはなっていません。それは、恨めしく、悔しいことです。創造の動機と目的もこのようなものではありませんでしたが、思ってもいない人間の堕落によって、創造の動機と目的を蹂躙した結果になってしまいました。
堕落は、苦痛と悲しみと不幸の源泉になり、人間が嫌うあらゆることの原因になりました。怨讐とは、刃物を持った人だけではありません。堕落、これこそが人類の怨讐であり、万物の怨讐であり、創造主の怨讐です。この怨讐は、どこから始まったのでしょうか。人間の先祖から始まりました。ですから、命懸けの闘争ももちろん必要ですが、この罪悪の根を抜いてしまうためには、堕落の本拠地を抜本的に取り除き、爆破して切ってしまわなければなりません。そうしてこそ、地上の人間と関係を結ぶことができなくなります。それがまだ残っているので、世の中に罪悪が蔓延するのです。
信仰者は、結果的なものを中心として闘争するのではなく、堕落の本拠地を探すところに第一の目標を置かなければなりません。怨讐の根拠地、堕落の源泉を求めて、神様と人間とサタンの三者間で、その問題を解決しなければなりません。そうでなければ、不幸の端緒は解けないのです。
13 人間が真の息子、娘の立場で神様を「父」と呼ぶことが人類の希望であり、すべての万物の願いであり、神様の願いです。ですから、私たちは、この地上で神様の真の息子、娘として復帰の運命を打開していかなければなりませんが、ここで私たちがただ一つ望むものがあるとすれば、真の愛を中心として神様と父子の関係を回復することです。
14 喜びと悲しみは、天国と地獄という言葉で代わりに表されます。先生は、この道に初めて立ち上がった時、宇宙の根本とは何かを考え、掘り下げていきました。それは父と息子の関係です。したがって、復帰の根本内容は、父子の関係なのです。歴史は、この関係を復帰させておかなければなりません。ですから、復帰歴史は、本然の父と息子、娘の関係を回復するものです。
15 私たちは、絶対的な父の前に、真の息子、娘として立つために、新しい信仰によってあらゆる疑いの世界、死亡の世界、罪悪の世界、恐怖の世界を越えなければなりません。私たちは、天が求める信仰の内容が分かれば、それを立証させる基準を立て、天のみ前に出なければなりません。それができなければ、神様の真の息子、娘になることができません。
このような信仰をもって立ち上がるとき、皆さんは神様と永遠の関係を結ぶことができ、永遠の善と永遠の生命を享受することができ、苦痛から永遠の解放を受けることができ、永遠の天国圏内で暮らしていけることを肝に銘じなければなりません。
16 人間は、父母がいなければ寂しく思い、夫婦がいなければ寂しく思い、自分と自分の家庭を保護してくれる国家がなければ寂しく思います。これが人間の相互の情として現れています。このように変わる関係でも寂しく思うのに、永遠の理念を中心とした関係を結べないことを寂しく思わないでしょうか。このように人間は、地上ですべての条件を備えても、そこに加えて天倫の永遠の関係を、また望むようになっているのです。
17 信仰者たちは、変わる理念的な条件をもって生きてはいけません。変わらない不変の関係を回復するのですが、その関係は別々に分かれたものではなく、自分が生きる生活圏内で全体が一つに連結されているという事実を知り、自ら神様と関係を結んで生きなければなりません。神様と関係を結ぶ、それが実証的な価値を回復し、神様を心に迎えて生きる、すなわち神様と一体の関係の中で暮らすことができるのです。
そのような生活をするようにさせてくれる神様の実体を感じるとすれば、その価値は部分的な価値ではありません。そのように全体的な価値が実現される環境を回復するようになる時、個体と全体の価値は自分を中心として動き始めるというのです。
18 統一教会の信仰観は、今までの信仰観とは異なります。今までは、イエス様と聖書を中心として、すなわち救世主という言葉を中心として漠然と信じてきました。しかし、私たちは、父母という言葉を中心として神様と父子の関係を備え、子女の立場で信じています。父母と子女は、離そうとしても離すことのできない関係をもっています。生まれる時もそうであり、生きていてもそうであり、死ぬ時もそうなのです。
ですから、皆さんは、父母を離れては生活することもできず、活動することもできません。宇宙史的な中心であるその父母は、父母自身だけの関係をもってきたのではなく、神様を中心とした絶対的な関係をもってきました。したがって、皆さんは、神様とその父母が一致したところに連結されなければ、責任を完遂することができず、目的を達成することができません。最も重要なのは、神様と父母と「私」がいつも一致しなければならないということです。
19 人間の嘆きは何であり、全被造万物の嘆きは何でしょうか。人間が天の家庭の家族として参与できないことです。これが天宙の嘆きです。今日、私たちが信仰生活をする目標は、ほかのことではありません。神様に対して「お父様!」と呼ぶことです。父の真の子女として、人類全体が兄弟となって喜び、神様を「父」と呼ぶことのできるそのひと日を迎えるために、神様が六千年間、復帰摂理をしてこられたというのです。
霊的成熟のために
20 イエス様は、どうして自らを「神のひとり子」とおっしゃったのでしょうか。イエス様が、このように人間が到底信じられない条件を提示されたのは、彼らにこれを信じれば瞬間的に飛躍できる恩恵を与えるためでした。人間が無限の信仰でイエス様を信じ、心から天に向かって叫ぶようになれば、飛躍的に信仰が成長するようになります。
天国の中心に向かう皆さんの信仰の程度が高ければ高いほど、それだけ霊界も皆さんを通してより大きく役事(働き)することができ、皆さんが無限の信仰心を所有するならば、皆さんのその人格を通して、皆さんが想像できないほどの超感覚的な世界の事実と、宇宙の事実を、一時に感じることができます。ところが、人間はこのような驚くべきものを失ってしまいました。
行って行って、また行かなければならないのが無限の世界を指向している信仰者の姿勢だとすれば、ある限界圏内にとどまらせる信仰を主張する群れをはねのけるために、終わりの日には、宇宙的な大きな闘いをしなければならないのです。
21 本来、人間は、霊肉を通してこそ完全な人間になります。しかし、イエス様が霊的父母の立場にのみいらっしゃれば、霊的救援、つまり半分の救援しかできない立場になります。ですから、残りの半分の救援、すなわち肉的救援をするために再臨主がこの地にいらっしゃらなければなりません。そうして、その再臨主が、イエス様を信じて逝った霊人たちと全世界に散らばっているキリスト教徒を一つに統一して神様のみ前に捧げることによって、第三イスラエルの出発をすることができます。霊的な第二イスラエル民族になるためには、洗礼を通さなければなりませんでしたが、今後、来られる主を中心として第三イスラエルになるためには、祝福の門を通らなければならないのです。
22 アダムとエバの誤った愛によって堕落したので、これを蕩減復帰するためには、神様の愛を中心として祝福の関門を通して、新郎と新婦の関係を結ばなければなりません。そのようにしなければ、天国に行くことはできません。イエス様もこのような責任を全うすることができませんでした。このことを救世主が再び現れて行わなければ、地上のすべてのものの根を通さなければ、この地上の絡み合ったものを収拾する方法がありません。ですから、それに対する責任を全うしなればならないのです。