天聖経: 第221話
日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー
第八篇 信仰生活と修練
第一章 信仰生活とは何か、
第二節 信仰生活の目標 2-11
信仰生活をする理由
2 人は良心と体があります。体が引き寄せ、体が広がり、欲望を広げれば、中心が縮みます。体が思いどおりにすれば、良心の世界は零に戻ります。引っ張って下りてくるのです。これをなくせば、縦的に高まります。縦的な基準において神様のみ前に完成基準を立てられなかったので、そこに到達するためには、世の中のどんな愛よりも最高の精誠を尽くさなければなりません。世の中の愛以上の愛を投入してこそ、長成期完成級から完成期に行き、直接主管と間接主管の一体圏を中心として、責任分担の完成圏を乗り越えるのです。それが原理観なのです。
3 純粋な宗教であるほど、体を打つのです。特にキリスト(カトリック)教徒たちが独身生活をしますが、社会と万民のために犠牲になり、奉仕しなさいというのです。キリスト教では、「城の頂上の石にならずに、隅のかしら石になりなさい」、「柱の中でも正門の柱にならずに、垣根の柱になりなさい」と教えています。
聖書の教えは、すべて、体が願うことと反対です。堕落した心と体を、二つともそのまま放っておいてはいけません。ですから、体が喜ぶことの反対側に追いやるのです。そうしてこそ、体の願うことが除去されるからです。純粋で最も高次的な宗教は、体が願う方向の反対に追いやる宗教なのです。
4 信仰の道においては、自己主張や自我観念はあり得ません。絶対的な信仰は、自我観念が一つも残らない信仰を言います。絶対的に信じるというときは、「私」自体に絶対的に反対する要因が一つもあってはいけません。神様を中心として一つになろうというところに、自己主張はあり得ません。主体が求めるとおり、完全に一致しなければなりません。完全に一致するということは、自分自ら主張できる一片の心もないのです。
信仰生活をしながら自分の思いどおりに主張できるところがあるとすれば、その場所は天国ではありません。自分の思いどおりに願うところでは、いくらよく信じたとしても、そこは天国ではありません。このような根本問題を中心として、皆さんは深刻に考えなければなりません。先生も、そのような問題を中心として深刻に考えるというのです。
5 個人的に解決し難いことにぶつかった人は、自分よりも信仰において立派な人、自分よりも上にいる人を訪ねて、率直に打ち明けて話さなければなりません。「私は、私ではなく、彼に従っていく人になろう」と考えなければなりません。彼が「右に行きなさい」と言えば右に行き、「左に行きなさい」と言えば左に行くのです。また「上がりなさい」と言えば上がり、「下りなさい」と言えば下りるのです。「私のために生きるのではなく、指導する人の代わりになろう」と考えれば、その環境を避けて行ける道があるのです。
ですから、信仰生活において同志が必要です。同志のいない人は寂しい人です。同志がいれば、互いに補充し、保護できるというのです。そうすることによって、環境の困難を克服できる道も生まれます。もし同志がいなければ、自分ですべて解決しなければなりませんが、前後関係を一人で解決できる能力がない自分では、とても難しいのです。
6 堕落した人間は、サタンによって生命が始まったので、自分自身を否定しなければ神様の生命と連結できません。ですから、生命を投げ出す方法しかありません。それでは、生命の統一はどこで起こるのでしょうか。堕落した生命を捨てるところ、すなわち自分の生命を犠牲にする、その果てにおいて神様の新しい生命と関係が結ばれるのです。ですから、信仰の道は、み旨のために行く道であり、一つになるための道であり、命を懸けて行く道なのです。
7 先生は、皆さんが部屋の中で笑いながら話をしても、すぐにその感じが伝わってきます。この笑いが神様のみ前にプラスとなる笑いなのか、マイナスとなる笑いなのか、その感じが伝わってくるというのです。皆さんもそれができるように、習慣化して発展させていかなければなりません。
ですから、自分を中心として起きる周囲のすべての要件には、無意味なものは一つもありません。すべてのことが、私を啓発させ、発展させるための一つの教材として登場するのです。そのような生活態度が必要です。一人だからといって、自分勝手にはできないのです。
このような生活態度を中心として生活すれば、初めて会う人でも、面識のある人でも、誰であっても、いい加減に接することはできません。初めて会う人だから、適当に扱えばいいだろうと考えてはいけません。その人がどんな人なのか分からないではないかというのです。ですから、このようなあらゆる心情的基準を中心として、体恤する環境を開発する生活をしなければなりません。そのように、あらゆることにおいて、間違いなく効果的な価値を発見して喜びを感じたとすれば、その人の信仰生活は、観念的な信仰ではなく、実質的な信仰生活であり、神様と共に生きる信仰生活です。
8 信仰生活は切実でなければなりません。おなかのすいた人が御飯を恋しく思うこと、母を失った子女が母を探すのと同様に、そのような切実な心が先に立たなければなりません。信仰の道や信仰の目的というのは、見えるものではないからです。神様のみ旨が見えますか。神様のみ旨は、人を通して成就されるまでは見えないのです。
世の中では、すべて計画し、設計し、予算を編成して広げていきますが、神様のみ旨は、目で見ることもできず、触ることもできません。ですから、その見えない世界を追求し、それに対する目的を現実として成就していくことは、とても難しい課題です。
皆さんの目は、見えないものを見るようになっているのではなく、見えるものを見るようになっています。また感じるのも、見えないものを見聞きして感じるようになっているのではなく、見えるものを見て感じるようになっています。必ず五官の作用は、見える世界を見て、聞いて、触って、感じるようになっているのです。
9 信仰の道とは何でしょうか。見える世界で感じる感覚よりも、見えない世界で一層強い感覚を感じるようになれば、その人は絶対に疲れることがないというのです。外的な世の中のことは、すべて見えるものによって動きますが、信仰の道は、見えないものを追求していくので、その目的が漠然とするときには力が出ないのです。
神様との父子関係回復
10 統一教会の人たちは、何を信仰生活の目標にして生きなければならないのでしょうか。父母の心情をもち、僕の体をまとい、十字架の道を行くことを目標にして生きるべきでしょう。僕の体というのも、ふさわしくない言葉です。父の命を奪った殺人者の体です。ですから、これを蕩減するための道を行かなければなりません。イエス様は、罪がなくてもその道を行きましたが、父の命を奪った罪人である私たちは、百回、千回でもこの道を行かなければならないのです。
11 人間が神様に対して切ない心情で深刻に訴えても、神様を探し出すことができなかったのは、人間が堕落によって神様と父子関係が結ばれなかったからであり、天倫にかなう愛の関係が結ばれなかったからです。ですから、人間がこのような立場に落ちるようになった原因と内容を知らなければならず、サタンの真相をはっきりと明かして、本来の立場を回復しなければなりません。言葉によって結ばれる父子の関係、約束だけで結ばれる父子の関係は必要ありません。心を尽くし、力を尽くして父のみ旨のために生き、骨肉が溶け出す苦痛の中でも耐えて勝利するようになるとき、私たちは、神様と父子の関係を回復できるのです。