天聖経: 第220話
日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー
第八篇 信仰生活と修練
第一章 信仰生活とは何か、
第一節 信仰生活とは26-35
第二節 信仰生活の目標 1
26 皆さんの善し悪しが問題ではなく、皆さん自身が神様のみ前に順応できる絶対的な信仰をもっていけるのか、ということが問題です。実績をもてずにいれば、希望だけでももちなさいというのです。希望をもつためには、絶対信仰をもつことはもちろん、実践的過程を築いていかなければなりません。
先生は、この地上の男性を代表し、誰よりも厳しい闘争の歴史を経ていかなければなりません。先生は、霊界と肉界から公認される権限をもって現れましたが、皆さんはそうではありません。実績がなければ、信仰で越えればいいのです。その信仰は、どんな信仰でなければならないのでしょうか。自分が好む信仰ではいけません。そのような信仰では、志を成就したとしても自分だけが喜ぶ志なので、神様が喜びません。
自分の思いどおりにしたことは、やればやるほど神様からも、先生からも遠ざかるのです。「自分が好きだからやるのであって、嫌ならしない」と言ってはいけません。神様がお喜びにならなければなりません。問題はここにあります。先生自身もそうです。ですから、自分が実践的な生活ができなくても、絶対に信じなさいというのです。信じればよいのです。
27 統一教会の教会員たちは、先生の話を絶対的に信じなければなりません。希望を求めて昔のように信じなければなりません。
昔、み旨が分からない時にも、希望を抱き、愛を慕いながら進みました。皆さんが求めた道を歩みながら、そのような立場に立っていないのなら、先生のみ言を信じ、神様の愛を信じ、その命令によって動かなければなりません。それしか方法がありません。このような道を経ていかなければならないのです。
もし、皆さんが個人的な勝利の位置で神様の祝福を受け、家庭的な位置で祝福を受けたとしても、家庭を越えて氏族、民族、国家、世界、天宙にまで進まなければなりません。七段階が残っています。神様のみ前にまで行こうとすれば、七段階を経なければなりません。七つの峠があるというのです。その位置まで進むためには、神様を絶対に信じなければなりません。神様がどういう命令をしようと、そこに絶対服従しなければならないのです。
悔い改めて新しい生命を得る生活
28 ある人は、「信仰生活は年を取ってからしよう、死ぬ時になって、信じて天国に行こう」と考えます。しかし、とんでもないことです。それでは天国に行くことはできません。いつ神様を中心として出発するかということが重要です。死ぬ時になって出発したとすれば、全生涯の大部分は神様に背反する立場にいたということになります。ですから、それに比例して、それ以上の悔い改めをしなければなりません。それにもかかわらず、年を取ってから信じて天国に行こうと考える人は、愚かな人なのです。
29 信仰生活は、み旨を知ったその日から今までの生活が、ある人は一年になり、ある人は十年になり、あるいは半生をみ旨と共に生きてきた人もいるはずですが、これまでの生活が停止した立場だったのか、あるいは前進する立場だったのか、そうでなければ後退する立場だったのか、ということが問題になります。
皆さんは、これらのどこに属するかを必ず明示して、越えていかなければなりません。いくら過去は前進したとしても、きょう停止していれば、そこに神様の生命力が存在できません。神様の愛が存在できません。過去には前進しながら無限の価値と無限の生命力と無限の愛の力をもって生きたとしても、現在が停止した立場にあるとすれば、神様と離別したということなのです。
30 堕落した私たちが神様の生命圏と愛の圏内に入るためには、必ず悔い改めが必要です。先祖から今まで、百の罪を犯したのなら、それ以上の努力をして悔い改めなければなりません。ですから、信仰生活において悔い改めは欠かすことができません。
私たちは、千代、万代の先祖たちを通して生まれました。その先祖たちが善の先祖たちなら、「私」は自動的に神様の生命圏内に接することができる、近い距離にいるのです。しかし、悪の先祖たちならば、神様の生命圏と遠い距離にいます。遠い距離にいる人が神様の生命圏と関係を結ぼうとすれば、先祖たちの悪をすべて乗り越えることのできる悔い改めの期間が、絶対に必要だというのです。これを満たさなければ、自分以上の生命力の世界に接触することはできません。ですから、信仰の道には必ず悔い改めの涙が必要なのです。
み言を成就する生活
31 信仰生活を十年すれば、その十年の信仰生活が神様の心情と一つになるために闘ったものでなければなりません。そして、皆さんが何かと向き合ったとき、とても大きな喜びを感じたなら、その刺激を中心として必ずそれを成就できる日が未なければなりません。そのような思いが、いつも絶えず皆さんの心の中の深い所に残っていなければならないのです。
皆さんが難しい環境に囲まれた立場に立ったなら、「春が来れば、私がこの思いをもう一度発揮して、天の果てまで伸びていく。いつか見ていなさい。その時が来れば、私はこのように行く」という信念をもたなければならないのです。
32 信仰は、あくまでも実践のための動機を備えるのに必要なものです。ですから、聖書は、天国がどこにあるのかというとき、天国は信じるところにあるとは教えませんでした。天国は私にあるといいました。「私にある」という言葉は、主体的立場が相対的世界にかかっているという意味ではありません。主体的な内容を自分が決めなければならないということです。それを決定できる動機が人間にある、という事実を表したのです。
33 皆さんは、霊的に先生を通して体恤した信仰を実践舞台に適用させなければなりません。そうすれば、そこから必ず天国が広がります。神様を中心として見るとき、私が二番目なら、実践環境は三番目です。蘇生、長成、完成です。私は中心の位置に立っているので、私が天も完成させることができ、世の中も完成させることができます。ですから、聖書を見ても、いつも二番目が問題になっています。その二番目の位置は、どのような位置でしょうか。神様と宇宙を見るとき、人は二番目の位置にいるのです。
34 人は、一つの線を中心として見れば、三点を連結するのです。ですから、人間が完成することによって神様が完成することができ、人間が完成することによって宇宙が完成することができます。そのような自分が今、開拓の途上で絶対に必要なことは、この二つの世界を調整するための体恤と実践です。体恤が霊的な面を言うとすれば、実践は真理的な面を言い、体恤が右側ならば実践は左側です。これが一致して平衡を保ち、私の人格基準の前に完結させることによって、宇宙を代表した神様の息子として登場することができるのです。
35 実績がなければなりません。戦場に出ていき、一人だけであっても、勝利の戦果をもつことが問題です。実践は、いい加減な実践ではありません。神様の代身者として、一家を代表し、一国を代表して、感服させ得る実践過程を経るには、血のにじむ闘争がなければなりません。笑いながら歩んではいけません。死ぬか生きるかという深刻な立場で実践することによって、そこに比例した実績が自然に現れるのです。ですから、最高の実力を発揮して実績を残すべき時なのです。
第二節 信仰生活の目標
1 習慣的な信仰生活は危険です。そのような信仰生活は、絶えず活動するサタンに讒訴条件を提示する要因になります。人々が復帰路程を歩んでいくにつれて、一人も失うまいとするサタンは、あらゆる方法を通して再侵犯の機会を狙っています。サタンは、個々人が立てた蕩減条件によって一個人から離れていかなければなりませんが、また再び家庭的次元、民族的次元において、侵犯することもあり得るのです。
ですから、ある意味では、厳格な戒律が信仰生活に有益です。習慣に依存した世俗的な生活は、皆さん自身を過去の生活に簡単に引き込む傾向があるので、真の生活の方法になり得ません。人間は、ただ真の愛と持続的な自己犠牲の生活をするとき、初めてサタンを克服できます。したがって、困難でも公義を実行するとき、人間の偉大な充足感も得ることができます。皆さん全員が、このような生活を営まなければならないのです。