天聖経: 第219話

日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー

第八篇 信仰生活と修練

第一章 信仰生活とは何か、

第一節 信仰生活とは13-25

13 無条件に福を下さいというのは、真の信仰ではありません。真の信仰をもとうとすれば、どのようにしなければならないのでしょうか。今日、この地上にいる人類は、六千年間続いてきたアダムの子孫です。ですから、人類を思って痛哭できる心の基準が確立されていなければなりません。そうでなければ、その世界と絶対に縁を結ぶことはできません。

かわいそうな乞食を見て、胸が痛んで耐えることができず、服を満足に着ることのできない人を見れば、自分が服を着飾ることに耐えられず、満足に食べられない人を見れば、自分も食べることができず、自分だけがどこか安らかな所にいることはできないという心をもたなければならないのです。

 

14 世界には二種類の人がいて、宗教者の中にも二種類の人が存在します。とにかく自分は楽に、良い暮らしをして福を受けようとし、自分の教団が豊かになり、自分たちの民族は幸せに暮らそうと祈る御利益宗教は、消えていくのです。そのようなことを知ったので、統一教会は、自分の一身を犠牲にしてでも神様を助け、神様を解放しようというのです。

統一して何をするのでしょうか。神様を解放しようというのです。神様の真の権威を中心として、人類始祖と共に無限の幸福をたたえながら理想郷で暮らすことができ、侍られながら過ごすべき神様が、このように悲惨になったという事実を知ったので、その神様を私たちの手で解放させようというのです。これは驚くべき提言です。そのような内容が宗教界から出てきたという事実は、神様にとってこの上なく喜ばしい知らせなのです。

 

15 信仰生活とは、生きて死の問題を解決しようというものです。皆さんは、死刑囚たちについては知らないかもしれませんが、先生は死刑囚たちと一緒に過ごしてみたので、よく知っています。その人たちは、自分の刑が執行される前、どれほど深刻か分かりません。秋夕(先祖祭祀と墓参をする旦のような日になれば、その秋夕の月を、歴史にない最後の月として鑑賞するのです。風が吹き、台風が吹きつけても、「ああ、自分の人生では、この台風が最後になるなあ」と言いながらそれを鑑賞するというのです。あらゆる万象を新たに見直す、そのような深刻な心情で過ごすのです。信仰の道を行く人の中に、このように深刻な立場で天の生命を大切に秤にかけながら、一日の生活を誓っていく者がどれほどいるのでしょうか。これは深刻な問題です。先生もそのような深刻な立場にいるので、このような道を継続して行くのです。

 

信仰生活は神様に侍る生活

16 信仰は神様に侍る生活、侍りながら共に暮らす生活です。その道を行かなければ安らかではありません。すぐに体に支障を来たします。環境に支障を来たすというのです。信仰生活は、天に侍って共に暮らす生活です。朝に日が昇り、お昼になり、夕方になって日が沈むのは変わりません。千年、万年変わらないのです。その軌道が狂うことになれば、すべてのものがずれていきます。愛の心、真の愛の道を訪ねていかなければなりません。真の生命、真の血統を受け継いだ人は、神様の眷属になって、いつも神様と共に暮らすというのです。自然と共に喜びながら生き、自分が行き来する生活を喜んですることが、神様と共に暮らすことなのです。

 

17 信仰生活には、団体の信仰生活もありますが、個人の信仰生活もあります。団体の信仰生活をすれ平均的な恩恵は受けることができますが、個人の恩恵を受けるのは困難です。個人の恩恵を受けるための生活は、天の近くで生きる生活です。深い祈りと自分自らの生活の中で、どれだけ天と近く生きるかによって、個人の信仰が高まるというのです。

 

18 皆さんが統一教会の仕事をするためには、新しく信仰者の覚悟をもたなければなりません。中心に対するはっきりとした信念をもたなければなりません。その中心を世界の理想の中心と思うまでは、世界を収拾できる信仰生活ができません。信仰による人格を分別することができないのです。

ですから、皆さんは、信仰の中心に対して、はっきりとした信念をもたなければなりません。山の頂上に上ることを願うならば、夜も昼も行かなければなりません。そして、心の世界で千回、万回行ってみて、正しい道だと感じたとき、初めて行動することができます。心の底からそのようにしなければ、行動ができません。心の底で千回、万回決心してから行かなければならないのです。自ら決心して立ち上がったので、途中で様々な危険が近づくとき、その危険を解決するために、材料を収拾するのが信仰生活なのです。

 

19 信仰生活は、ただするのではありません。信仰生活は、頂上なら頂上を征服するために、最高峰なら最高峰を征服するために、必要な材料を収拾するのと同じです。ですから、皆さんは困難な峠が近づけば、その峠を避けて戻るのではなく、克服して進まなければなりません。今、ぶつかっている難しいことより、もっと難しいことに遭遇するようになっても、「私はそこで滅びない」という真剣な立場で、その困難を自分のものとして消化できる、主体的な自我を発見するために努力しなければならないのです。

 

20 悪の分野を阻止し、善の分野を生涯路程に残そうとするのが、人間が信じて進む信仰生活です。人間が望む最高の希望とは何でしょうか。完全に善の存在になることです。マタイによる福音書第五章四十八節に、「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」とあります。

絶対にして善の主体であられる神様は、その愛の対象の位置に人間が立つことを願うでしょう。ですから、人間も、神様の相対的絶対の善の存在として立つことを、最高に願うのです。

その相対的な存在が悪の立場に立って呻吟し、サタンに讒訴される位置に立つことを願わないのが善の主体です。これは言うまでもありません。ですから、完全な善の主体としていらっしゃる神様は、人間に対して、完全な対象的善の実体であることを望まれるのです。

それでは、生まれる時からそれを願ったのでしょうか。もちろんそうでしょう。また、生まれて一生の間、そのように生きることを願うのでしょうか。もちろんそうでしょう。今までもそうしましたが、未来においても、善であることを願う神様だというのです。

 

21 信仰とは、信じて敬い、仕えることです。その信仰の限界とはどこでしょうか。忍耐の信仰、克服の信仰の限界がどこまでですか。神様以上の立場に上がるまでです。神様に侍ることより、神様の頭に上がって踊りを踊っても、神様が喜んで、「さあ、踊れ」と言うことができるところまでです。そこまで上がらなければなりません。ですから、信じられないことがありません。内容さえ裏づけられるならば、信じられないことはないのです。

 

22 統一教会は、生活の中で生きた神様を信仰の対象、侍る対象とし、神様の愛から結束と統一を主張していこうというのです。これが統一教会の出発の動機です。最も理論的な基盤の上で出発した宗教です。妄想ではありません。具体的な内容を提示して出発したというのです。

 

23 侍る生活は、千年たっても自分を考えてはいけません。「私は統一教会で数十年間、先生に侍った」と考えてはいけません。そのような人を先生は好みません。先生は、今までしてきたことをみな忘れてしまいました。忘れていくようになるとき、より大きな侍る生活が待っています。神様もそうなのです。

 

信じて希望を訪ねていく生活

24 信仰者は、より大きなことのために、公的な祈りを捧げなければなりません。そうして、これを横的に、どのように展開させるのでしょうか。それを空想することで終わるのではなく、行動の結実として表すために、創造的な冒険をしなさいというのです。ですから、信仰者は、現実の環境と不断に闘争して、理想を現実化させるための冒険の生活をしなければなりません。したがって、信仰生活は、最高の開拓者の生活であり、最高の闘争者の生活であり、最高の伝道者の生活です。そのような結果として現れてこそ、最高の勝利者になることができます。皆さんは、そのような信仰生活をしなければならないのです。

 

25 永遠に自分が自分を信じ、自分が自分自身を望みとして、自分が自分自身を愛しながら、「神様、私の愛をお受けください。神様、私の希望を御覧になってお喜びください。神様、私の信仰を御覧になってお喜びください」という時、神様が「分かった!」と言うことができなければなりません。信仰を立てた目的がそれであり、希望を探す目的がそれであり、愛を慕わしく思う目的がそれなので、そのようになれば、そこで主に相まみえるようになります。そうして、その主と共に暮らすのです。

Luke Higuchi