天聖経: 第218話
日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー
第八篇 信仰生活と修練
第一章 信仰生活とは何か、
第一節 信仰生活とは1-12
第一章 信仰生活とは何か
第一節 信仰生活とは
1 信仰生活は、必ず傍観者の立場を脱皮しなければなりません。皆さんは今、先生に従っていますが、先生を中心として信仰生活をするのではありません。皆さん自身を中心として信仰生活をするのです。ですから、信仰生活をする人には、人がどうであろうと、自分一人が守っていくべき信仰の道があるのです。
そのような信仰生活は、周りの人からは学べない深い心情の世界において、天を中心として一人で感謝する生活、一人で満足する生活ができなければなりません。
世の中がどんなに悪くても、天地を見つめながら、「感謝します。私は幸福です」と言える信仰生活をしなければなりません。
そのようにできず、そのようなことを感じられなければ、その反対の立場、この上なく悲しい立場で、「私は罪人です。私は足りない者でございますので、勇気をお与えください」と決意して再起する、そのような期間を必ずもたなければならないのです。
真の信仰観
2 「信じて行えば、できないことはない」。このような信仰観をもたなければならないのです。「第一の主体は神様であり、私は対象である。完全なプラスは、完全なマイナスを創造する。自分は第二の神様、第二のイエス様、第二の父母様の立場にいるので、その立場に到達できる!」という考えをもたなければなりません。
先生がどのようにして世界的な仕事を独りでしているのかということを考える時、このような哲学的背景を中心として、直接的に国を消化していっているからです。ですから、先生の前に潔く、「私たちは、これを伝授されて、間違いなくそのように生きます」と約束しなさいというのです。
3 先生がこの地に来て、信仰の世界に残した偉大な内容は四種類です。神様と人間の関係をはっきりさせました。責任分担と蕩減というものを、歴史上、誰も知りませんでした。人間がなぜこのような姿になったかを知らなかったのです。これをはっきりさせておきました。次に、良心的な人は貧しく、悪人が良い生活をするのはなぜかということです。蕩減法、カイン・アベル問題を知りませんでした。その次には、人間が善を望むのに、なぜますます問題が悪くなっていくのかということです。これは血統問題、サタンの汚れた血のためです。血統問題を根本的に知らないために、解決できませんでした。世界の問題がみな、この原理に引っ掛かっています。
4 今までの信仰生活は、「私」一人を取り戻すためのものでした。失ってしまったアダムとエバと同じ立場で、原罪のない本然の個体を取り戻すためのものでした。今、神様が最後に願うこととは何でしょうか。まずは神様の愛を中心として、個体と個体を合わせた一つの家庭を取り戻すことです。さらには、神様が愛するその家庭を中心として、そこから広がる氏族を取り戻し、民族と世界を取り戻そうというのです。これが神様の全体的なみ旨です。
5 天は、人間的な希望を中心として生きている人間をして、新しい希望をもって死の峠を越え、永遠の世界を欽慕しながら生きるようにするために、無限に苦労されました。ですから、信仰生活をする人たちは、地上に何かの希望を抱いて生きるのではなく、死までも越えて立ち得る希望を抱き、永遠の希望の世界を夢見て生活しなければなりません。このために、私たちも今、信仰生活をしているのです。
6 天の心情を体恤し、その心情圏内からもたらされる衝撃と刺激を感じる者がいるとすれば、地上のどんな迫害や苦痛や死の道がその人の行く道を塞ごうとしても、塞げません。このような心情が心を激しく動かし、その心が体を促して手足を動かすようにすることによって、いつの間にか無限の境地に向かって歩んでいくようになる、その生活を一つ一つ体恤しようと努力するのが、正に今日、俗世で暮らしている信仰者の生活なのです。
7 神様は、自分の教団を中心として信仰生活をするキリスト教徒を望みません。先生も統一教会という看板をつけていますが、「この看板をいつ取ってしまえるだろうか」と考えます。皆さんは統一教会の人たちだと注目を浴びているかもしれませんが、その注目が三千里半島(韓半島)でいつ消えるかというのです。
世界に広がっている統一教会の食口たちは、神様の恨を解こうと歯を食いしばって努力し、神様の苦難の道を代わりに歩もうと、忠孝の心情で走っています。この仕事をして倒れるのを最高の基準として、決意して歩んでいる群れが統一教会の食口たちです。このように行く道が恵みの道なのです。
8 神様が見る皆さんの信仰の観念は、あまりにも気掛かりです。今、先生がこの地にいなければ、皆さんの中で、何人残るか疑問です。分かりませんが、争いが起こるでしょう。今、先生は、み旨のために死のうという人がどれほどいるかという点から、皆さんを見つめています。ですから、皆さんは深刻な立場に至らなければなりません。家庭では妻と子女たちのために、教会では食口たちのために、自分がどれほど精誠を尽くしたかということが問題なのです。
9 自分の信仰生活において、天の同情を受ける内容を残せない人は、それでおしまいになります。今、先生自身もそうです。先生自身はもちろん、公的な立場でどこかに行って、礼拝の時間に遅れるようになれば、出てくる前に祈ります。また、ある聖日には、礼拝の時間になっても行けないときがあります。その時にも、必ず悔い改めの祈りを捧げます。主体的責任をもった者として、食口たちが先生を仰ぎ見ながら、福を受けようと生死の問題を解決するために精誠を捧げているのですから、その時間に行けない自らを赦してほしい、と祈るのです。そのような祈りが必要なのです。
10 世界のために行かなければなりません。世界のために犠牲になるのです。目的を成就しようとする人が、その目的のためにどれだけ犠牲の代価を払うか、相対的圏内にそれがどれだけ流れていくようにするかによって、目的成就の期日が短縮されるのです。世界のために生きようとすれば、大韓民国のために生きなければなりません。大韓民国が世界のために生きなければ、私たちが世界のために生きなければならないというのです。自分のような信仰と思想をもつ人をつくり、あるいはそのような子孫をつくって、このような思想を千年、万年後代に残してあげる基盤が残る限り、「統一思想」は、世界に新しい文化世界を創造する思想になるでしょう。このように見るのが、先生の観点であり、神様の観点なのです。
11 皆さんの信仰生活に味がなければなりません。先生は、昔、皆さんを伝道しなさいと地方に送り、統一産業に毎日、一日に二度、三度行き来しました。また、清平に一日置きに行き来しました。何のためにそのようにしたのでしょうか。味があるというのです。普通の人には感じることのできない味が分かるのです。精誠を捧げて行き来するその世界において、心霊のあらゆる細胞が発展し、その発展の力が自分の内面において運動するというのです。そのような何かがなければなりません。雨が降ろうと、雪が降ろうと、味を感じなければならないのです。
12 主がこの地に来られる目的は、地上に天国を実現するためです。天国は、どのような所でしょうか。侍るための準備に合格した人と、侍る生活に合格した人が行く所です。侍るための準備と侍る生活を、万宇宙に、永遠に誇れる世界が天国です。
天国に行って何をするのか分かりますか。ただ遊び回る所だと思っているかもしれませんが、そうではありません。遊び回ろうとすれば、そのために、過去に準備をしてきた条件と、生活的な条件がなければなりません。ところが、何もしないで、「福を下さい」と祈ってばかりいます。神霊的な人たちが途中で苦しくなる主な原因が、そこにあります。いくら恩恵を受けた人でも、七年を越えるのが大変だというのです。