天聖経: 第206話

日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー

第七篇 地上生活と霊界

第三章 永生のための地上生活

第三節 霊性の啓発と霊界の体恤 8-17

8 きょう、道を歩いていて、どんな人に会うかを考えなければなりません。最初に会う人はどんな人か、二番目に会う人はどんな人か、三番目に会う人はどんな人かを考えて、「お父様、どんな人ですか、私はこのような人に会うことを願いますが、どんな人でしょうか」と祈らなければなりません。自分が考えて、祈ったその基準と合えば気分が良いのです。このような体験をすることによって、皆さんの霊的触覚が発達します。道に出ると「きょうはこのような人に会うだろう」と感じるのです。

人の霊は、無限に通じます。「きょうはこのような人に会うだろう」と思い、実際そのような人に会えば、「ああっ!」と言って驚くようになります。このように、自分の思いと霊界から教えてくれた霊感が、実際の事実と一致するときが多いのです。このような体験を積んで上がっていかなければなりません。

 

9 魚の世界では、水が空気と同じであり、人間の世界では、空気が私たちの生命をつないでくれる母体となるのと同じように、霊界の生命要素は愛です。愛が空気と同じなのです。今まで呼吸していたこの五官を通じて、細胞自体が愛を呼吸しながら天と共に躍動し、神様と共に呼吸できる相応関係を体恤するのです。体恤的信仰、体験的信仰にならなければなりません。体恤する愛を中心として夫が妻に対するときは、毎日体恤しながら愛し、尊敬して暮らすのと同じように、愛を中心として、体恤的心情を通じて天情と人情が合徳(和合)しなければなりません。

 

10 心が反射作用をすることによって、体も共に反射作用をしてこそ、消耗が起こりません。電波が入ってきても、その入ってきた電波を体が妨げれば反射しません。しかし、私たちが、この電波が入ってきたとおりに通じるようになれば、私たちの体は震動するのと同じ作用をするので、霊的な体験は自動的にやって来るのです。突然霊的体験をするようになれば、副作用が起こります。自然に体験しなければなりません。

春になれば、自然と木に花が咲きますが、木が花を咲かせようとすれば、花を咲かせるぐらいに成長しなければなりません。今ようやく芽が出たというのですが、そこで花を咲かせることができますか。花が咲くことを願うあまり、早く大きくならなければならないと考えて、木を引っ張ってよいのですか。抜けてしまえばそれで終わりです。花は自然に咲き始めなければなりません。ですから、信仰の道は、焦ってはいけないというのです。千年史を創造していく道なので、焦ってはいけません。

 

11 心門に合わせて、心田を啓発しなければなりません。この心の畑を啓発して、方向基準を開拓するためには、必ず主体であられる神様を発見しなければならないのです。この主体であられる神様は、ぼんやりと感じられるものです。神様につながるには、精神を集中させて自分の心から出発する道以外にはありません。心を清めておけば、必ず方向が分かるようになります。自然についていくのです。東に向かって祈ったとしても、神秘の境地に入れば、すぐに方向が変わります。そのようなことを体験してみるとき、心の門があるというのです。

 

12 体恤するためには、まず祈らなければなりません。精神を集中しなければなりません。できるだけ零点の位置に下りていかなければならないのです。この零点の位置に行くためには、神様のみ前に対象の位置に下りていくのが最も早いのです。ですから、参禅する人は、「いったい心とは何か」という問題で苦悶するのです。

心とは何かという問題は簡単です。心とは何ですか。神様が永遠の理想的な善の主体でいらっしゃるならば、その主体的存在の前に相対的基台として、いつも変わりなく相対基準を形成できるものが心です。これを統一教会では、生心の起源と見ているのです。皆さんが神秘的な祈りの中に入っていってこの相対基準さえ合えば、超然とした力が現れます。釈迦もその境地に入っていって「天上天下唯我独尊」という言葉を語ったのです。

 

暗示や夢の啓示を無視してはいけない

13 祈りは、良くできる時というものがあります。いくら斎戒沐浴をし、精誠を捧げても、できない時というものがあるのです。部屋によって違うこともあります。部屋の位置によっても違います。そうならざるを得ません。一つの中心の前に東西南北があるので、その位置によって違うのです。また、方向によっても違います。山に行っても、祈りがよくできる所があります。また、サタンが集まっている所があります。そこは陰地です。陰地と陽地は、霊的にそのようになっているのです。何回か体験すれば、そのようなことがみな分かります。

暗示や夢のお告げ、啓示、黙示などがあるのは、天と関係を結ぶために広がる、開拓的で発展的な不可避な現象なので、これを軽視せず、生活に適用できるよう努力しなければなりません。

 

14 これから皆さんが、家庭生活において重要視しなければならないこととは何でしょうか。先生が妻や子女たちの夢に現れて何かを教えてあげたなら、それを信じなければなりません。自分の娘が教えを受けたなら、その娘の言葉を神様のみ言のように尊重して、その教えを絶対視し、そのみ言と一つになって従っていくことができる家庭環境をつくらなければなりません。

夫がその教えを受けることができなければ、妻を中心として必ず教えてあげるようになっています。そのようになれば、自分の家庭に神様が近づいてくださることを知って、妻の言葉を神様のみ言と同じように考えなさいというのです。そのようにすることが、良いことなのか、悪いことなのか、見ていれば分かるようになるのです。

 

15 韓国語に暗示という言葉があります。それはどういう意味でしょうか。「私」が道を何げなく歩いているとき、ある良い家の壁に止まっていた鳥が飛ぶのを見て、ひそかに何かを感じることです。実際の生活において、そのようなことが起き始めるのです。そのような暗示的なものが多くなるというのです。ある人が語った言葉に、偶然何かを悟るようになります。このような事実がますます多くなるのです。

 

16 暗示の段階を経るようになれば、どのようなことが起きるのでしょうか。夢の啓示のようなことを体験するようになります。夢の中で起こることですが、夢も、深い眠り中での夢ではありません。パウロも夢うつつの中で三層の天を体験しました。夢うつつの中でそのような現象や、あるいは声などというものを、五官を通して感じるようになるのです。そのようなことを何げなく流してはいけないというのです。それを総合して、「私」をどのような方向と連結させるために現れるのかについて、科学的な統計を出しなさいというのです。必ずその結果が現れます。ですから、皆さんが忘れられない夢の啓示のようなものは、一〇〇パーセント的中するようになります。

 

17 夢うつつの中で、ある人なら人、品物なら品物が関係を結ぶのですが、それが現実の中で実体として連結されるというのです。「私」が夢の中で誰かと歌っているのですが、その歌が夢の中での歌ではなく、隣で誰かが歌うその歌だというのです。このような事実が起こります。これは何を意味するのでしょうか。霊的次元において、心の状態が共鳴できる圏内に入っていくことを意味します。このようなことを何よりも貴く考えなければなりません。

そのようになれば、どうなるのでしょうか。神様がいらっしゃるとすれば、その神様がどこに現れるのでしょうか。空中に現れるのではなく、心を通じて現れます。皆さんがそのようなことを感じられないのは、心がいまだに存在性を確立できていないからであり、体に引き回される人になっているからです。その心が存在性を確立し、また別の一つの主体という人格的な次元の位置が形成されれば、それは必ず違ってくるのです。

Luke Higuchi