天聖経: 第205話
日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー
第七篇 地上生活と霊界
第三章 永生のための地上生活
第二節 霊界に行くための準備期間 51-53
第三節 霊性の啓発と霊界の体恤 1-7
51 神様の摂理、地上の歴史とともに生きて動くのは、永遠の道を築くためだと考えれば、信仰を確立させやすいのです。そうでなければ、着陸させることができ、信仰化させることができる地上の基盤が曖味になります。この時代的限界性をはっきりと教えてあげることによって、地上に着陸できる信仰基盤が確定されます。神様がこのように働かれるのに対して「私」が地上で協助するので、神様のみ旨が成就され、霊界が、私たちの実際の生活と関係をもつようになり、神様と共に永生できるという信仰観をもつことができます。ですから、地上生活は永生する準備の生活です。直結するのです。それが連結しなければ信仰生活をすることはできません。
52 天国に入っていける人とは、どのような人ですか。まず神様の心に合う人でなければなりません。神様が永遠の目的を中心として永遠の理想を描いていく方なら、永遠を中心として心が合わなければなりません。十年ぐらい合わせて途中で合わなくなるのではいけません。永遠であられる神様に、永遠に心を合わせなければなりません。
そのようにしようとすれば、どのようにしなければなりませんか。永遠に喜べる息子、娘にならなければなりません。そのような息子、娘になろうとすれば、悲しみの対象として現れてはいけないのです。その次には、神様の体に合わなければなりません。ここで体というのは、方向性を意味します。心は四方の中心点に代わるものですが、体は方向性で現れるのです。
53 私たちは、天国を望む前に、神様の心情を願うべきであり、また神様の心情を願う前に、「私」自身がどのように生きていくべきかを考えなければなりません。「私」自身が、まず侍る心情をもたなければなりません。高く貴いものについては、頭を下げて慕わしく思うのが、人間の本性です。堕落したとしても、高く貴い天の心情に対して侍りたいと思うのが、私たち、造られた人間の本然の心情です。心情に通じることができる、侍る生活をしてみることができなかった人は、天国と何の関係もないのです。
侍るためには、侍ることのできる準備が必要です。その準備の過程を経てから、侍る生活をする必要があります。侍るための準備の過程を経て、侍義の生活を経て初めて行くところが天国です。侍ることのできる準備と、侍る生活を称賛し、高く掲げる世界が天国です。私たちは、このような目的の世界に向かうべき運命に置かれています。
第三節 霊性の啓発と霊界の体恤
1 先生が出てきて、霊界の根を詳細にはっきりさせることができたという事実が、人類にとってどれほど大きな福であり、祝福であるか分かりません。今、それを信じることができていません。霊界を信じない人々が多いので、信じる人々が福を受けるのです。そうすれば、幹となり、幹の最初の枝になることができるのです。中心の幹と最初の枝になっていれば、その木が千年たとうと、その幹と枝によって発展するのです。
祈りと精誠で霊界体験
2 心の門、すなわち心門があります。皆さんが祈ってみれば分かるのです。時間によって感じが違います。真夜中の一時に祈るのと、三時に祈るのは違います。それは皆さんが体験してみれば分かります。
神秘的な深い境地に入って祈ってみれば、祈る時間によって感じが違うというのです。朝に感じるものと、昼に感じるものと、夕方に感じるものと、夜に感じるものが、すべて違います。私たちの心の状態によっても、感じる基準が違うのです。私たちが肉体的な感情をもって常に季節の変化によって感じる感度が変わるのと同じように、心の世界もそうだというのです。
ですから、どの時間によく祈れるかを知らなければなりません。祈りのよくできる時間は、神様と通じる距離が近いからです。そのよくできる時間、心の門と出会います。神様の心の門と人間の心の門がぴったり合い、ある基準にまで合わせていけば、神様が感じることを体恤する道が生まれます。皆さんがこのような境地に入っていくためには、心を磨かなければなりません。
3 霊的に通じる人の多くは、霊的には強いのですが、真理の面では強くありません。初めは太いのに最後が細くなれば、これは始終如一(しじゅうにょいち) (始めから終わりまで同じ調子であること)ではないので、永遠に続かないのです。いつか必ず転がり落ちます。また、真理は強くても、霊的な面が弱ければ、永遠に続きません。ですから、私たちは、これを調整する生活をしなければならないのです。
祈りと真理、神霊と真理で礼拝せよという言葉があります。それは、平衡をつくって和合する場に入りなさいということです。人間は、霊界と肉界を調整しなければなりません。霊的世界の中央に立たなければならず、真理の世界の中央に立って、調整できる人間にならなければなりません。そのような人間にならなければ、完全な立場になることはできません。
4 精誠を捧げれば神様の恩恵が訪れます。祈りの生活をしてみた人は分かるはずです。祈りの生活をするようになれば、大きくて偉大な力が訪れるのです。ですから、祈る人の目は、その力によって肉界だけでなく霊界までも透視します。神様は、超自然的な実体の理念圏を人間に関係づけてくださるために、宗教的な基盤を中心として摂理してこられました。人間の本質的な感情を刺激させて、そのような圏内に行けるようにする欲求を起こすのです。そうして人間を超現実的な善に連結させようとされるのです。
5 使徒パウロが霊界の三層の天の世界を見て体験したことは、彼が十四年間、たゆまず宣教活動をすることができる原動力となりました。そのような体験がなければなりません。先生も、それと同じです。先生にも願う基準があります。皆さんには話しませんでしたが、「このようにする」というまっすぐな根があります。先生はこのような信念をもって最後まで推し進めるでしょう。この信念が曲がらず、崩れない限り、いかなる試練と波風がぶつかってきても推し進めるでしょう。
6 私たちは、神様の心情を語ります。神様の心情がどこにあるかというとき、祈りの中で声を聞いてみれば、「先生の言うことをよく聞きなさい。先生を悲しませてはいけない。先生を喜ばせてさしあげなさい」と言うのです。それしかありません。そのように教えてくれます。そして、先生に会いたくて眠らずにいると、霊界が開かれるというのです。霊界が開かれます。先生がアメリカで何をしているのか、座ったまま見るのです。そのようなことが起こります。これは漠然としていた信仰の主体的対象を、現実的な実体的主体として横的舞台で体恤できる領域を形成したということです。このような事実は、宗教世界に偉大な革命を提示するのです。ですから、体恤がなければならないというのです。
7 皆さんは、今まで統一教会に入ってきて働いたといいますが、どの位置で働いたのかを考えなければなりません。自分が生活する立場で、個人的な生活と和合して働いたのか、天を中心として世の中と和合しようとしたのか、方向がどこで、位置がどの位置なのかを常に考えなければなりません。ですから、祈りながら、神様が「私」と共にいらっしゃるということを知らなければなりません。
それは、目を閉じさえすればすぐに分かります。祈らなくても分かるのです。どこかに行って話そうとすれば、言葉がすらすらと出てきます。良心のある人のところに行けば、「私」が引き込まれていきます。すべてが相対的です。自分の主体や対象になれば引きつけるのです。初めて出会ったからといって、相対にならないのではありません。その本質は永遠不滅です。それと同じように、そのようなところに行けば、心がうれしくて話したいのです。その境地に入っていけば、話そうとしなくても口が開くのです。