天聖経: 第178話
日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー
第六篇 真の万物
第四章 自然と海についてのビジョン
第四節 海釣りの深い意味 5-16
5 先生は、温度に合わせて釣りをします。どれくらいの温度の場所には、どのような魚がいるか分かるのです。釣り糸を何度か垂らせば、魚がもう餌をつつくのです。釣り竿を早く巻けば上に上がり、ゆっくり巻けば沈むのです。ゆっくり巻きながら、今、水面の何分の一の所に針が流れているか、すべて分からなければなりません。今このような気温なら、大きなさけはどのくらいで来る、ということが先生には分かるのです。さけは普通、海底にいます。底に餌がたくさんあるからです。虫やかにのようなものがそこにいるので、海底に集まるのです。
6 釣りをするために海へ行くのではありません。アラスカ精神とは何かというと、さけの精神です。さけは、子供を産むために四千マイル、五千マイルの大海を渡り、昔旅立った自分の故郷に訪ねてきます。
人間の復帰路程もこれと同じです。何千万里離れたとしても、再び訪ねていくことができなければなりません。
釣りをするにおいても、これ以上興奮する釣りはありません。それがどれほど強いか分かりません。他の魚が食いついたときは、何度か巻けば出てくるのですが、これは数十回巻かなければならないのです。
7 先生は、かなり上手に釣りをします。四十日以上、夜も昼もやってみました。先生が釣ろうとする魚は、すぐに食いつくようなものではありません。「それに食いつけ、めだかのような群れよ、集まれ」と言いながら、最後に大物が食いつくように待っているのです。
今皆さんがやっている伝道を、同じように考えてみなさいというのです。今、ひもが垂れているのかどうかも分からないまま、出ていって伝道しています。しかし、それを引っ張る時が来るのです。ですから、いくらでも待ちなさいというのです。大きく決心しなければなりません。今、そのような標準をもって進んでいるので、皆さんは一気に伝道しようという、せっかちな思いをもってはいけないというのです。
8 船に乗り、釣り竿から糸を垂らして座っているときの退屈さは、到底言葉にできません。そこで散歩ができますか。狭苦しい所で動き、そこで科理をしなければなりません。そこから映画を見に行けますか。友人の所に遊びに行けますか。静かにしなければならないので、音楽も聞けないのです。ですから、海を見つめながら、海や空と対話するのです。
海と空が一つになる、そこに先生が一人いれば、本当に気分が良いのです。そこでは、神様もお一人、先生も一人なので、その気分が通じるのです。魚を釣りに来たのに、そのようなことを考える人は、歴史上、先生一人しかいないでしょう。
先生はなぜ、頻繁に海に出るのでしょうか。霊的に、すべての面において利益が多いというのです。一日中家にいれば、精神が散漫になり、世界宣教や教会問題など、全体を考えなければならないのに、その何分の一しか考えられません。しかし、海に出れば、全体的に考えることができるのです。そのような面において、海はとても良いのです。「だから『釣り道』という言葉が出てきたのだなあ」と感じるのです。
9 先生は、釣りに行くにしても、どこに行くにしても、多くのことを考えます。長い間釣りをした人は、釣り竿を十回垂らせば十回考え、百回垂らせば百回考えるのです。ですから、十回垂らしながら百回考えるようになれば、先頭に立つことができるのです。
10 ハンティングは肉体運動として、肉体の健康のためのものであり、釣りは、精神の健康のためのものです。座って釣りをするときは、自分の一生を回想し、本当にたくさんのことを考えるのです。そのような時間をもてるのは驚くべきことです。自らの過去を分析し、未来の生活を設計できます。私たちにとって最も重要な時間となるのです。威厳を備え、自分自身を静かに省みることができます。それが絶対に必要です。これを東洋では「釣り道」といいます。
ですから、何年か釣りをすれば、魚を釣っても放してあげたいと思うのであって、釣った魚を食べたいという思いは全くなくなります。それが本当の「道」です。食べたい思いがなくなるというのです。ですから、どれほど道徳的、精神的な発展になるか分かりません。そのようなことを学べば、残忍性をなくしてしまえるのです。何かの部署の長になれば、その部署の人々に紳士的に対せるようになります。このすべての人間を和合できる、一つの道場になっているのです。
11 歴史は新しい世界をつくっています。ですから、先生を指さして「間違っている」と言うことはできません。先生は恥ずかしくないというのです。魚の顔を見て話すのです。日中座って釣りをしながら、「お前たちは私のような男に初めて会うだろう。お前たちを捕まえるのが目的ではない。お前たちを連結させ、漁場を中心として人類の飢餓を解決するためだ。それが、お前たちの創造された本然の目的ではないか。そのようになれば、お前たちの肉を食べた者は悪いことをしなくなるだろう」と言うのです。
12 先生が釣りをするとき、「私が主人だ。来なさい!」というと、魚が集まってきます。そうすれば餌をあげるのです。ですから、釣りをすれば、いつも周りの人々よりもたくさん釣ります。おかしいというのです。どうしてそうなるのか、理解できません。縦的な神様を中心とすれば、そうなります。そこから特別な光が出るのです。皆さんから普通の光が出るとすれば、先生からは特別な光が出るというのです。その光を魚が見るのです。それで、いくら「来るな」と言っても魚が押し寄せてくるのです。
13 先生は釣りに出て、最初に釣った魚は放してあげます。神様が造って解き放つという思いをもって、放してあげるのです。そして、今まで先生が釣った魚は、食べませんでした。二千万の神様の息子、娘が飢え死にしているのに、魚が自然死するのを許せないのです。「お前を釣って二千万の神様の息子、娘を生かしてあげなければならない」というのです。動物、あるいは植物が生まれた原則がそれなので、それに対しては有り難く考えなければなりません。そのような意味で、釣り大会に出れば、先生の釣り針には魚がよく掛かり、一般の人の針には掛かりません。精誠です。「神様が造った水の博物館に潜って入っていくことはできないので、一度水の中から飛び出してきて、神様が解き放つときの喜びを私に鑑賞させてほしい」というと、自分から訪ねてきて釣られるというのです。
14 真の愛をもてば、何でも統一が可能です。動物世界や植物世界、毒蛇までもすべて保護してくれるというのです。先生が釣りをするときは、「魚たちよ!私がお前を釣るのは、私のためではない。世界で飢えて死んでいくあのかわいそうな人々に、神様が涙を流しながら食べさせてあげたいと思う、その心情に代わって釣るのだ。私のためではなく、子孫と万民のために釣るのだから、お前たち、許してくれ!」と言うのです。それで、最初に釣ったものは食べずに、祭物として放してあげのです。愛を受ければ、その前に生命を捧げようとします。ですから、船に乗った十二人が釣った魚のうち、三分の一は先生が釣ったものです。周りで魚たちが見分けて、「先生の釣り針にだけひたすら食いつけ!」と考えるのです。
15 船に乗り、青い海で魚を釣ることは、神様の復帰摂理、救援摂理と同じです。堕落した人間が魚だとすれば、それと同じです。良い餌を用いなければならず、次に丈夫な糸を結ばなければならず、釣り竿も良いものでなければならず、すべての物をそろえて釣らなければならないのであって、糸も弱く、餌も悪く、釣り竿も悪く、釣る技術も悪ければ、釣れないというのです。世の中で生きるのも、魚を釣るのと同じです。
16 この世の中で成功しようと思えば、自分自身が釣り竿のような立場で釣り針を作り、良い糸、良い餌をかけて釣らなければなりません。ただそのままでは釣れません。それに相対的な条件が合ってこそ収穫ができるのであって、相対的条件を合わせなければ収穫をもたらすことはできないのです。ですから、一人で生きるのではありません。全体、すなわち万物と人類、天地、神様と共に生きるのです。
万民が見つめる目、良い目、良い五官、良い体、それも神様が見つめる五官、そのような良い体として共に生きることを自覚しなければなりません。それを感じて暮らせば、その人には宗教が必要ないのです。