天聖経: 第190話
日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー
第七篇 地上生活と霊界
第二章 霊界とはどのような所か
第一節 霊界の実相 22-31
22 祝福を受けた家庭は、国のためにすべて祭物にならなければなりません。天国か地獄かは、ここから分かれるのです。聖書をよく知って話を上手にすることで天国と地獄が決まるのではありません。実績と心情が問題になるのです。結局、天国と地獄の境界線は、心情の境界線、実績の境界線で左右されます。
23 良心を解放しなければなりません。皆さんの心は天国の監視所であり、皆さんの体は地獄の監視所です。皆さんの体が心を引っ張り回しますか、心が体を引っ張り回しますか。宗教を信じる人々は心が体を引っ張り回しやすく、宗教を信じない人は、体が心を引っ張り回しやすいのです。自分を中心として生活するのです。それが違うのです。ですから、地獄の出発地が「私」であり、天国の出発地も「私」です。心の願うとおりにすれば天国に行くのであり、体の願うとおりにすれば地獄に行くのです。人のために生きれば天国に行くのであり、自分のために生きれば地獄に行くのです。
24 霊界では結婚がありません。どれほど深刻な問題か考えてみてください。腕が一本なく、足が一本ないことが問題ではありません。ですから、不平を言わなければなりませんか、言ってはいけませんか。不平を言えません。喜ばなければなりません。涙を流しながらも、喜んで行かなければなりません。涙を流しながらも、笑顔で行かなければなりません。天国に行くか、地獄に行くかは、自分が決めます。先生が決めるのではなく、神様が決めるのではなく、自分が決めるのです。不平を言えば地獄であり、不平を言うところで感謝しながら行けば、天国だというのです。
25 霊界はどうなのでしょうか。混乱した人間たちが霊界に行って固まっているので、霊界も混乱せざるを得ません。盗みを働いた前科者は、常に盗みを働いて食べるようになっています。ですから、地球星で盗みを働いて食べた者たちは、天上世界に行っても、ただで得ることを願うのです。それで、処置に困って地獄というものが生まれました。地獄は神様がつくられたのではなく、生まれたのです。ごみ箱を作っておいてから、家を建てますか。家を造って暮らしてみたら、ごみ箱が生まれたのです。それと同じことです。
26 自殺することは罪の中の罪です。宇宙を破綻させるための邪悪な行動です。そのような人は、地獄の中の地獄に行かなければなりません。このような事実を知るようになれば、自殺することができません。「私」は誰かというと、父母の生命の連結体です。「私」は、父と母の二つの生命が一つに結合されたものです。共に連結されています。そして、「私」は、父母の愛の同参者です。父母の愛と一体であり、愛の一致が成されているのです。
27 地獄というところは、一度はまれば脱け出すのが難しいところです。それでも、皆さんは、自分の父、母、そして親戚が地獄に行くことを実感できません。ただ「どうにかなるだろう」と思って、それで終わりです。しかし、愛する父母が本当に地獄に行くと考えてみてください。この世の監獄に入るだけでも、泣いたりわめいたりしながら、ありとあらゆることをして引っ張り出そうとするのが人情であるならば、まして天情によって結ばれた息子、娘が、自らの父母と親戚、兄弟・姉妹が永遠に出てこれない監獄に行くことを知れば、そのようなことを考えるでしょうか。皆さんは、まだ何も知りません。地獄があるのか、ないのか、あると思っていてもどのようなものかを知らずにいます。確信がなく、ぼんやりとしているでしょう。しかし、死んでみれば分かるのです。死んでみれば一度に分かりますが、その時ではもう遅いのです。
28 再臨の一日が来れば、天国でない楽園と地獄のどん底に、新しい理想圏をつくっていくのです。地獄のどん底でカインとアベルを探して、新しい神様の家庭圏を形成するのです。新しい神様の氏族圏、新しい神様の民族圏、新しい神様の国家圏、新しい神様の世界圏を形成して、地上にいる人たちをすべて蕩減復帰しなければなりません。
カイン・アベルの問題を蕩減復帰して、すべてを吸収、消化し、統一した世界を地上で編成しなければ、天国を築こうとする神様の希望を解怨成就する道はありません。それでイエス様も、「あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」(マタイ一六・一九)と言いました。地で天国を築かなければ、天上世界に天国が生じません。地上に天国の主権を立てなければ、霊界で善の主権を回復することができないという、とてつもない事情が内在しているのです。
29 自分を考える立場では、天国に行ける道は生じません。自分が天国と距離が遠いことを発見するようになれば、自分というものを打破してしまわなければなりません。自分を打破するところでのみ、天国、あるいは間接的な天国が開放される道が開かれます。
しかし、自分を擁護する立場で、相手を自分に適用させようとする人、自分自らを主体的立場に置いて相手を引っ張っていこうとする人は、天国とは関係を結べません。天国は自分から成し遂げられます。いくら相対的天国が完備されたとしても、その天国が呼び求めるときに、それに応えることができる自分自身になっていなければ、その天国とは関係がなくなります。
天国は、サタンを克服したところです。皆さん自身だけを克服したところではありません。堕落した世界圏、習慣的な環境圏、あるいは常習化したところには、天国は臨むことができません。この常習化された環境を、サタンが凝り固まって支配し、サタンがここに寓居しているので、このサタンの環境を克服してこそ、天国が訪れるのです。
30 天国は、サタン世界の内容と相反するところで完成されます。もし、そのようになっていなければ天国に成りません。天国という名前がついていても、それは環境をたぶらかすためのトリックにすぎません。天国という概念は、サタンを屈服した場所で、サタンが相対できる一切の要因を否定した場所で、否定するだけでなく清算した場所で成立するのです。サタンの否定的条件が残っている歴史的な遺物や、生活のすべての内容を否定して清算した基盤において、天国が肯定されるのであって、それを残していては天国の内容を提示することはできないのです。
31 統一教会の人たちは、どのような人になるべきでしょうか。内的世界にも入ることができ、外的世界にも出ていくことができ、また、出てから入ってくることもでき、東西南北を自由自在に訪ねていける人になるのが理想的です。内的世界が主体になって、外的世界を主管する人をつくろうというのです。
外的世界は、悪が侵犯したために、その世界に行けば地獄に行き、内的な世界に行けば、善の霊界である天国に行くのです。本来、この外的世界と内的世界を自由に往来できれば、どこにでも訪ねて行くことができ、天国にも行くことができるということなのです。それを知っているがゆえに、「どこに行っても歓迎される人になってみよう」というのが先生の主張です。それが神様の主張です。