天聖経: 第185話

日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー

第七篇 地上生活と霊界

第一章 人間の本然の生と死

第三節 死とは 9-19

9 死は、胎児が、へその緒と子宮を破って出てくるのと同じです。この制限された世界から、神様から愛される位置に帰っていくのが第二の出生です。それがすなわち死です。それで、第一先祖がいて、第二先祖がいるのです。父母から愛されて生きていたこの世の中から、無限の父母、永遠の父母である神様の愛の位置を訪ねていき、神様の懐に抱かれて無限大の生命と愛の関係を結び、愛を空気のように吸いながら永遠に生きられる本郷の地に帰っていくのが人生の道です。ですから、神様から出発したので、このような愛の実権を「私」がもっていくことによって、「私」が神様と同じになるのです。愛を中心として対等な価値をもつようになります。

 

10 人間は、神様から生まれたので、いずれにせよ霊界に帰らざるを得ません。韓国語の中でおもしろい言葉が、「トラガンダ(帰る、亡くなる)という言葉です。どこに帰るのでしょうか。共同墓地に行くのは帰ることではありません。出発した元のところに帰るという意味です。その出発地は、共同墓地ではありません。はるか遠くの歴史の起源を越えて帰っていくのです。

「人間が帰る」というのは、韓国人として生まれて韓国人に帰ることを意味するのではありません。韓国人として死にはしましたが、韓国人に帰る、その道ではありません。人類の先祖の根源世界に帰っていくという意味です。創造主がいらっしゃるところに帰るということです。そこから出発したので、そこに帰るというのです。

 

11 韓国では、年を取って死ねば、「トラガショッタ(お亡くなりになった、お帰りになった)」と言います。祖父、祖母がなぜおられないのかと聞けば、「トラガショッタ」と言うでしょう。どこに帰ったのですか。霊界に帰ったというのです。本来、無形の神様から出発したので、本然の故郷が無形の世界です。無形の世界から有形の世界を経て、地上で繁殖して生きたのち、再び無形の世界に帰るようになります。そのように帰っていくのです。無形の父から出発して、有形の父を通じ、母の体を借りて生まれて生きたのち、有形世界の体を脱いで本然の形態に帰っていくのですが、それが霊界に行くことです。

 

12 人間は、生まれれば死ぬようになっています。死んでどこに行くのでしょうか。煙となって消えてしまうように消えてしまうのではありません。必ず霊界に行くようになっています。霊界に行くようになれば、霊界の国があります。その霊界の主人とは誰でしょうか。神様です。ですから、その神様の息子、娘にならなければなりません。神様の息子、娘になることができなければ、天国に入ることができません。

 

13 皆さんは、霊界の事実を知らないかもしれませんが、先生は神様の特別な恵沢を受けて、未知の世界についてよく知っています。その世界の根本を掘り返してみると、原則は簡単でした。その世界は、神様の天地の原則、理想的根源のために生きた人だけが行くところです。そのような内容で形成された世界が、理想天国です。そこが、私たち人間が訪ねるべき本郷です。私たちは堕落した人間として、本郷から追放された人間になったために、本郷の地に向かって帰るべき運命にあるのです。しかし、そこには、人間がそのまま入ることができないので、神様は、人間が入ることができる道を歴史過程に設定せざるを得ません。

 

神様の愛の世界に行くこと

14 私たちは、知っていようと知っていまいと、あるところに向かって進んでいます。「私」が動く時間にも進んでおり、休んでいる時間にも進んでいます。単に「私」だけでなく、この民族、あるいはこの世界、さらには天と地までも、あるところに向かって進んでいます。これは否定できない事実です。一生を経たのちに、「私」はどのようなところに行くのでしょうか。これが、人間が解決すべき重要な問題です。宗教も哲学も歴史も、この問題を解決するために動員されています。

ですから、皆さん自身もこのような運勢に捕らわれ、引っ張られていることを否定できません。この問題を解決できなくても、私たちは、いずれ逝くべき運命に置かれています。私たちが生きたのちに死ぬ日、この体は土に埋められることによって終わります。体が埋められるその日は、心も、生命も、心情も、理念も、あるいは願いまでも共に埋められてしまうのでしょうか。この問題に対して、その内容と解決点と、はっきりした目的観を立てておかない人は、不幸な人にならざるを得ません。

 

15 神様が人間の父母であるならば、人間をどのように造ったのでしょうか。愛の神様が人間を造るとき、神様の愛に同参させた位置から出発したというのです。神様の心から出発し、神様の愛の懐で育ち、神様の愛の懐で成熟して家庭を形成し、この地上で世界的な愛と連結させることができる成熟者となり、神様の愛の懐に帰らなければならないのが人生の道です。

 

16 人間は霊的なので、その生命は永遠です。人々が天の前に忠誠を尽くし、天のために死の道も行き、多くの人が嫌だという道も希望を抱いて行ったのは、普通の人たちが感じられないものを感じ、普通の人たちが分からない価値を知ったからです。ですから、死の道も行くことができたのです。心が現実生活でぶつかる、逆境と困難と悲しみと死よりも、もっと強くならなければ、皆さんは死の前で後悔する者になり、悲しみと苦痛の前から後退する者にしかなれません。

 

17 皆さんは、父母から生まれました。根本的な立場で、どこから生まれたのかというと、「私」は、神様から父と母のおなかを通して生まれました。父と母が皆さんをつくったのではありません。皆さんが生まれたのは、「真の父母」を求めていくためです。宇宙の父母を通して、体の父母を通して、真の父母を訪ねていかなければなりません。ですから、死は、真の父母に会いに行く歓喜の時間です。

そこには、真の父母の真の愛があります。それを天上天国と言います。そこの構成要素は愛です。父母の真の愛が満ちあふれたところです。その愛は、奉仕と犠牲の原則を通した愛です。これは一般的な法度に通じます。そこに合格できる人になるためには、万宇宙を「私」が愛さなければなりません。この地上生活は、人類を愛するための試験場であり、訓練場所です。これが宇宙の根本です。人間が生きている時にこのような体験とこのような愛をもって生きて合格していけば、間違いなく神様のみ前に帰るのです。

 

18 人間は神様に似ようとし、神様も自分と似るようにさせたいという観念をもっています。ですから、人は、再び神様と似ることのできる体をもって生まれなければなりません。そのように生まれる日を神様も待ち望み、人間も待ち望むのです。そのような人として生まれる日が、死ぬ日です。

このような立場で、人間は、死を歓迎しなければなりませんか、歓迎してはいけませんか。歓迎しなければなりません。死ぬのですが、何のために死ぬのかというときに、「神様の真の愛のために死ぬ」と言うべきです。ですから、肉身を脱ぐのは、無限の神様の愛の活動圏に自分が同参するためであり、神様の愛の世界のためです。神様の愛の中に生まれることが死ぬことなのですが、人間世界では「ああ、死ぬ」と大騒ぎします。制限された愛の圏内から無制限の愛の圏内に突入する喜びの瞬間が、第二の出生の瞬間であり、それが死の道を通過する瞬間なのです。皆さんは、死の恐怖から解放されなければ、神様と関係を結ぶことができません。

 

19 人間には、生きる目的があります。ところが、生きていく人間の目的がすべて異なっています。「心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ!」と言うのは、何のためですか。神様の息子になるためです。ですから、神様を愛するためなら、命までも差し出しなさいというのです。そのようにしなければならない私たちは、最低の位置で死ぬことはできません。最高の位置で死ななければなりません。天国を中心として死ななければならないのです。天上天下に一つしかない天国で死ぬのです。死ぬにも方法があり、位置があります。韓国的なもののために死ぬことはできないのです。最高の位置、天上天下を通過した神様の心情の国を中心とする最高の位置で死ななければなりません。天国の真ん中で死に、天下が旗を揚げて歓迎する位置で死ななければなりません。

Luke Higuchi