天聖経: 第186話
日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー
第七篇 地上生活と霊界
第一章 人間の本然の生と死
第三節 死とは 20
第四節 天国とは 1-10
20 天の希望を抱いて暮らす人は、人間が悲しむ死の峠も、喜んで越えることができる人です。そのような人が天の希望を抱いて暮らす人です。ですから、皆さんは、死を前にして世の中の万事を恨んで嘆息する人にならず、喜んで天のみ前に立って自らの死の価値を誇ることができる人にならなければなりません。天は、このような希望の息子、娘を求めています。このような立場に立って天の喜びを感じた人がいるとすれば、彼は神様が愛すまいとしても愛さざるを得ません。そのような立場で天に対して泣いて求める群れがあるとすれば、天はそれに応えまいとしても、応えざるを得ないのです。
第四節 天国とは
1 天国は、膨大なところです。この宇宙よりもっと大きく、もっと広いい世界です。それは、形容できないほど膨大な世界です。そして、その世界では、愛する人がその世界のどこにいたとしても、「私」が「会いたい」と思えば、直ちに現れます。どのような心をもって会いたいと思うのか、あちら側ではすぐに分かるのです。来るやいなや、挨拶します。「このように思ってくれてありがとう」と相手が思ったことを言ってくれるのです。
ですから、心の世界を説明する必要がありません。説明する必要がなく、すべて感じるのです。そこに行って会えば、どのようなことを話すのか分かります。分かってから聞くのです。どれほど素晴らしい世界ですか。真の愛は直短距離を通じます。真の愛は直短距離を通じ、真の愛の速度は最高の速度です。愛する子女が外国に出ていたとしても、父母がその子女を思えば、すぐに子女のところに行くのです。距離を超越します。真の愛の速度は最高の速度なので、この膨大な大宇宙を自分の生活の活動舞台と定めるのです。時間と空間を超越するので、距離感がありません。すべて目の前にあるのと同じです。
天国は神様の愛に満ちあふれた世界
2 天国は、神様の愛の世界です。愛の空気を吸う世界です。そこには生命がぎっしり詰まっています。どこに行っても生命が躍動しないところがありません。そして、すべて血縁的な関係によって結ばれています。神様の一つの血統なので、神様が悲しむものがあれば、全霊界が一つの細胞のように、一つの体のように悲しみを感じます。
また、神様が喜べば、すべてが喜びます。そのような神様の愛が膨大な大天国を動かしています。生命圏がそこに呼応し、すべての万物の主体と対象を中心として、芸術的な美化の対象になっているのです。血統のように連結していて、神様が喜べば「私」もうれしく、神様が悲しめば「私」も悲しくなります。
3 「神の国は、実にあなたがたのただ中にある」(ルカ一七・二一)とあるのですが、その天国とは、神様の愛が中心になっているところです。神様の愛が中心となって関係を結び、普遍的で妥当な環境圏を設定したところが天国です。それでは、その圏に行ってとどまる人は、どのような人でなければならないのでしょうか。神様の愛の本質と和合できる人でなければなりません。そのような人以外には行くことができません。
神様の愛の本質と和合できる本質とは何でしょうか。自分を中心にしていく人は価値がありません。相手のために自分の生命を投入し、自分のすべての精誠を投入し、自分のすべてのものを与えようとした人だけが、神様の愛の圏内で存続することができます。
4 天国とは、準備したことをもって誇るところであり、侍る生活をしたことを誇るところです。それでは、その天国とは、どのような人が行くところですか。主を信じて恵みを受けようという人、恵みを前面に立てていく人が行くところではありません。天国は、侍るために心情的に準備する生活をした人が行くところです。準備する期間に死んだとしても、侍る生活を残して喜んで逝くことのできる人が行くところです。そこに復活があります。
侍るための準備をしたあとには、侍る生活をしなければなりません。準備する目的は、侍るためなのです。侍る生活をするためです。侍る生活はどのようにするのでしょうか。皆さんの環境をよく見てください。生活の内幕は現れません。どのように侍る生活をするのかということが、私たちが生きる生活の中で考えるべき重大な問題です。
5 天国は、心情を通じなければ行くことができません。天国は、全体を主管できる本然の国であり、本性の国です。その国は、何かの事情をもって所有することはできません。深くしみ込む心情関係をもってこそ、所有できる国です。ですから、事情が通じるより、究極的に心情が通じなければなりません。事情を越えて心情を謳歌できる基盤を築くところに、地に対して摂理する天の目的があります。
6 イエス様も本郷を創建するために来られましたが、その本郷を創建できずに亡くなりました。「神の国は、実にあなたがたのただ中にある」(ルカ一七・二一)と言われましたが、イエス様も天国を直接見ることができなかったのです。歴史過程に生まれては死んでいった立派な預言者や烈士、聖賢、君子であっても、その一つの場所を見ることができず、その一日を迎えることができず、堕落した先祖から悪の血統を受け継いだすべての人々も、本郷とはいまだに関係をもつことができていないのです。
ですから、すべての人は理想を探し求めていくのです。本郷を探すために行くのです。それでは、その世界はどのような世界ですか。お互いに反目し、人が成功すれば嫉妬し、人が喜べば耐えられないと思う世界ではありません。一人が成功するのは、全体を代表して成功することであり、一人が喜ぶことは全体に代わって喜ぶことなので、一人がうれしく思えば全体がうれしく思い、一人が喜べば全体がそれにつれて喜ぶところが本郷です。
7 神様を中心として喜びの生活にしなければなりません。天国化させなければなりません。天国は与えながら生きるところです。神様も与えなければなりません。父母は子女に与えなければなりません。良いものを与えたあとも、もっと良いものがあれば、それをまた与えたいと思うのが父母の心です。赤ん坊にどんなに晴れ着を着せ、どんなに良いものを食べさせたとしても、それで満足するのではなく、「もっと良いことをしてあげられないか」と思うのです。与えてからもっと良いものを与えたいと思うのが、父母の心であると同時に、神様の心です。
8 天国は、夫婦を中心として、その夫婦が生んだ息子、娘と一緒に行くところです。息子、娘、孫たちと共に、その一族を率いていくところです。さらには、国全体が行くところです。天国はこのようにして成し遂げられるところです。今日、宗教を信じる人々が「天国に行く」と言いますが、天国は一人で入っていくところではありません。絶対に一人では行けません。
9 天国は、本来の善の父母から生まれ、神様が喜び、宇宙のすべての被造物が彼と共に和動できる位置で夫婦になり、息子、娘を生んで愛し、その息子、娘たちにすべてのものを相続してあげてから行くところです。天国は、父は行き、母は行けないところではありません。父母、息子、娘、全員が行くところが天国です。
10 欲望の終着点はどこでしょうか。神様の愛を所有するところです。神様を所有したといっても、その中にもっと貴い愛を所有できなければ、神様は自分の神様ではありません。ですから、神様の愛を所有しなければなりません。その方のものが「私」のものであり、「私」のものがその方のものになるとき、初めて内外が一つになります。そのような国が、上下の等級のない理想の本国になるのです。そのような場に横たわるようになれば、天下にある存在の中で、良く見えないものがなく、天下にある存在の中で、自分のために存在しないものはないと感じるのです。そのようなものが神様の愛なので、今日人間が行くべき天上世界、すなわち天国は、愛で満ちあふれたところです。