天聖経: 第184話

日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー

第七篇 地上生活と霊界

第一章 人間の本然の生と死

第二節 二重構造で創造された人間 13-15

第三節 死とは 1-8

13 生心とは、心と霊が一つになって、一つの目的に向かって新しく動くものです。神様を中心として良心と一つになった「私」、霊肉を中心とした理想的な「私」をつくり出すことができる動機的心です。ですから、その生心がなければ、霊界と真の愛と関係を結べる自らの根源を見いだすことができないという結論が出ます。生心が正しく機能すれば、体も喜んでそれに寄っていきます。自動的に一つになります。

今まで、人間にとって一番の問題となることは、心と体が互いに離れていたということです。霊的な力が「私」に臨んで生心的起源さえできれば、心と体が自然に一つになります。そのような根本において革命が展開し、根本において是正する根源を発見できない限り、私たちには理想を訪ねていく道理がありません。動機があってこそ結果が出てきます。

 

14 心は縦であり、体は横です。心は縦的な「私」であり、体は横的な「私」です。二つがあります。縦的な「私」は心であり、横的な「私」は体です。すべてのものが同じ構造になっています。公式的に同じ構造です。上がっていくものと下がっていくもの、木も二種類です。根から栄養素を吸収し、葉で栄養素を作ります。太陽の光を受けて葉緑素を中心とする栄養素を作って供給し、地からはまた地の栄養素を吸収して、お互いに交流します。「統一原理」で言えば、生力要素と生霊要素の関係と同じです。その二つの要素が授け受けするのです。

 

15 霊的な御飯を食べなければなりません。おなかがすいている時、肉的な御飯と霊的な御飯のうち、どちらがよりおいしく感じなければならないでしょうか。「私」が生き残って神側に立つためには、霊的な御飯の味が肉的な御飯の味よりももっと良くなければなりません。霊的な力を中心として生きる生活の味が、肉的な力をもって生きる生活の味よりもっとおいしく感じなければならないのです。

1 私たちが神様に似たいと思い、神様も私たちを神様の息子、娘として御自身に似るようにさせたいという願いをもつのは当然のことです。ですから、人は再び神様に似ることのできる体をもって生まれなければなりません。神様と人間は共に、永生する日を待ち望みます。そのように生まれる日、そのような体に生まれる日、その日が正に、肉身を脱ぐ死の日です。

 

そうだとすれば、人間は死を歓迎しなければならないでしょうか、それとも悲しまなければならないでしょうか。もちろん歓迎しなければなりません。それでは、私たちが死ぬとき、何のために死ななければならないのでしょうか。神様の真の愛、すなわち、ために生きる愛のために死のうとしなければなりません。ですから、肉身を脱ぐというのは、無限の神様の愛の活動圏に私たちが同参二緒に参加するするためであり、神様の愛の世界のためです。

 

2 病気にかかって死にそうになれば、昏睡状態になります。死んだのか死んでいないのか分かりません。そこから、自分が行って暮らすべき場所のすべてのものを見るようになります。自分が行って暮らす場所にいる同志たちが来て、自分を歓迎してくれ、また、果てしなく広がる豪華絢爛な天国を見て、「私も早く行かなければならない」と思います。それで、行ってみると死ぬのです。

少しずつ少しずつ良いところに向かって、一次、二次、三次の門を通過するようになれば、あの世に入っていき、刈り取られるのです。死は、落胆したり、気落ちしたりすることではありません。落ちるのではなく跳躍するようになります。昇華するのです。ですから、死に対する恐怖をもってはいけません。死は、このような自然の循環法度によって訪れます。もっと良い世界に移してもらうための手続きです。

 

新しい人生の出発

3 一般の人々は、死ねばすべてなくなると考えますが、そうではありません。霊界があるので、そのまま続くのです。霊界に行くためには、地上で準備をしなければなりません。霊界に行けば愛で呼吸するので、地上で愛を中心として生活してこそ、そこでも自由に呼吸できます。地上で愛を中心として生活しなければ、そこで自由に呼吸できません。霊界は、愛を呼吸する世界です。愛の空気のような世界だと考えればいいのです。第二の新しい出発を「死」というのです。ですから、そのように恐れる必要はありません。死は、新しい出発の門を開くことです。

 

4生命と死について考えてみるとき、どちらが強いですか。死より生命が強いですか、生命より死がもっと強いですか。サタン世界では、生命より死がもっと強いのです。ですから、み旨を知ったのちには、死ぬべき立場で死ぬことを嫌がってはいけません。死んでこそ復活します。

それでは、聖書で言う死ぬこととは何を意味するのでしょうか。神様が、永遠の生命を奪うということではありません。堕落世界のサタンの血統を受け継いだ生命を奪うというのです。ですから、み旨のために死のうという人は生きるということです。

 

5 人間が肉身生活を終えたのちには、第二の出生をします。これが死です。第二の出生をして、行く世界が正に霊界です。その世界に入って、第三の父母である神様から宇宙全体を代表した愛が供給されます。理想的な愛が供給されるのです。ですから、霊界では統一されざるを得ません。死ぬ瞬間からは第二の空気世界を振り払って、新しい第三の愛の呼吸器官に連結されなければなりません。父母の愛、兄弟の愛を振り払って霊界に入り、結局は大宇宙の神様の本体と一つになった愛の世界に入ります。種が本体から出てきたので、実を結んで、また本体に戻らなければなりません。

 

6 人間が死ぬのは、肉身では制限された愛でしか愛せないからです。無限大の神様の真の愛の対象的実権をもとうとすれば、制限された肉身だけではできません。ですから、無形の霊にならざるを得ません。さらに、愛の理想を全天地に広げて実現するためです。ですから、死は苦痛の道ではなく、宇宙的真の愛を所有できる幸福の門を開く時間です。

死は、這って歩き回る地上世界から、ひらひらと飛び回って暮らすことのできる世界に移ることです。全宇宙を自分の舞台にして、真の愛で楽しめる旅行者の資格をもち、そのような世界に入門するために死の道を行くのです。ですから、死ぬことは正に、新しく生まれることです。

 

7 私たちは、いつかは肉身を脱いで霊界に行かなければなりません。したがって、この世の中に生まれた私たちは、死を覚悟しなければなりません。また、善の自我を第二の「私」として永遠の世界に立てるためには、苦労しなければなりません。母親の腹中で胎教を正しく受けてこそ、健康で善の赤ん坊が生まれるのです。この地上世界においての生活は、腹中での生活と同じです。ですから、神様の形状を模範として、神様の心情を模範として、神様の聖なる神性を模範として育たなければなりません。育ってまた命を懸けて越えていかなければなりません。

 

8 死は第二の出生なので、悲惨ではありません。アダムとエバが堕落していなければ、神様と共鳴圏で暮らしていたはずです。心と体が共鳴するというのです。それで、私たちが地上で愛を中心として生活するようになれば、霊界の愛と同じ波長基準になっているので、地上で暮らしながら霊的世界を感知することができます。

地上で父母から生まれて父母と共に生きながら、父母から学んで地上生活を完成させるのと同じように、天上世界の愛の母体である神様を中心として生まれ変わり、天の父母と共に永遠の愛の世界で、内的五官を完成した神様の息子、娘として、神様の友として、神様の体として生きていくのです。ですから、死んでなくなってしまうのではありません。死は第二の出生であり、有限な世界から無限の世界に行くときに境界線を突破するためのものであり、峠を越えるためのものなのです。

Luke Higuchi