天聖経: 第153話

日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー

第六篇 真の万物

第一章 万物創造とその意味

第二節 万物創造の意味 15-24

15 神様は、絶対信仰の上で万物を造りました。宇宙の存在物をそのように貴く造ったのに、それを信じられず互いに争う人々は、万物を見るのが恥ずかしいことを知らなければなりません。流れる川の水を見ても恥ずかしく、飛ぶ鳥を見ても恥ずかしいのです。きりぎりすや昆虫も、万物の本然の信義をもって、人間よりも立派な生活をしています。

絶対信仰の中で造った被造物が、そのような価値をもっていることを考えるとき、私たち人間が堕落して、絶対信義を見つけることができないというのは、天を見るのも恥ずかしく、あの山と川のすべての草木と昆虫、ひいては病原菌を見るのも恥ずかしいというのです。病原菌までもが信義をもって生きているというのです。神様が神様となったのは、絶対信仰を立てて絶対愛を実行したからです。

 

16 万物が神様に、ぷつぷつと不平を言いますか。絶対信仰、絶対服従です。全体を犠牲にしても不平を言わないのです。鉱物は、植物の前に全体がのみ込まれても不平を言わないというのです。植物は動物に、動物は人間に、人間は神様に、そうだというのです。同じです。神様のためには生命を捧げなければなりません。万物全体を神様が絶対信仰、絶対愛、絶対服従の伝統で造ったため、自分自身が残っていれば神様に帰ることができないのです。

 

 

17 独りで存在する万物はありません。万物は必ず主体と対象になっています。すべてペア・システムになっているのです。ペアで宇宙を創造したところから絶対信仰観が出てきます。ペア・システムが生じたのは愛のためです。ですから、絶対信仰の上に愛の道が関わるようになります。絶対信仰の上には真の愛が植えられます。鉱物世界、植物世界、人間世界もやはり同じです。真の愛が植えられる、万物のすべての価値を身代わりした立場でアダムとエバが完成しなければなりません。神様のように絶対信仰をした、その愛の実体にならなければなりません。神様に対して絶対信仰し、絶対愛で愛さなければなりません。

 

18 神様は、エデンにおいて、絶対信仰で万物を創造しました。農作業をするのと同じです。それは、愛する息子、娘が摂取して生きていける元素だからです。そして、神様御自身が絶対投入しました。神様が威信を忘れ、息子、娘のためにゼロの位置に上がるのです。宇宙は円形運動で動くので、ひたすら押せばぐるぐる回ります。宇宙が愛の理想を完成した一つの存在にならなければなりません。

ですから、それが連結されさえすれば、その中に神様が来て合体し、地上世界と天上世界、心の世界と実体世界が一つになって動きます。そうすることによって、真の愛を中心とした家庭、氏族、民族、国家、世界と天地が一つになり、霊界と肉界が一つの目的のために循環し、永遠に回る世界が地上・天上天国です。

 

19 人間と万物、人間と人間、人間と天の間にも、厳然とした創造原理的関係が予定されています。森羅万象の個性真理体が調和と統一の中で成し遂げた総合体である大自然は、人間に対して絶対対象の位置に立ち、主体である人間の絶対価値を実体化させる絶対的役割を果たすようになるのです。

それと同じように、人間においても、家庭という基本枠の中で三代圏を形成して暮らしながら、上下、左右、前後の縦的、横的関係を学び、身につけるようになります。個々人が、個性真理体としての絶対価値を実体化する主体と対象の関係による授受作用を通し、和合と愛の人生を追求するようになるのです。

人間と神様はどうでしょうか。創造主として絶対、唯一、不変、永遠の立場にいらっしゃる神様も、知ってみれば、御自身が立てた創造原理圏内で被造万物と授受作用を継続しながら、主体的立場に立っていらっしゃるのです。いくら絶対者であっても、対象との授受の関係を離れては喜びを感じることができないからです。

 

人間のための環境創造

20 天地を創造なさった創造主が天地を創造するとき、まず考える期間があったはずであり、準備する期間もあったでしょう。神様が、「このように天地万物を創造しよう」という決定的な計画を立てる前には、まず考える期間があったというのです。その後、立てられたその計画を中心として準備する過程を経て、実践段階に越えていきました。このように天地を創造したというのです。天地創造がそうだったということは、神様がそのような方だということを意味します。神様も、考える期間から準備する期間、実践する期間がありました。そのような過程を経て天地万物を造られたのです。

 

21 万物を中心として見てみるとき、実体というのは、より発展的な蘇生の形態に違いありません。このような実体が現れたところに、初めて喜びが生じます。また喜びが生じれば、そこから和動の役事(働き)が起こります。そうして現れた実体が、ある段階まで発展過程を経れば、そこに初めて愛というものが加わります。これが、神様が被造万物を創造された過程の形態です。

先に考えがあり、そこにみ言がプラスされて実体を形成し、その実体の上に愛が加わるというのです。このような創造過程を通して万物が生成されたのです。考える段階から体系的なみ言の段階に進んだとき、すなわち、漠然と「こうこうこのように創造しなければ」と考えている段階から、具体的な内容を添付し、一つの理論的体系を備えたみ言の形態を完成したとき、そこには言葉にできない喜びが生じるのです。

 

22 ある作家が自分の構想したものを作品に表現したとき、完成した作品を見れば、喜びが生じます。さらに、その作品が映画化されたり劇になったとき、それを自分が見れば、そこにはより大きな歓喜が生じるのです。心で思ったことが理論的に体系化され、体系化されたその理論を基盤として実体が備えられ、その実体が全体と関係を結べるようになり、全体が願う喜びの内容になれば、その実体は最も貴い存在になります。人間を見るとき、神様が天地創造の理念を中心として人間一人を創造するために、無限に苦労されたと考えることができます。どのような過程を通じ、どのような形で造るかを考えたのです。

 

23 人間も、み言によって創造されました。人を造る前に、人の形はこうだと説明できる体系を模索したあと、その基盤の上に、実体的な万物と連結させて人間を創造されたのです。このように、一つの実体として創造された人間が全体万物の前に中心存在として立つようになるとき、神様はより大きく喜ばれるのではないですか。

そこにおいて、神様が喜ばれる価値の内容が決定されるのです。アダムが正にそのような立場に立つことによって、その基盤の上にエバを造りました。ここで初めて愛が生じるのです。愛は必ず横的な基盤を通して、相対的な価値の内容が決定したところで成立します。

 

24 神様が創造されるとき、まず何を造られたのでしょうか。霊界を造り、その次に万物を造り、人間を造られたというのです。そして、人間を造り、愛によって神様と一つになるのです。まず霊界、二番目に万物、三番目に人間、その次に愛です。愛によって神様と人間が一つになるのです。再創造過程においては、これを引き返しながら蕩減したという条件を立てなければ、帰る道がありません。

 

Luke Higuchi