天聖経: 第152話

日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー

第六篇 真の万物

第一章 万物創造とその意味

第二節 万物創造の意味 4-14

4 神様は、六日間で造った被造物を御覧になり、無限に喜ばれました。その喜びの心をもって「良し、良し」と重ねて言われたみ言は、誰に言われたみ言だったのでしょうか。万物に向かって言われたみ言でした。万物に対して、それほど懇切な思いを抱き、語られたというのです。ところが、造られたすべての被造物が、エデンの園で「良し」と称賛されたその被造物が、善の価値を失ってしまいました。神様が誇ろうとされたそのみ旨が、万物の中において実体的に現れることができずにいるというのです。このような悲痛な事実を考えれば、神様が「良し」と言われたそのみ言が、悲しみのみ言になったというのです。

 

5 神様は、なぜ天地を創造されたのでしょうか。いくら絶対者だとしても、一人では喜びを感じることができず、たとえうれしいと思っても、喜びの刺激を感じることができないからです。絶対者がいくら「私は絶対者だ。私は愛の主人公だ。生命の主人公だ」と言ったとしても、絶対者一人では愛の刺激を感じることができず、天地が自分の体の中にあるという生命の刺激を感じられないのです。

 

6 神様は、どうして宇宙と人間を創造されたのでしょうか。それは、神様が心情をもっているからです。心情があるところにおいてのみ生命が現れることができ、生命があるところから発展運動が起きるからです。その創造には必ず目的があるのですが、その理由は、本来、心情というものが目的を指向するものだからです。ですから、創造目的は、心情を充足させる喜びにあるに違いありません。そして、この喜びは被造物、特に人間が神様に似たときに訪れるのです。

 

7 神様が被造世界をお造りになるとき、そこには喜びがありました。造ってから、見て「良し」と言われました。喜びがあったというのです。喜びとは何でしょうか。ある目的を成し遂げたときに感じるものです。造られた万物に神様の目的意識が内在していたので、創造された万物を前にして神様は喜びを感じられたのです。それでは、復帰された世界とは、どのような世界でしょうか。一言で言えば、森羅万象の個体を見て、神様を賛美する心情的な関係を立体的に備えた人々が暮らす世界です。

 

8 堕落前の人類の先祖は、神様が造ったすべての万物を収拾し、天のみ前に栄光の条件として、喜びの象徴的対象として、美の対象として、刺激を起こせる一つの外的な対象として立て、その万物から来る刺激を通して内的な刺激を起こし、天性の心情に対して栄光の実体であることを誇らなければなりませんでした。しかし、そのようになれなかったことが、何よりも悲しみになったのです。

それでは、天の心情に動じて生きていけるエデン、善と和合できるそのエデン、天のその理念によって生活できるそのエデン、見て、聞いて、感じるすべてのものが善の象徴であり、善を刺激しないものがないそのエデンにおいて、皆さん自身が天の心情に和合し、善の立場で神様を「父」と呼べる栄光のひと時をもてるとするならば、それは皆さんにとって最大の幸福となるでしょう。

 

9 被造世界は、誰のために生じたのでしょうか。それは、「私」のためにあるのです。私たちに喜びを与えるためにあるのです。ですから、人間は、自らが動機となって得た結果に対して、幸福を感じる環境を造らなければなりません。ここに、高次的な愛の理念へと発展させるためのみ旨があります。

人間は、万物を愛し、万物は人間に美を返す境地に入るとき、人間は和動の中心体になります。皆さんが目指す生活、願う生活、それ自体が重要なのではありません。皆さんの現在の生活で、その中心を探さなければなりません。どんな方法を通して、その中心を探せるでしょうか。和動の中心体の位置を失ってしまい、堕落した「私」自身が、その位置を探そうとすれば、どのようにしなければならないのでしょうか。

すべての存在物と比較して、それよりも大きければ主体になる、というのではありません。「私」は主体になるべきだという自信、言い換えれば、「あなたよりも優れていなければならない」という自信がなければならないのです。主体は絶対的でなければなりません。全宇宙が絶対的な主体と一つとなり、和動しなければなりません。皆さんは、そのような位置、すなわち万物を統合できる位置に、入っていかなければならないのです。

 

10 神様が万物を造るときに喜んだその心情を、どのようにして感じることができるのでしょうか。皆さんは、そのような神様の心情を体得しなければなりません。嫌いなものでも好きなものでも、それが問題ではありません。皆さんがこのようなことを体恤しようと思えば、丘に座って、朝から夕方まで、日が沈むまで、思索にふけるのです。時間がたつのも分からない圏内に入らなければなりません。そこで息を深く吸い込めば、この宇宙の空気が生命力をもって押し寄せてくるでしょう。

このように、宇宙の生命力と生きなければならないのです。そのように生きる「私」自身が息を吐き出せば、すべての存在が新しく覚醒し、深く眠りにつけば、万物が相対的に和動するのです。このような場が、万有を統治できる絶対者の位置です。その場に立てば、万物と相対的関係を備えて、皆さんが息を吐けば万物が受け入れ、吸い込めば出してくれるのです。このように愛を中心として万物と授け受けする関係を結べば、この宇宙が互いに授け受けするようになります。皆さんは、そのような関係において、絶えず和動の中心体にならなければなりません。

 

11 宇宙は神秘的な世界です。神様がいたずらや遊び道具として造ったのではなく、愛する人のために精誠を込めて造ったとすれば、この世界がどれほど美しいでしょうか。この宇宙は父が「私」のために造ったのだという、この上ない感謝の気持ちをもたなければなりません。そのような思いをもって丘を散策し、草木と花を見つめ、鳥の鳴き声を聞いて鑑賞し、水が流れ、風の吹くすべてのものを見るとき、それがどれほど立派で素晴らしいかというのです。

 

絶対信仰と絶対愛で創造された被造世界

12 絶対信仰、絶対愛、絶対服従です!これが、神様が創造する前にもった姿勢です。神様が万物を造るとき、「私の言ったとおりになる」という絶対信仰をもって造りました。その造ったものは、神様の愛の対象です。すべての微小な昆虫、植物世界、動物世界が、絶対なる神様の愛の対象として造られたのですが、その絶対なる神様の愛の対象物を、神様の息子、娘が摂取して育つようになっています。

私たちは、地の恵みと、万物の恵みと、空気の恵みと、太陽の恵みを受けて生きるのです。自分のものは一つもありません。誇るものがありません。絶対信仰の中で、絶対愛の対象として造られたそのものを摂取して生きようとするなら、絶対なる神様が創造されたのと同じように、自分のために生じたすべての万物に絶対信仰で対さなければならず、絶対愛で対さなければならず、絶対愛だけではなく、自分が主人となった立場で、生命までも投入して消化すべき責任があるのです。

 

13 神様がこの世界を創造するとき、神様は、一輪の花を造るにも将来の美しい愛の相対を想像し、絶対信仰、絶対愛、絶対投入しながらも、それを忘れてしまわれたのです。未練がなかったということです。極めて小さな万物も、愛する息子、娘の血と肉になり、自らの体の血と肉になるからです。絶対信仰、絶対愛、絶対服従は、漠然とした言葉ではありません。宇宙創造の前から、砂一粒のようなものさえも、人間にとって将来、愛の実体になれる栄養素として、血と肉になり、骨になり、骨髄になることが分かっていたので、絶対信仰、絶対愛、絶対服従の上に作ったというのです。

 

14 万物を創造するとき、主人が相対的な世界を造るために投入し、投入して忘れ、また永遠に投入して忘れることによって大宇宙が誕生したのです。そのようなすべてを包容して余りある、天的な愛の権限をもって神様が無限に投入したときは、創造された本体が無限の力をもつのです。絶対無限のマイナスになったときは、絶対無限の力が現れるのです。運動が始まるというのです。真空圏になれば風が吹きます。完全真空になれば垂直に落ちるのです。落ちたときは天地がひっくり返ります。上のものが下になり、下のものが上になり、完全に混ざってしまうのです。永遠で無限大の運動が無限に広がるため、宇宙は永遠に存在するのです。

 

Luke Higuchi