天聖経: 第167話
日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー
第六篇 真の万物
第三章 万物の嘆きと真の万物主管
第三節 真の万物主管 1-12
1 世界の主人は神様です。それでは、誰がこの地を治めるべきでしょうか。当然、この世界の主人である神様が治めなければなりません。そうでなければ、神様から愛を受ける、主人を代理する人が治めなければなりません。世界の主人は神様です。したがって、神様に忠誠を尽くす思想をもった人間が世界を治めるのです。
人類を永存させるためには、神様を主人として一つの世界、言い換えれば、より価値のある一つの世界、より永遠の一つの世界を成し遂げようという主義をもたなければなりません。それが何主義かというと、神主義です。神様の愛を受ける息子、娘になれば、「世界は私のものだ」と言えるのです。
公的に管理しなければならない万物
2 万物は、公的な法度による統治を受けるようになっています。公的な法度の主管圏内にあるというのです。人間も公的な法度の圏内に属しているのであり、万物も公的な法度の圏内に属しています。国家も公的な法度の圏内においてのみ、存続することができます。ここに私的な内容が介在するときは、存続することができないのです。
3 公的な人は、すべての万物を公的な世界の統治法で管理することができ、主管できるのです。その内容が正に天法です。皆さんがこのような原則を知っておけば、言葉を話しても、どんな行動をしても、罪にならないのです。悪を除去するための行為は罪になりません。三回以上、言い聞かせたのにもかかわらず、話を聞かないときは、打ってでも正してあげなければなりません。したがって、皆さんは、常に善と悪をえり分け、より大きなもののために生きなければなりません。天地のために生きる人々ほど恐ろしい人間はいないのです。
4 この世の中にある万物を見て、「お前は、公的な法によって治められるのを願うのか、私的な法によって治められるのを願うのか」と尋ねれば、「より公的な法によって治められたい」と言うでしょう。それはなぜでしょうか。人が最高の善の圏内に進みたいと思うのと同じように、万物も最高の善の圏内に進みたいと思うからです。ですから、世界のすべての万物と、すべての人間は、誰によって治められたいと思うのでしょうか。より公的な存在によって治められたいと思うのです。
5 皆さんは、万物を公的に管理できる人にならなければなりません。御飯を食べるときは、その御飯の価値を知って食べなければなりません。「お前は、どんな人の口に入ることを願うのか。お前は、どんな顔をもった人の口に入って骨となり、肉となり、エネルギーとなり、善の世界のために何を残したいと思うのか」と考えながら御飯を食べなければならないというのです。御飯がおなかに入るのは同じですが、たった一つの御飯粒でも、善の人に入っていくことを願うのです。より公的なものを願うというのです。
6 公的な物は恐ろしいのです。公的な物が個人の命を奪うこともあります。近頃は、都市の空気を汚染しないようにしようと言いますが、当然そのようにしなければならないのです。きれいにしなければ侵犯されます。また水もきれいにしなければなりません。このように、万物はすべて公的なものなのです。
太陽は生命の根源であり、無限の価値をもっています。私たちは、そのような太腸の光をただで受けています。太陽の光を買おうと、お金を用意して持ち歩く人を見ましたか。また太陽の光を受けたからと言って、一銭でも出した人を見ましたか。この太陽の光を売ると言えば、買いますか、買いませんか。水や空気、光などの自然物は、皆さん個人のものではありません。
7 今まで自分がもっていた物、もしくは自分所有の財産は、自分がしばらくの間、管理する過程にあるものです。すなわち、皆さんは管理人だというのです。各自がよく管理し、神様に奉献してさしあげるべきこの万物は、真の父母を経て、神様の懐に帰らなければなりません。言い換えれば、神様の物であると同時に真の父母の物であるという過程を経て、自分の物になるという事実をはっきりと知らなければなりません。
皆さんが今までこの地上で暮らしてきた慣例から見れば、ある物を指して誰々の所有だと主張することはできますが、そこにとどまってはいけません。このすべての物は、父母の名を経なければならず、神様の名を経なければなりません。そのようにしてこそ、復帰した万物の基準が完結するというのです。皆さんは、そのような日を迎えるときまで、所有主ではなく管理者です。ですから、主人に返してさしあげるそのときまで、管理人としての責任をしっかりと果たさなければなりません。このような観点から、公的な物と私的な物を明確に区分しなければならないのです。
8 皆さんは、公的な物と私的な物を、必ず秩序をもって区別しなければなりません。そのような過程を経て私的な物と公的な物の基準を明確にし、確固たる原則を中心として生きることができなければなりません。ところが、見てみると、大概は逆さまになっています。私的な物は大切に思い、公的な物はないがしろにしています。それでは絶対にいけません。
皆さんは、公的な物を大切に思うことができなければなりません。私たちがもっている私的な物を通して万物復帰の峠を越えようとすれば、まずそれを公的な物とし、教会であれば教会、国家であれば国家、ひいては世界の物にしなければなりません。ですから、公的な物をより重要視しなければならないのです。このように見るとき、万物よりも人であり、人よりも神様です。人間は、自分を中心として「私が一番だ」と言いますが、自分を中心としては世界復帰など話にもなりません。物よりも人であり、人よりも天です。天を中心として、すべての万物を見つめることができなければなりません。
9 皆さんが自分本位にもっている物は、皆さんの物ではありません。私が住んでいるその家が私の物ではなく、私が食べている御飯が私の物ではなく、私が使っているささいな日常の家の物すべてが私の物ではないというのです。これは、永遠無窮に継承できる公的な父を中心とした世界と、永久に関係を結んでいる公的な物であることを忘れてはいけません。私が着ている一着の服もそうであり、私がもっている生活基盤ももちろんであり、私がもっている体も私の物ではないというのです。
10 罪とは、公的な物を蹂躙することです。統一食口は、これからこのような点で最初から最後まで徹底していなければなりません。父の物は神聖な物です。その万物が神聖であってこそ、その万物を食べて生きる「私」の体が神聖になるのです。その万物が無限の価値をもつようになるとき、その万物を生活要素として暮らす「私」の体が無限の価値をもつのです。
そのような自分が無限の価値の公的な存在であると分かるとき、「私」はその公的な価値をもって家庭を統一しなければなりません。家庭を基盤として氏族、氏族を基盤として民族、民族を基盤として国家、国家を基盤として世界に前進していかなければなりません。より大きな分野に小さなものが吸収され、小さなものが祭物になっていかなければならない私たちなのです。
11 皆さんは、寝ても覚めても、父の国は私たちの国であり、父の民は私たちの民であり、父の物は私たちの物になるようにしなければなりません。これは、神様の心情と、「私」の一身を通して、心情的な二つの相対的基盤の上に乗せられ、生活し、存在することを願うことです。これが造られた被造万物です。
ですから、心情を取り去ってそれらを扱うのは罪だというのです。心情から外れれば罪になるというのです。私たちは、兄弟と向き合うとき、私たちの世代においては神様を立ち会わせ、神様の心情を連結させて向き合えなければなりません。そして、物質を扱うときにも、神様の心情を立ち会わせて扱えなければなりません。
12 「私」自身は公的な物をもっているのか、私的な物をもっているのか、これが問題です。皆さんは、「自分の物」という観念を超越しなければなりません。これが今後の世界人類に教えるべき最も大きな教訓です。皆さんは、自分の物という観念を否定し、公的な物であるという観念をもって進まなければなりません。
被造世界のすべての万物は、ある特定の個人に固着している所有物ではありません。自分の土地だと言って、それが良いと過度に誇れば滅びるのです。それは公的な物だからです。自分は、ただそれを管理しているだけです。その統治法に従って、自らが公的な管理人として管理すれば永遠に管理できますが、管理法に従わなければ滅びるのです。