天聖経: 第166話

日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー

第六篇 真の万物

第三章 万物の嘆きと真の万物主管

 第一節 万物と人間の関係 10-17

第二節 万物の嘆きと万物復帰 6-18

6 復帰摂理歴史を見れば、旧約時代には祭物を通して復帰してきました。最初は祭物を中心として人間と一つになるための摂理をして、次は、人を中心として神様と一つになる摂理をしました。これが今までの復帰摂理歴史です。これからは、このような出来事が皆さん自身で起こります。そうして、皆さん自身が祭物のような立場で万物と一つになり、その次に神様と一つにならなければなりません。このように、縦的に続いてきた歴史が今、横的に皆さんの家庭において成し遂げられなければなりません。

 

7 万物を主管するためには、男性と女性が「愛」という文字を中心として一つにならなければなりません。このときに万物を主管するのが原則です。神様がアダムとエバを祝福なさるとき、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ」(創世記一・二八)と言われました。生育して繁殖し、地に満ちて万物を主管しなさいということです。結局、家庭を築いてから万物を主管するのです。

 

8 人間は、新郎新婦の名を備えて真やテと)の家庭を築くときまで、万物を主管できる権限をもてません。人間が万物を主管しようとすれば、本来の基準、アダムとエバの本来の基準を復帰するときまで待たなければなりません。万物は一つになった人間に主管を受けなければならないので、本然の愛を経たのちに被造万物を主管するのです。万物は、愛の関係の中で愛を受け、愛の関係の中で尊重される立場で成長することを願います。そのようなところが、万物がとどまるべき永遠の場所です。

 

 

9 人間が堕落することによって本来の位置を失ったので、万物が嘆息するというのです。それで万物も、すべての嘆息圏を治める権限をもった神様の息子が多く現れることを待っているのです。このような息子が多く現れることによって、神様の息子の家庭を中心として、万物が主管を受けられるのです。万物はこのような時を願ってくるので、それを成し遂げるのが宗教の使命です。人間は、その時が成し遂げられるまでは、万物を主管できる権限がありません。

 

10 愛を中心として万物を主管する特権的価値を主張できる人がいません。本然の愛の心情で万物と向き合うことのできる基準に到達しなければ、万物を食べ、消化できる資格が私たちにはありません。万物は家庭に主管されるのです。愛に満ちあふれた家庭と共にいれば、万物が嘆息するでしょうか。しないというのです。万物も愛が花咲く場で主管を受けようとするのです。

今までの修道の基準は、そのような位置まで出ることができませんでした。そのような場に出なければ万物を主管できないので、その位置の主人になろうとすれば、新郎と新婦として二人が一つにならなければなりません。新郎新婦が家庭を築き、その家庭を中心として万物を主管するのが本然の法度です。そのようにするためには、失われた人間を取り戻さなければなりません。そのようにできなかったので、万物を主管できる特権的な権限を許されない立場にいるのです。

 

11 皆さんが着る服や一つ一つの必需品までも万物の一部分なので、自分が使っている日常生活のすべての必需品を、自分の生活の限界圏内にとどまっている万物として扱ってはいけません。すべてのものを、被造世界の万物を縮小させた直接的な相対物として扱い、その価値を世界的なものとして評価する生活をしなければならないのです。そうして自身の生活自体が一つの生きた祭物の表示になるようにし、その祭物となった環境を中心として、いつでも神様が臨在なさることができるという信念をもって生活しなければ、万物主管のための真なる家庭的基盤ができません。

 

12 すべての被造万物は、サタン圏内にいるサタンの子女を通して主管を受けてきたので、サタンの物であるという立場に置かれています。これをすべて神様の物として復帰しなければならないのです。復帰路程の原則的な基準から見るとき、万物はまず人類始祖の物にならなければなりません。もちろん、神様の物であることは言うまでもありませんが、神様が人間の前に下さった祝福の基準を中心として見るとき、人間始祖の物にならなければならないのです。すなわち、堕落していない善の父母の物にならなければなりません。その次に、善の子女の物にならなければならないのです。

 

13 完全な復帰においては、「私」一人だけが復帰されてはなりません。天と「私」が一つになり、外的な万物と完全に一つになって、「これは天の物だ」と言える立場を決定したあとにこそ、「私の物だ」と言える位置に立つのです。自分の物である前に神様の物にならなければならず、さらに真の父母の物にならなければなりません。そうでなければ自分の物になりません。「私」がもっている物をそのような位置に引き上げ、公的関係を経なければなりません。「私」を通した物質的関係を結ばなければならないのです。そのためには、小さな物質的関係よりも、より大きな物質的関係の基準を経て、大韓民国を復帰できる基盤をつくらなければなりません。

 

万物の恨を解怨してあげる真の主人

14 人間が万物の霊長という特別な価値をもって生きる条件とは何でしょうか。万物より先にあり、それ以後にも永遠に存在する神様の心情をもつことです。神様の心情をもてば、何よりも先立つことができます。中心、すなわち根と関係を結んでこそ、人間の価値が決定されるのです。それがすなわち心情です。

この心情は、太初から神様と共にあるものです。この心情をもって号令をかけるとき、万物は、「はい、おっしゃるとおりです。ありがとうございます」と言うでしょう。そのようになっています。しかし、神様も万物も、なぜ悲しむのでしょうか。それは、この心情関係が断ち切れたからです。この断ち切れた心情関係をつなぐためのものが復帰歴史であり、復活の歴史です。心情関係がつながれば、神様に対して「あなたは私の父であり、私はあなたの息子、娘です」と言うことを否定する論理はありません。いかなる人も否定できません。父子の間の心情関係は、いかなるものによっても否定できないのです。

 

15 私たちが失った本然の基準を取り戻し、新しい理念の天国に入って暮らそうとすれば、どんな人になるべきかを知らなければなりません。造られたすべての万物は、神様と愛の関係を結んでいることを知り、それを父の影のように感じられなければなりません。事実、万物は父の心情の影のようなものです。父がもてる精力をすべて注いで造られたのです。父の手を経て造られたものなので、万物は父の代身者のように貴い価値を感じ、愛してくれることを願っています。しかし、堕落以隆、今日まで、誰もそのように扱ってはくれませんでした。ですから、嘆息せずにいられるでしょうか。ですから、聖書に、万物が喚息しているとあるのです。

 

16 嘆息する万物の恨を解怨してあげなければならない責任を負った皆さんは、一本の木や一株の草からも、六千年前にそれらを造る時の、神様の心情と創造のみ手を体恤(ぬいじめっ)しなければなりません。ですから、「主人を失ってしまい、どれほど寂しかっただろうか」と言いながら、道を歩いていて一株の草を見ても、涙を流すことができなければならず、一本の木をつかんでも泣くことができなければなりません。ここで話をする先生は、それらをつかみながらたくさん泣きました。岩をつかんでも泣き、風が吹くのを見ても泣いてみたのです。

 

17 神様が心情によって造られた天地万物を愛し、誇らなければなりません。それは、神様が愛する息子、娘が豊かに暮らせるようにするために造ってくださったものです。金銀財宝を払っても買うことのできない貴い創造物です。ところが、それがぞんざいに扱われ、無視されてきました。それで今、天地万物が嘆息しているのです。山を見れば山が嘆息し、野原を見れば野原が嘆息しています。吹きつける風さえも嘆息しているのです。

 

18 皆さんは、神様に侍る息子、娘にならなければなりません。そのあとには、神様の息子、娘の資格で万物に責任をもつ万物の主人にならなければなりません。神様の心情、六千年間、罪の多い私たちを訪ねてこられ、見捨てることなく愛された神様の心情を見習い、ありったけの愛で愛する皆さんにならなければなりません。

誰がいてもいなくても、皆さんは一株の草をつかんで、「父よ!あなたがこの草を造られるとき、このような思いをもって造られたのでしょう。この草をもっていって愛する息子、娘に見せながら、どれほど誇りたかったでしょうか。父が造られたこの草も、愛する息子、娘に自らを誇つてくれることをどれほど願ったでしょうか。そのような日を迎えることができなかったのですから、どれほどおつらかったでしょうか」と言えなければなりません。

Luke Higuchi