天聖経: 第162話
日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー
第六篇 真の万物
第二章 宇宙の根本と秩序
第三節 宇宙の秩序と公法 11-14
第四節 万物の創造と進化 1-6
11 喜びは、どこから来るのでしょうか。心の要求に体が応じるとき生じます。心と体が完全な主体と対象になって四位基台を形成すれば、心が願うとおりに体が動くようになります。そのような立場で喜びが来るのです。宇宙の原則である天運が擁護してくれるので、神様と出会える距離が次第に短縮されて、近くなるので喜びが生じるのです。
しかし、良心の呵責を感じることをして心の相対要素がなくなるときは、結局その主体までもなくなるのです。宇宙の原則というのは、主体だけがいると、対象が反対しなくても追い出す力が必ず現れるようになっているのです。それが悲しみとして現れるのです。喜びと悲しみは、「私」が原因となって生じるのです。
12 胸が痛むほど悲しいときもありますが、それはなぜ悲しいのでしょうか。どのような力が「私」に作用して悲しくなるのでしょうか。それは、この宇宙の大運勢、生命力を左右できる宇宙の公法作用のためです。ですから、この公法に一致できず反対になれば、除去されるのです。宇宙の力は押したり、引いたりします。宇宙の力の反対方向に押し出す力が大きければ大きいほど、喜ぶことができないのです。
夫婦が一緒に暮らしていて、一人が先に死ねば、涙を流します。それは、宇宙の公法に不合格の基準となれば、宇宙の公的な力がその人を押し出すようになり、そのようになれば悲しみの強度が高まるからなのです。それでは、喜びはどのように生じるのでしょうか。宇宙の公法に一致する自分になれば、宇宙の力がその人をかき抱こうとします。その力が大きければ大きいほど強く抱き締めるようになり、強く抱けば抱くほど、その人は内的な中心に入っていくので、喜びが来るというのです。ですから、悲しみと喜びは、自分自身から始まるのではありません。これは力の原則、すなわち宇宙の公法を中心として起こるのです。
13 共存する宇宙を見つめれば、そこには必ず和合作用と反発作用があります。和合作用はより大きなところに和合しようとします。皆さんの心も和合しようとするのですが、より大きなところに和合しようとするのです。和合するのに、ただするのではありません。回りながらするのです。二つの小さなものが、互いに好きで合わさろうとすれば、どうなるべきでしょうか。「私」自体が自分を越えて、相対を包むことのできる力があってこそ、一つになるのです。自分を越えて大きな力で抱こうとするものがあってこそ、一つになるのです。自分よりも小さくしようとするところでは、絶対に一つになりません。自分を越えてより大きなものを抱こうとする互いの作用をもてば、それは宇宙力が保護します。それが主体と対象の関係です。
14 痛みとは何でしょうか。私たちのすべての器官において、バランスを取る、ある一面が破壊されたとき、それを早く是正しなければ、宇宙が「お前は現在、共存原則の基準において不合格者だ」と言いながら追い出すのです。その追い出す力のゆえに痛みを感じるというのです。
それでは、悲しみはなぜ起きるのでしょうか。同じです。「私」自身が平和な境地で体と心が一つになり、環境と一つになって、宇宙のより大きな世界に前進していくのに和合する場に立てば、そこでは宇宙が保護してくれるのです。宇宙の全体世界において互いが連結され、共存できる連体的作用圏を形成していれば、互いが相応する立場で保護してくれるのですが、そこに相反するときは、必ず宇宙力が追い出すのです。これが悲しみに連結されるのです。
15 宇宙には、相対理念を備えていない存在は、存続することができません。相対理念を備えた人は保護します。必ず保護してくれるのです。ですから、男性と女性が永遠の愛を中心として一つになって生きようとするときは、全宇宙が保護するのです。前後、左右からこれを侵犯する者はいません。体に授け受けする道があるのですが、病気になるのは、その一つが詰まっているからです。プラスとマイナスの道が塞がっているのです。塞がっていれば、宇宙の不合格者です。
相対理想を備えていてこそ保護するのですが、そのようにできなければ、不合格となったその割合に応じて一気に追いやるのです。激しく追いやる作用が痛みとして表れます。押せば痛むでしょう。病気のゆえに痛むのではありません。宇宙力のゆえに痛むのです。「お前が授受作用できず、主体と対象の和合関係を構築しないからだ。お前の体がこの詰まったものを取り除いて和合させなければ、宇宙の廃棄物処理場に入るのだ」と警告するのです。宇宙は和合するものを保護するようになっているのです。
第四節 万物の創造と進化
1 今まで学者たちにとって、進化論が正しいのか、神様の創造が正しいのかということが問題でした。愛の概念がある前に、先に進化の概念がありましたか。どちらが先でしょうか。進化の概念が先ではありません。愛の概念が先にあり、そのあとにそれがあったというのです。ペア・システムの宇宙が先に生じ、その中で形体的な構造が合うものが進化論形態として合っていただけであって、根本がそうだからそうなったのではありません。
進化より愛の概念が先
2 すべての鳥の種類は、形態が似ているとしても、種は区別されます。すずめとほおじろが夫婦になって子供を産むことができますか。できません。アメーバから人までは何千段階の種の区別があるのですが、これを無視して一度にさっと人が出てくることができますか。アメーバから人になるまでは、何千段階を越えて連結されなければならないのに、自分勝手に連結することはできません。とんでもないことです。種の区分は絶対的です。概念が先か、実在が先かというとき、実在が先だと言って唯物論が出てきたというのです。ですから、真の愛だけがすべてのものを連結できるのです。
3 今日、進化論が事実か、造化の創造が事実かということが大きな問題になっています。進化論の方向性は、誰が決定するのですか。自分が決定しますか。発展するその物質が決定できますか。また問題は、それ自体が理想圏と関係を結べる力をどのように育てることができるか、さらに、生み出せるか、プラスさせられるかということです。それは、神様によってのみ可能なのです。そのような問題は、科学も解明できません。物質にもやはり人の欲望のようなものがあるのですが、その欲望の方向は神様と一つになることです。それが目的です。ここにおいて宇宙のすべての元素の総合的存在、物質世界の代表が人間なのです。
4 神様は人間の主体です。被造世界全体の主体です。このように、作用の中心となる方を神様と呼ぶのです。今日、科学者たちは、「この宇宙は力でできている」と言います。しかし、力が存在する前に作用があるという事実を知らずにいるのです。主体と対象があって作用があるという事実を知らずにいるので、混乱が生じるのです。
5 環境圏内に存在する物は、必ず主体と対象の関係をもつようになっています。それは、必然的条件です。そうでないものは、このすべての宇宙の力、自然の力が追放するのです。すべての存在物、鉱物世界から動物世界まで、いくら微小なものだとしても、それらが願うのは、神様の愛を受けられる対象、実体の構造物になることです。
元素は、愛の元素になって鉱物に吸収され、鉱物は、愛の元素を引き入れて植物に吸収されることを願うのです。神様の愛の対象の位置まで、人間まで訪ねていくのです。人間の中でも、人間の愛の器官まで行くのが目標です。もしそのようなものがなければ、生物は存続できません。低級のものは高級の存在に吸収されるようになっています。吸収されることによって、自分の価値やレベルが高い存在に上がっていくのです。
6 力の公式的な原則を見れば、入ってくる力と、出ていく力は同じでしょうか。力が入ってきて作用をしたのに、入ってくる力と作用をしたあとの力が同じということがあるでしょうか。ここには消耗が起こります。運動をすれば消耗が起こるのです。ですから、入ってくる力と出ていく力が同じということはあり得ません。作用したあと、力はいつも小さくなるようになっているのです。進化論者は、作用すれば力がもっと大きくなると言います。そのような公式はありません。そのようになれば、この世の中はひっくり返ります。ですから、第二の力が必要なのです。