天聖経: 第118話

日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー

第五篇 真の家庭

第一章 神様のみ旨から見た真の家庭

第三節 家庭は真の愛の訓練場 15-23

第三節 家庭は真の愛の訓練場

 

家庭を中心とした三対象の愛

15 神様は愛の神様です。その神様の愛が人間の中で父母の愛として現れ、夫婦の愛として現れ、そして子女の愛として現れます。いくら優れた人だとしても、男性は女性を求めていくものであり、女性は男性を求めていくようになっています。そうして、子女を生まなければならないのです。

 

16 神様のみ旨は、創造目的の完成であり、創造目的の完成は愛を中心として行います。その愛は、どのようにして完成されるのでしょうか。言い換えると、愛を中心とした創造目的の完成は、いかにして成就されるのでしょうか。それは四位基台の完成です。ですから、原理の本で創造目的の完成を、四位基台の完成だといったのです。

それでは、四位基台の完成とは何でしょうか。父の愛は母の愛であり、母の愛は父の愛であり、父母の愛は子女の愛であり、子女の愛は父母の愛であり、兄弟の愛です。すべてが一つです。愛はどこにでも通じます。縦的に見れば三段階になっているのですが、平面的な基準では、互いが一つに統一されます。そこはどこでしょうか。父母です。父母が中心です。ですから、父母の愛を中心として男女の愛が一つになり、その次には神様の愛が一つになるのです。

 

17 完全な夫婦の愛が完成すれば、一つの球形のように四方が丸くなります。幸福と満足は、愛の要素に接するところでのみ可能です。愛を除けば、すべてのものが終わります。「統一原理」では、創造目的の完成は四位基台の完成ですが、父母の二人だけが完成しても駄目だというのです。その父母が一つになって神様の愛が臨在すると同時に、その神様の愛が父母を通して子女にまで行くことができるように、絶対的に愛さなければならないというのです。

「私がこの子を育ててこそ、老いて死ぬときに気が楽だ」ということで愛するのではありません。天から出発した軌道が家庭を通じて、今後、終着点に向かう息子、娘の前に、間違いなく同じ軌道で愛の包みが移されるようにしなければならない責任があるのです。

そのようにするためには、息子、娘に対して神様に仕えることを教えてあげなければならず、神様を愛することを見せてあげなければなりません。妻は、夫と息子、娘を愛するのを見せてあげなければならず、夫は、妻と息子、娘を愛するのを見せてあげなければなりません。それを統一教会では三対象の愛の完成といいます。

 

18 愛が自分から訪れる道理はありません。愛というものは、相手から訪れるのです。相手がいなくなるときは、愛が訪れることができません。神様も私たち人間を中心として見れば、相対的です。男性には女性も相対的であり、また父母には子女も相対的です。愛というものは相手がなければ成り立たないのです。それを統一教会では三対象の愛といいます。

三対象の愛を体恤きない人は、神様の愛を体験したという位置に立つことはできません。「神様がアダムとエバを造っておいて喜ばれたように、私も息子、娘を生んでそのように喜ぼう!」というのが「統一原理」の教えです。

アダムとエバを造っておかれて、「これから世界を主管するだろう。私たちの家が世界の中心家庭になるだろう。早く大きくなれ、早く大きくなれ!」と言いながら、神様は、希望をもって保護、育成する中で喜びと満足を感じつつ、彼らが育って結婚することを望みました。それと同じように、父母は息子、娘をよく育て、立派な相対を選んで、良い夫婦の縁を結んであげなければならないと考えるのです。良い夫婦の縁を結んであげれば、その家は栄えるのです。

 

19 本来、アダムが完成し、エバが完成して夫婦になっていたならば、その夫婦を中心として愛が成立し、その次にはその愛の中で息子、娘が生まれたでしょう。そのように見ると、夫婦の愛が成立する前には、兄弟の愛の圏内にいながらだんだんと個人が完成し、その次には、夫婦の愛を中心として父母の愛に発展していくのです。個人は、兄弟の愛から夫婦の愛を経て子女の愛まで体験できる道を通して、初めて神様のみ前に完全な息子、娘として完成するのです。

本来、神様を中心としてアダムとエバが兄弟から夫婦になり、子女まで生んで完成していたならば、もう行くところはありません。これ以上のものがあり得ないというのです。アダムとエバが完成し、夫婦となって息子、娘を生んで、完成した父母となってその息子、娘を愛したといえる立場に立ち、神様がそのような全体を愛することによって、創造のすべての愛が出発できていたのです。

 

20 誰でも育つときは、男性や女性、兄や弟、妹として一軒の家で育ちますが、生理的に見るとき、あらゆる生活が異なります。男性たちは開拓精神が旺盛で荒々しいのですが、女性たちはおとなしくてつつましいのです。女性たちは、動かずに愛を受けようとし、垣根の中だけで生きようとします。ですから、その二人が一つにならなければなりません。そのようにすれば、父母の心情圏を中心として子女の心情圏、兄弟の心情圏の上に、夫と妻の心情圏が爆発するのです。

 

21 兄弟のように愛し、兄弟として互いに愛し合う相対になって、夫婦の愛を完成するようになれば、互いに離れようとしても離れることができません。そのようになれば、父母の心情が実を結び、兄弟の心情が実を結び、そして男性と女性の心情が完成して、神様の創造理想である愛を中心として一つになるように直行するのです。愛の道は直短距離を通るので、直線です。曲線では行きません。

その二人がどこに行ってぶつかるかといえば、垂直に行ってぶつかります。男性が一歩進めば、女性も一歩進み、結局、離れたくないのでぶつかるようになります。愛することにおいて、男性は女性に負けたくないと思い、女性も男性に負けたくないと思うので、対等な立場になります。家庭には愛の核があり、ここに父母の愛が結ばれ、兄弟の愛が結ばれ、そして、夫婦の愛が結ばれているのです。

 

22 愛が全体の基準に符合できる根本なので、相対性をもった夫や妻がいなければ、神様のみ前に完全な存在として、完成した合格品として立つことができません。父母がいなくても同じであり、子女がいなくても同じです。息子だけでも娘だけでもいけません。

なぜ息子だけいる人は娘を生みたいと思うのですか。息子だけ生んだ人は娘を下さいと言います。それはなぜでしょうか。相対性をもっているからです。人は父母の愛、夫婦の愛、そして子女の愛の中にいなければなりません。父の愛も受けてみなければならず、母の愛も受けてみなければならず、そして夫の愛も受けてみなければならず、妻の愛も受けてみなければなりません。息子を愛してみたり、娘を愛してみたりしなければならないのです。

 

23 父母、夫と妻、息子と娘が本来の位置にいることが天宙の公法です。それが宇宙を構成する理想的で根本的な標準なので、これに完全に符合するとき、その内容と完全に一致するとき、うれしく思うのです。この原則に符合できないときに不幸が宿るのであり、その原則に完全に符合するとき、喜びがやって来るのです。この原則に符合することが善なのです。そして、この善にプラスする人が善の人であり、悪を増加させる人と、善を減少させる人は悪の人なのです。

Luke Higuchi